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三尺坊と才一郎

二十八 遺骸いがい埋葬まいそう

 澤井さわい才一郎さいいちろう霊界れいかいとの交渉こうしょうをはじめ、ついまった霊界れいかい人物じんぶつとなるまでの顛末てんまつみぎとおりで、余談よだんぞくします。

 肉体にくたいほろびても霊魂れいこんなぬ……むかしからそのはなしはきいてはても、体験たいけんのない人々ひとびとにはなにやらちぬ節々ふしぶし存在そんざいしますが、去年きょねんから今夜こんやまで才一郎さいいちろう中心ちゅうしんとして間断かんだんなく続出ぞくしゅつしたきた現象げんしょう眼前がんぜん目撃もくげきした人達ひとたちりては、そのこと最早もはや問題もんだいではないのでした。柳田やなぎだ泰治たいじがその感想かんそうをのべてうち

皆々みなみななみだとも打伏うちふし、御礼おれい御祝儀ごしゅうぎ申上もうしあ云々うんぬん。』

とあります。いかに関係者かんけいしゃどうむね永遠えいえん生命いのちとおとさがふかくきざまれ、いかに一かなしみのうちにあっても来世らいせ光明こうみょう赫灼かくしゃくとして光明こうみょうはなちつつあったかは明白めいはくであるとぞんじます。

 よく十四には、しらむのをちて泰治たいじ国家老くにがろう渡邊わたなべ対馬守つしまのかみやしき出頭しゅっとうしました。これは三尺坊さんじゃくぼうからおうせつけられたとおりおふだはやくおしろおさむべき手続てつづきをするめでした。

 対馬守つしまのかみ泰治たいじるより、

『さてさて早朝そうちょう出頭しゅっとう――秋葉様あきばさまのことか?』

こえをかけたのでした。

左様さようござります。じつはこれこれの次第しだいで……。』

 泰治たいじ涙止なみだとめあえず、夜前やぜん始終しじゅう物語ものがたりますと主人しゅじん対馬守つしまのかみをはじめ、ききるもの一にんとして落涙らくるいせぬものはなかったということです。

 やがておふだのことを申上もうしあげると、

今日こんにち早速さっそく大納言だいなごんさま申上もうしあげ、そのうえことにて……。』

という返答へんとうでした。

 十四夕方ゆうがた才一郎さいいちろう遺骸いがいちち才亮さいりょうたくうつされました。十五にちには泰治たいじまた対馬守つしまのかみやしき出頭しゅっとうしておふだけんたずねますと、対馬守つしまのかみは、

『おふだ今日こんにちにもすぐおさめてもらいたい。――大納言様だいなごんさまには昨日きのう一伍一什いちぶしじゅうことをおききになり、そのような次第しだいなら、才一郎さいいちろう生前せいぜん是非ぜひおうってきたかったとおうせられ、たいそう残念ざんねんがられて御座ござった。』

とのはなし泰治たいじ感涙かんるいにむせび、

『それをきいて才一郎さいいちろうもさぞ霊界れいかいよろこんでることでござりましょう。ただしおふだおさめのは、十六にちまで地穢ちけがれにて神慮しんりょほどおそろしくござれば、十七にちにおおさめをねがぞんじまする……。』

『それはもっとものじゃ。では明日みょうにちまたって殿様とのさま申上もうしあげることにいたそう。』

 才一郎さいいちろう遺族いぞくは十五にち六ツどきもっかたごと澤井家さわいけ代々だいだい墓地ぼち西春日井郡にしかすがいごおり上小田井かみおだい法源寺ほうげんじ埋葬まいそうされました。おふだ御供物おくもつ御幣ごへいはこおさめて泰治たいじから対馬守つしまのかみ手元てもとまで差出さしだされたのは十七にちのことで無論むろん藩主はんしゅ難有ありがたみぎ品々しなじな頂戴ちょうだいになったということです。

*    *    *    *    *    *

 これでこの記録きろくおわりであります。ういうものか、そのあと澤井さわい大変たいへん逆境ぎゃくきょうにあります。ちち澤井さわい才亮さいりょう名古屋市なごやし西区にしく沢井町さわいちょうめる町医者まちいしゃで、澤井さわい祖先そせん同町どうちょう開拓者かいたくしゃなるがめに沢井町さわいちょうばれたほど旧家きゅうけでありながら、維新後いしんご才亮さいりょうぼっしていえなく、才一郎さいいちろういもうと一人ひとりのこれど澤井家さわいけてるだけ資産しさんなきめ、西春日井にしかすがい農家のうかとつぎ、これめに澤井家さわいけは一断絶だんぜつするにいたりました。才一郎さいいちろうはは同人どうにん仙去せんきょ当時とうじすで死歿しぼつしてたのでした。

 が、嫁入よめいきでいもうとんだ男子だんしが、その澤井家さわいけ再興さいこうすることになり、いまでは中区なかく白川町しらかわまち借家しゃくやして帽子屋ぼうしやいとなみ、いえには秋葉山あきばさんからいただいたおふだ(八所の一)を奉祀ほうしし、琢堂様たくどうさま家運かうん再興さいこう祈願きがんしてるということです。

 澤井家さわいけばかりか、柳田やなぎだおいても太郎馬たろうま政寛まさひろ歿ぼっしてあと嗣子ちゃくしなく、その未亡人みぼうじんが七十余歳よさい高齢こうれいもっひとりさびしくいえまもってるそうであります。

 それにしても神去後かみさりご才一郎さいいちろう神霊しんれい今日こんにちうしてるか――これは心霊しんれい研究者けんきゅうしゃのひとしくききたいとおもてんでありましょう。二なん卓齋たくさいあに政寛まさひろおくれる大正たいしょう十二ねんがつ日附ひづけ書面しょめんるとチラリと片鱗へんりんだけはうかがわれます。その書簡しょかん要領ようりょうだけ摘載てきさいしましょう。

明治めいじ元年がんねん旧正月きゅうしょうがつ当時とうじ十三さい卓齋たくさい宮町みやまち丁目ちょうめ古衣商ふるぎしょう三輪みわへいろうとも秋葉山あきばさんもうで、もと奥院おくのいん東面とうめん行場ぎょうば現秋葉寺げんあきばでらよりおよそ五)にった。ここにお籠堂こもりどうあり壽信ひさのぶという行者ぎょうじゃたが、このひとは一かい生米なまごめつぶしょくとし三尺坊さんじゃくぼうとも談話だんわまじえるひとであった。卓齋たくさいは一週間しゅうかん物断ものだちをなし、朝夕あさゆうすんばかり厚氷あつごおりやぶり、茶碗ちゃわんにて水行すいぎょうし、琢堂たくどう権現ごんげん拝謁はいえついのったが満願まんがんがく空中くうちゅうきこえ、バラバラいしくようなおとがして、ゆめ琢堂たくどう出現しゅつげんし、遠路えんろわざわざ大儀たいぎなりとった……。へいろうはそのとき万円まんえん財産ざいさんができるように祈願きがんし、こののぞみかなえば樹木じゅもくったり、小商売こしょうばいをしたりすることはめるとちかったが、のち数年すうねんにして願望がんぼう成就じょうじゅし一万円まんえん財産ざいさん出来できたけれど、誓約せいやくそむ木曾きそ材木ざいもく巨利きょりはくしたばつえて幾何いくばくもなく不幸ふこうつづきで、最後さいご熱病ねつびょうんだ。子孫しそんもすっかり零落れいらくしていまでは名古屋市なごやしぼう株式店かぶしきてん雇人やといにんをしてる……。

 明治めいじ元年がんねん十二がつ卓齋たくさい横町よこまち鳥屋とりや主人しゅじん江戸えどき、三島みしま宿しゅくとまったがそのときゆめ琢堂たくどう姿すがた出現しゅつげんし、せっかく勤学きんがくせよとのおはなしがあった……。』 ―(終)―


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(終)


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