欧米心霊行脚録

第 三 信

大連からハルピン迄

 七月十八日の朝大連を立って、私はいよいよ長い長い汽車の旅にのぼりました。が、道中の長い割合に、私の記事はそう長くはないつもりです。単調そのものの車内の生活、又車窓から眺める雄大平板な山河の景色、これをだらだらかれた日には、読者の方で、汽車の旅以上に退屈してしまいましょう。

 金州、得利寺、蓋平、熊岳城、大石橋、遼陽……いずれも、日清日露の戦役で、それぞれ中年の日本人の頭脳の底に、深く深く刻みつけられた地名ですが、汽車で素通りする身には、詳しいことは判りません。ただ見る、何所までも大海原のように緩いうねりをもって、果てしもなく拡がる大平原、それを刷毛で青く彩るものは、五六寸から一二尺にのびた高梁コーリヤンの若葉、めったに他の野菜だの、穀類だのは見当りません。樹木も一向になく、ところどころに、アカシアの森や、柳の木立がある位のもので、そして木立の蔭からは、ペチャンコの支那人の家屋が、ちらちらのぞかれます。

 狭い箱庭式の島国から、初めていわゆる大陸なるものに出掛けて来た身は、飽かぬ興味をもって、このすこぶる殺風景な、しかしいかにものんびりした光景をながめました。私は、眼前の光景を骨子として過去、現在、未来にわたりて、はてしもなく、思いを東西南北に馳するのでした。内地にては、国と国との関係などは、シックリと身にしみませんが、一たん外に出て見ると、国と国、国民と国民との現在の関係の、いかにも不完全であることが、ず痛切に感ぜられて仕方がないのでした。

 私は車窓にもたれて、独りつくづく考えました。人類の文化が進んだなどと言ったって、要するに、人類はまだ世界的封建制度の鉄索でしばられてる。その証拠には、われわれは旅行券なしに、一歩も海外旅行ができないではないか。んな窮屈な世界に、何で真の文化の花が咲き、真の平和の果実が結ばれるであろう。人類の先決問題は、ず現在の体のよい封建制度の打破であらねばならぬ。それには執るべき道が常に二つ存在する。甲は武力的解決、乙は精神的解決であるが、この二つは常に相伴うて進まねばならぬ。人間が霊性と獣性との合成体である以上、そうすることはけだし絶対に必要である。

 きにわが日本国は、もって武力的解決を試みた。それは日清役であり、日露役であり、又世界大戦の参加でもあった。そのお蔭で、東洋の封建制はある程度まで打ち破られ、われわれは現に南満鉄道のお客様となり、長春まではノンキな顔で旅行もできる訳だ。が、土地の所有、又は租借問題などとなると、一向解決されてらず、広漠たる原野は、ほとんど無人の境にひとしき状態を呈し、それが蒙古に進み、北満に進み、シベリアに進むに従って一層はなはだしい。その原因は何かというに、それぞれの国が、旧式な封建的領土慾に捕えられ、いたずらに門戸をとざして、世界の人類、世界の同胞としての雅量にとぼしいからに外ならぬ。

 これが誤りである所以ゆえんを学術的に、又信仰的に、世界の人類に説ききかせるのは、勿論むろん今後の生きた思想家、宗教家、特に神霊主義者スピリチュアリストの神聖なる任務の一つであらねばならぬ。神霊主義が真に徹底し、真に普及すれば、世界の人類は断じて人口の過剰だの、植民地の不足だの、食糧の欠乏だのを憂うるには及ばぬ。大地は最初から、自分の懐裡に収容しきれぬほど、沢山の人間を生みつけていはしない。それがそうでなく見えるのは、主として世界的封建制度が布かれているからで、この問題に比すれば、かの労資問題だの、政治問題だのそもそも末の問題である。世界各国の真正の門戸開放! どうしても、これが今後人類の大目標であらねばならぬ。日本も、支那も、蒙古も、シベリアも、北米も、南米も、濠州も、印度も、アフリカも、一としてその選に洩れてはならない。それは天意であって、慾張り根性で割り出した人為の小細工とは違う。

 理論は正にこれに相違ないが、しかし実際問題となると、現在の人類の発達程度では、容易にこれが実行はむずかしい。就中なかんずく打算と詭弁とに富める支那人、アメリカ人等ときては、はなはだ始末がわるく、なんとかかんとか屁理窟へりくつをつけて、いつまでも地上に封建制度を布かうと努める。こんな連中に向っては、ちょっと神霊主義者も手がつけられない。

 そこで是非とも必要が起って来るのは、武力的解決である。

 私は好んで危言を吐くのではないが、最も冷静に観て、現世界は、支那に於ける事実上の門戸開放を楔子せっしとして、武力的解決の幕を開かんとしてるではあるまいか? しそれが、現世界の封建制度打破の為めに、止むことを得ざる一の道程であるならば、神霊主義者は、これに向って不賛成を称えてはならない。それどころか、いかに巧妙に武力的解決を施すべきかを指示してあやまらざるのが、むしろ真の神霊主義者の本領であらねばならぬ。何となれば神霊主義は、一の床の間の飾物でなく、何所までも人生の向上進展を期する、生きた教理であり、又生きた信仰であるから……。

 それからそれへと、取りとめもなく空想にふけってる内に、汽車はいつしか奉天の近くにさしかかりました。

『張作霖のやられたのは、あの鉄橋の箇所だナ。イヤあの事件なども、支那の現状打破の為めの、必要なエピソードであるかも知れない……。』

 私の考は、自然そっちの方へのみ、引きずられて行きました。

 奉天からは、一人の陸軍の参謀官が乗り込んで来ました。その人が、よく私の質問に応じて、車窓から奉天附近の地勢を説明してくれ、又支那の現状にきても、いろいろ物語ってくれました。『ちょっと目下は少康を呈していますが、それがつづくのは、五ヶ月位のものでしょうネ。すべては日本の腰の入れ方一つできまりますよ。』などと言って微笑を漏らしました。

 鉄嶺、四平街などを通り越して、満鉄の終点長春についたのは、午後八時頃でした。『いよいよ日本の鉄道もこれでお仕舞か。』と思うと、いささか心細く感じながら、勝手の分らぬ薄暗がりの停車場に下車し、荷物を駅に預けて、単身外面おもてへ出ました。ハルピンへの発車まで、約三時間余の余裕があるからです。

 しばし駅前の大和ホテルの納凉場に入りて、コクテルなどを嘗めながら、来客の様子を見ました。客種は日本人と、支那人と、丁度半々位で、むしろ支那人の方が品のよいのが多いようでした。

 一時間の後には、私は尚お残る時間を潰すべく、長春の一番繁華な通りを、当てもなくブラリブラリ散歩していましたが、格別目新らしいものはなく、唯ロシア人の夫婦者が露店を出して、安物の日本雑貨を売っているのが、あわれにも気の毒に感ぜられた位のものでした。『何が何でも国が負けては駄目だ。』私は痛切にそう心の底に思いました。

 午後十時半、ブラリと停車場へ戻って来ると、もうハルピン行の急行寝台車は、煙を吐いてプラットホームに待っていました。案内せられて、私の取ってある三号室に入って見ると、成るほど威張っているほどあって、華麗な装備ではありましたが、余りに洗面所、その他に手が込み過ぎてて、過ぎたるは及ばざるの感がないでもありませでした。ただ車掌その他が、いずれも片語ながら英語を喋るのははなはだうれしく、さっさと用事を弁じた上で、寝台にもぐり込んで、ぐっすり寝入ってしまいました。

(三、七、二一 チタ附近にて)


第二信: 大連の足かけ五日

目  次

第四信: ハルピンから
クラスノヤルスク迄


心霊図書館: 連絡先