欧米心霊行脚録

第 五 信

クラスノヤルスクからモスコー迄

 七月二十三日の車内生活は、すこぶる平凡なものでした。案内記によりて、風光明媚を予想していたイニセイ河も、昨日見たアンガラ河に比べると、景色としては遙かに劣り、又クラスノヤルスクの町も、人口九万と称する割合に、お粗末な感を与えました。沿道の風光も、決してすてたものではないが、相も変らぬ白樺、エゾ松の森、相も変らぬ野生の花、相も変らぬロシアの売店――旅客達は眼にも、腹にも、そろそろ食傷した気味で、昼間から午睡をむさぼる向きも多いのでした。

 翌二十四日にも、ほぼ同様の旅路で、どこがどこやら、そろそろ区別がつかなくなって来ました。が、さすがにオムスク市だけは、記憶にきざまれています。オビの左岸に高低起伏して建てられた美しき家並やなみは、たしかに、少なからず旅客の眼を慰むるに足りました。モ一つオムスクでうれしかったのは、その構内食堂で、ビールの杯を挙げたことで、久しぶりにこれはうまいと思いました。近頃は少し旅慣れがして来て、いくらか悠然と構えて、時間の許す限り、停車場の附近をぶらつき、手真似でタバコや絵はがきを買ったり、物を食ったりする位の度胸ができてきたのです。

 翌くる二十五日の旅で、感興を惹いたのは、スウエルトロヴスク、即ち元のエカテリンブルグであります。露帝ニコライ二世一族が、過激派の毒手にたおれた所だそうで、停車時間が三十七分もあるので、ゆっくり下車して歩るきまわって見ましたが、別にこれぞと目立つ何物もなく、ロシア人は、例によりてきたない服装なりをして、ノンキそうな顔をさらしてるのでした。

 ここではウラル産のルービイだの、その他いろいろの土産物を売っていましたが、とびつくほどのものは、あまり見常らないようでした。仕方がないので、われわれは食堂で、トマトを鱈腹食って引上げました。

 ここからそろそろウラルの山越ですが、一たいに緩傾斜で、到る所人家があり、又耕作地があるのですから、黙ってれば、何人も、これがウラル山だとは気がつかぬ程度で、ただ亭々たる樅の木が、到る所に聳立しょうりつしてるのが、単調なシベリアの景色に飽き飽きした旅客の眼に、愉快なる印象を与える位のものでした。

 二十六日の朝眼をさませば、われわれは既に欧露の平原を、ひた走りに走りつつありました。この辺になると、到る所に里あり、牧場あり、そして田舎道を走り行く荷馬車などが、折ふし車窓から認められるのです。

『モウ一日でモスコーに着くのだナ。』

 そう思うと、シベリアの旅が、何だか飽気なく済んでしまったような気がしました。

 大体においてシベリアの旅――少くとも夏のシベリアの旅は、案外に気楽な、そして格別躯にこた えないものでした。一日二日は、やや窮屈に感じましたが、慣れて見れば、うして車窓から移り行く景色をながめて、ポカンとして一日を暮らすことが、人間当然の生活であるような気持がして来ます。して到る所に売店あり、売子あり、又不味まづしといえども食堂あり、口腹の慾を充たすにも、さして不便を感じません 。しそれ小卓子を前にして、筆を執ったり、書物を読んだりする気持は、へんな書斎に坐ってるよりも、却ってましな位のもので、私のうした記事なども、随時随所に車内で書きなぐったものです。

 汽車の内部なかの友達は、とても船のようには親みができませんが、しかしそれでも、相当懇意になったのがありました。特に日本に長くた、パリの保険屋さんとは、毎日二三時間づつ話し込みました。先生なかなかの愛嬌者で、誰を見ても話しかけ、特に女性と見れば、決してただでは置きません。相手がし妙齢のロシアの女ででもあると、わざと先方の解し得ぬ英語などで、顔から火の出るような、露骨な戯談じょうだんを言い、相手がケゲンな頗をしてるのを見て、大いに歓び踊るというような剽軽ひょうきんなまねをします。

 こんな気軽な男が、案外神霊主義の熱心家であったことは、すこぶる私を驚かせました。支那からワルソーへ帰るという、一人のダンス教師を捕えて、私がワルソーの大霊媒クルスキイの話をしてきかせたのが、導火線となり、乗客の多くが、急に心霊現象に興味を持ち、ハルピンから同乗した久米さんなども、ロンドンへ行ったら、是非有力な霊媒を紹介してくれなどと言い出すようになりましたが、しかし心霊問題に関して、前々からすでに相当の理解と、知識とを準備していたのは、実にあの保険屋さんでした。ドイルやロツジの書いたものなども読んでり、心霊現象に対して、懐疑的の態度を取ろうとする者でもあると、私に代りて、大いに諭戦に力めてくれました。『矢張り時代は変りつつあるな……。』と、私は心に力強く感ぜざるを得ませんでした。

 ウラルを越えて、モスコー迄の二日間には、これはと目立ったことがありません。一つ二つ簡単に摘記すれば、一寸面白いと思ったのは、ヴャトカの白樺細工、それは日本の箱根細工と同巧異曲で、巻タバコ入れなどに、なかなかよく出来たのがありました。それから東部ロシアで、特に良いなと感心したのは白堊はくあの尖塔――到るところの村落には、必ずニョキと大空を指す寺院の尖塔がありまして、それが、青々と波濤はとうの如くゆるく起伏せる大牧場の末などに、遙かに浮び出た光景は、正に一幅の絵であります。

 いや、シベリアの旅も、相当鼻につきました。私自身がそろそろ書こうとする気がない位ですから、読者の方では、尚更なおさら読む気がないにきまってります。で、この辺で、記事は飛行機以上の大速力を出して、一気にモスコーまで飛びます。

 七月二十七日の午前九時、汽車は徐々と、松林につつまれた郊外住宅地帯を貫いて、予定の如くモスコーの北停車場につきました。

(三・七・二八)


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クラスノヤルスク迄

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