欧米心霊行脚録

出発前記


 私のロンドン行がいよいよ十日以内に迫って来ましたので、今朝は折から降りしきる細雨を衝いて横浜に出張し、旅行免状を貰って来ました。午後はいささか少閑を得たので、平常のとおり机の前に坐って、ペンを執って見たところですが、どうもこれと言って纏った考えも浮びません。

 一体筆を執るのに、うした際はあまり感心した時機ではないようです。足一歩本国を離れたら、或は首をめぐらして、瞑想にふけって見ると言った気分になれるか知れませんが、目下はそれどころではない。ヤレ告別だ、ヤレ役所手続だ、荷造りだ、んだ、んだ……。これではさっぱりお話になりません。

 しも私が昔のように、多少文学的若くは感傷的の気分でも持ち合わせていたなら、うした際にも、或は相当感興の種子たねを見出し得たか知れませんが、近頃のように悲観も楽観も、得意も失意も判らない、まるきりの唐変木となってしまっては、どうにもしょうがありません。ロンドン行きは、単なるロンドン行きたるにとどまり、私にはそれ以上に何の詩思も感想も浮びません。

 強いてボンヤリしている天窓あたまの底を叩いて見ると、矢張そこに徂徠そらいしているのは、心霊研究サイキック・リサーチ神霊主義スピリチュアリズムとの関係、ただしは神霊主義と日本の伝統的思想との交渉と言ったような事柄ばかりです。イヤハヤ人間もうも色気が失せては、いよいよお仕舞です。

 実をいうと、私も英文学専攻の人間丈あって、若い時分には、一度是非その本国へ行って見たいと熱望したものです。そして一、二度その機会がめぐりかけたのですが、どういうものか、ことごとくペケとなり、もって今日に及んでります。

 英文学者として内地に居据はり、神霊主義者として初めて外国に出掛けるなどということは、全然予想外の話で、自分ながらおかしく感じます。

 が、そんな愚談は今更ここに並べて見てもはじまらない。出発前の現在の私としては、矢張り有りのままに自分のはらうちをさらけ出して見ることにしましょう。後になったら、これでも幾らか思い出の種子になるかも知れません。

 今回私が英国出張を発表するにつけて、第一に必要を感じたのは、『スピリチュアリズム』の日本式術語を研究することでした。従来の私はあれか、これかと迷い、これに対して『新霊魂説』だの、『新精神主義』だの、『心霊主義』だの、『神霊主義』だのと、さまざまの名称を与えました。さぞ皆さまは目まぐるしく感じられたことと存じます。

 此等これらの用語には、それぞれ一長一短がありまして、どれも『スピリチュアリズム』の主眼の一端に触れては居ますが、しかしどれもその全精神を言い表わし得て、遺憾いかんなしという訳にまいりません。そこが私の迷った点ですが、補永博士などとも熟議の結果の最後に、『神霊主義』という言葉を採用することに決定しました。今後は絶対にこれを用いることに致します。

 く私が『スピリチュアリズム』の訳語に、長い間迷った結果、気の毒にも各方面の人々に飛んだ誤解を惹き起させました。就中なかんずく一ばん滑稽なのは、一部の人々が、今回ロンドンで開かるるスピリチュアリストの大会をば、あたかもそれが心霊研究者の大会ででもあるように誤解し、福来友吉博士が日本のスピリチュアリストを代表して、これに参列するようなことを報道する新聞雑誌もありました。

 御承知のとおり、心霊研究と神霊主義とは、密接不離の関係をっていますが、両者の性質はすっかり違います。心霊研究は純然たる一の科学であり、正確なる実験実証の結果を、有りのままに突きつける丈であります。神霊主義は右の結果を取り入れ、これを基本として組み立てられたる哲学であり、又信仰でありますから、当然すべての心霊研究者が、神霊主義者になるという訳にはまいりません。

 就中なかんずく催眠術、又は心理学の方面から心霊研究に志した人々は、在来の惰性、又は一の迎合的気分から、なるべく一切の心霊現象を、人間に具はる精神力に帰せんとします。それが所謂いわゆる万有精神説アニミスムであります。福来博士などもその一人と見受けられます。従って同博士が日本の神霊主義者スピリチュアリストを代表する筈もなく、贔屓ひいきの引倒しにあずかった同博士は、さぞ苦笑してられるでしょう。

 無論精神説が、部分的真理をってることは、疑いのなき点で、これによりて在来神仏の御加護などと称して、迷信の材料に供せられてた心霊現象の一部分が、合理的に説明される事は、われわれも承認するにやぶさかなるものではありません。

 が、精神説で、一切の心霊現象を説明しようとする時に、大変な無理ができ、個人の精神力を摩訶不思議なものに祭り上げてしまい、結局一の迷信鼓吹に陥ってしまいます。心霊現象の一部は、是非とも交霊説スピリティズムもってせねば、とても説明がつきません。

 われわれの唱道する神霊主義は、精神主義だの、交霊説だのと言って、単にその一方のみを主張するような、偏狭な真似まねはしません。その大きな懐裡ふところに、右の二説を楽々と抱き込んでるばかりでなく、キリスト教でも、仏教でも、ただしは神道でも、いやしくも心霊科学の研究の結果に合一する所は、ことごとこれれ、しからざる所は、容赦なくこれを棄てます。おもうに二十世紀の新人の思想信仰は、是非これでなければ、けないと信じます。

 んなことは、拙著『心霊講座』中にも、くりかえしくりかえし説明したことですから、読者諸君の中に、この点の理解のない方は、絶無と信じますが、広く日本国の社会を見渡すと、イヤハヤ一切五里霧中の人ばかり、外国の識者に知られたら、お恥かしくて耐らぬようなことを、得々として説いてる腐れ学者、腐れ宗教家、腐れ操觚者そうこしゃ、腐れ霊術屋の輩が多いのだから、心細くなってしまいます。

 ツイ近頃も、私の手元に某という名士から、一通の手紙が舞い込みました。その要点をのべると曰く、『西洋の神霊主義なんぞ、幼稚極まるもので、死後霊魂の存続だの、顕幽の交通だのということは、三千年以前に、大聖釈迦がすでに唱破してるところだ。あなたがロンドンの大会へ臨んだら、その事を西洋人にきかせて、大いに東洋人の為めに気焔を吐いてください……。』

 これを読んだ時に、私はその人の好意を感謝すると共に、余りにその無理解なのと、迂遠うえんなのとに唖然あぜんたらざるを得ませんでした。昔の人を引張り出して、それで現代人の信仰をつなぎ得るなら、世話はありませんが、それができなくなったのが現代人で、彼等はどこまでも、科学的にしらべ上げたる事実を基礎とし、それから帰納的に結論したことでないと、絶対に受けつけないのであります。その結果、既成宗教のすべてが、生命を失ったのであります。

 現代人が、無宗教無信仰に陥ったのはたんずべきですが、しかし彼等が宗教を求め、信仰を求めないのではありません。いかに求めても求めても、何所にも自己の理性を満足せしめ、自己の研究心を満足せしむるものがないので、泣きの泪で、止むなく無信仰なのであります。その責任の大部分は、何人にあります? それが古人の糟粕そうはくを嘗めることより外に、何の執着のなき既成宗教者の罪でなくて何でありましょう! すべては、ただ生きた事実、生きた力、生きた研究のみが、他を動かし得ます。自分には何の芸当もなく、三千年も前に死んでしまった、親玉の威光を笠に着て、威張ろうとする……。そんなさもしい根性のもちぬしが、何で信仰問題、思想問題にくちばしを挿む資格がありましょう!

 ここに一人の貧乏な男がて、『自分の先祖は、昔百万長者であったから、先祖の信用で、無抵当で百万円貸してくれ』と、どこぞの銀行に申込んだとしたら、その銀行でよしよしと言って、その百万円を貸してくれるでしょうか? 心霊問題に対する何の理解も体験もなく、いたずらに釈迦、キリスト、弘法、日蓮等をかつぎまわるだけの連中は、正に右の虫の良い借金申込者にそっくりであります。

 無論信仰は各人の自由で、いわしの頭を信仰しようが、お釈迦さんをかつぎまわろうが、それはその人の御随意であるが、しかしいやしくも他人に向って信仰を説こうとする者は、それではけない。何はともあれ、心霊問題に関しての、充分の準備丈は必要でありましょう。神仏を説き、安心立命を説くものが、物質的現象世界の知識丈でお茶を濁そうとするのは、あまりに無精過ぎ、虫が良過ぎましょう。

 近頃よく世界各地に、宗教連合大会見たいなものが開かれますが、彼等はそもそも何を基本として連合するつもりでしょう。宗教の根本生命である所の、心霊問題には全然触れようとせず、現世的手続上の問題などに、いくら相談を重ねて見たところで、果してどれ丈の効果がありましょう。こんなことで、純真なる宗教心が勃興したり、危険思想が撲滅したり、国民精神が作興したりするものなら、修行三昧に渾身の精力を傾注した釈迦、キリスト、弘法の輩は、よほど迂遠なキマグレ者であったと謂わねばなりますまい……。

 ここまで書いた時に、のっぴきならぬ用事が出来ましたので、いかにも尻切トンボですが、しばらくここで筆をきます。  

(三、六、三)


 

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