欧米心霊行脚録

第 二 信

大連の足かけ五日


 神戸から大連までの船の三日間の生活は、まことに楽しい、清い、夢のような生活でありました。まるまる三日間、船体は微動だもせず、思う存分たもとをひろげて、夏の海風に吹かれ放題、お負けに船室は一人占め、食卓は理解ある紳士ぞろい、何所にも申分がありませんでした。

 が、この結構な航海もやがておわる時がきました。濃霧を外洋に避けた為めに、数時間の延着になりましたが、十四日の午後四時には、すでに私は堂々たる大連の桟橋へと横附けにされてしまいました。

 船の生活の余裕綽々たりしに引きかえ、大連で私を待ってた陸上生活は、相当多忙なものでした。座談会が二回、公開講演会が一回、個人の面会が無慮数十件、お負けに最終の一日を、旅順の古戦場めぐりと、探勝とに当てたので、毎晩十二時前に寝に就いた日とてはありませんでした。

 ず晩餐を兼ね、その座談会は、到着後二時間の後に、大連ホテルで開かれました。これは二男の勤めてる、古川電気大連支店の連中十人許の催しで、もともと心霊問題とは、すこぶる関係のとぼしい性質のものでしたが、関係のとぼしい丈、それ丈各種各様の質問の矢が、雨の如くしげく私の一身にあつまり、話の性質が、徹頭徹尾心霊化してしまいました。最初は随分突飛な質問も提出されましたが、もともと理解のよい連中のこととて、二三時間の後には、すっかりメートルが上ってしまい、『霊界との直接取引ができると聴いちゃ、こりゃ黙ってはられない。われわれも早速大連に心霊研究所の支店でも出さなくちゃなるまい……。』などと気の早いことを言う人もありました。

 兎に角古川電気の連中に限らず、大連の居住者は、概して思想信仰問題に対して、内地人よりは遙に真剣味が多く、そして捕われ気味が、よほど少ないように見受けられました。恐らくこれは境遇の相違が、大いに与かって力あるかも知れません。内地人は四六時中、せかせかした渦巻の中に出頭没頭している結果、客観的に自己をかえりみることができず、所謂いわゆる魚市に入りて魚臭を知らずの傾向があります。早い話が一寸考えて見ても、霊魂の存続を無視して祭祀を行ったり、霊界通信(即ち天啓、啓示)をヌキにして宗教を論じたりすることの、いかに無理であるかは判り切った話で、釈迦だって、キリストだって、皆そればかり行って来た連中ではありませんか! しかるにそんな事はおくびにも出さず、折角世界の心霊研究家が、五七十年にわたりて、鋭意蒐聚しゅうしゅうした貴重な心霊事実を、側から覗いて見る丈の誠意さえもなく、資本いらずの思想善導業や、精神作興業を開始して、大いに国家の為めに為すところあらんとするのだから虫のいい話で、これで思想が善導されたり、精神が作興されたりするなら、恐らく天下に亡びる国土はありません。

『全く近頃内地人は大分あわてていますね。』と、私は調子づいてのべました。『思想が悪化したというので、ヤレ信仰の鼓吹だ。言論の取締だ、国体の闡明せんめいだ……。まるで火事場さわぎです。前年乃木軍が、金城湯池の旅順要塞を陥落せしむるにしても、最後は矢張り正攻法によりて塹壕を堀り、敵の生命とする堅塁の下に爆薬を装置し、根柢こんていからこれを覆すことによりてのみ、初めて目的を達しました。日本国の現在の思想悪化は、要するに心霊を無視した、唯物思想の跋扈ばっこしていることが、その根柢こんていを為して居ます。しかるにこの根柢こんていを覆すことをせず、自分自身が依然として唯物宗に籍を置きながら、いくら騒いだところで到底駄目です。彼等は説きます――霊魂の不滅とは、その血気が子孫に伝はることだ。永遠の生命とは、その感化が後世にまで及ぶことだ……むろんこれにも部分的真理はない訳ではないが、それはむしろ副産物で、霊魂は立派に子孫の力を借りることなしに、後まで残り、永遠の生命は、後世に対する感化以外に、げんとして独立の意義を有します。その事実を正攻法で解決しようとせず、かえりみてゴマカシを講ずることは、二十世紀の科学的世界には、まるきり通用しない卑怯なやり方で、これでは、いつまでめちゃくちゃ式の突撃をくりかえしても、恐らく最後の勝利は得られませんよ。軍事問題だって、心霊問題だって、理窟りくつは同じことです。諸君はどうか正攻法で、どこまでも心霊研究の塹壕を堀りひろげ、日本国をおびやかすところの、不健全思想の堅塁を根柢こんていから覆してください。日露戦争当時の旅順の要塞と、昭和時代の赤露の悪宣伝とは、形の上では天地の相違があっても、日本を危くする点においては、全く同一ですからね……。』

 んなことを喋っただけは記憶して居ますが、他は何を言ったかはっきり覚えてりません。

 翌七月十五日は、大連には珍らしい濃雨模様で、この分なら恐らく来訪者もなく、ゆっくり執筆ができるかと歓んでいたのはホンの束の間、大連の熱心なる研究会員達から電話がかかって

『この雨天では、旅順にお出掛けになる訳にもまいりますまいから、今日は午後四時から、ゆっくり内輪のもの丈で座談会を催したいと思いますが、御都合はいかが。』ときた。うなっちゃ、勿論むろん敵にうしろを見せるべきではないので、歓んで出席の旨を答えました。そうする中にも、雨を冒して来訪者がボツボツある。多くは心霊研究者でありますが、偶に大本教筋のも混っていて、大いに面くらいました。そんなのは、知らぬことは正直に知らぬと言い、強いて意見を求めらるれば、現在の私の立場から、同教に対する卑見を述べてやりました。

 午後になってから、二三軒訪問をすます。やがて約束通り正四時に、公園の某亭に赴きますと、かねて会員名簿でおなじみの方々が、ポツリポツリ集って、やがて二十名足らずになりました。一人一人との応答を行るのには、少々人数が多過ぎますので、挨拶がわりに、二時間許り口から出任せにおしゃべりを行り、晩餐に移ってから、又それが済んでからは、主もに私の方で聴き役となり、とうとう十一時半になってから、びっくりして辞去しました。

 この座談会は、私に取りてはなはだ意義深いもので、有志の方々と、完全に意思の疎通ができたのが、うれしかったばかりでなく、大連市が有する霊媒につきて、ほぼ見当がとれる事になったのは、何より貴重なるお土産でした。私が是非一度稻數夫人を訪ねて見ようと決心したのも、実に当夜の座談が縁を為しました。

 翌れば七月十六日、午前七時半というのに、早くも若林夫人の来訪を受けました。前晩の約束で、霊媒の稻數夫人の許に私を案内してくださる為めなのです。大連に熱心家は多い中にも、この若林夫人などは、特に斯道しどうの熱心家で、三人の稚なきお児達の慈母として、又満州の野に刻苦農園を経営さるる良人の内助者として、寸暇なき身でありながら、心霊問題に対して甚深の理解を有ち、これが為めには、いかなる犠牲をも払わんとしてらるる、雄々しき覚悟は誠に見上げたもので、いたずらに浅き時代の浅き潮流に押し流さるるをもって能事とする、内地の軽薄なる巾幗きんかく者流の、到底足許にも及ばぬところと痛感されました。

『こんな婦人を生む、満州の植民地の前途は、たしかに有望だ。この分ならきっと勝てる……。』

 私はそう腹の底で独語したのでした。

 稻數夫人の能力につきては、ゆっくり調査の上で、又申上げることにしましょう。ここではただ、同夫人がよほど恵まれたる霊媒的天分の所有者の一人であることをのべるにとどめましょう。年齢は今年四十一の痩ぎすの婦人でした。

 それから再び若林夫人に導かれて、同夫人の実家たる川上さんのお宅を訪問し、昼餐のもてなしに与かりながら、北満に於ける林檎栽培、その他一般農事の現状、並に将来につきて有益なるお話を伺いました。

 私が川上氏を辞して大和ホテルに戻ったのは、午後の三時でした。一二の訪問者に接している内に四時となったので、直ちに程近きキリスト教青年会館に赴きました。これは有志の発起で、其所そこで公開講演を行う事になってたからで、私の講演の標題は『神霊主義スピリチュアリズムと古神道』というのでした。要は心霊研究から神霊主義へ、又神霊主義から古神道へ、の何人も辿らねばならぬ道順を説いたもので、要するに、私の平生の持諭を、大連の先覚者達に向って、直接訴えたに過ぎませんでしたが、百名内外の聴衆は、きわめてまじめに耳を傾けてくれたようでした。この日大連は、非常に呼物の多い日で、米国大学選手対内地国体のベースボール競技やら、修養団の発会式やら、東京大相撲の乗込みやらで、いやが上に人気を沸騰せしめていたにも係らず、飽までじみな私の一人講演に、これまでの来会者があったのは、殆ど予想外の感がありました。

 以上で、私の大連滞在の処迄は、大体尽きました。十七日には私は次男を携えて旅順に赴き、爾霊山203の頂点に立ちて、心ゆくまで往年の追憶に耽りました。帰途星ヶ浦の名勝をさぐり、ホテルに帰りついたのは、モー六時過ぎでした。

 私がいよいよなつかしき大連にわかれを告げ、十余名の親しき人達に送られて、シベリアに向って出発したのは、その翌十八日午前八時十分でした。

(三、七、二〇、ハルピンより満州里に向ふ汽車の内で)


第一信: 門司まで

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第三信:大連からハルピン迄


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