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岩間山人と寅吉

 三十八 人間にんげんには人間にんげんみち

 あるだれかが冗談じょうだん半分はんぶん寅吉とらきちむかい、

おれはこのなかいやになったから、一つこれから山人さんじんにでもなろうかとおもう。おまえやまかえときに、是非ぜひおれことれてってくれないか』

もうしました。すると寅吉とらきちはそれをけ、ずまいをただしてそのひと説諭せつゆしました――。

山人さんじんになりたいなどとはもってのほかわる了簡りょうけんだ。神様かみさまいてはこのなか人間にんげんほどとうとものはない。山人さんじん天狗てんぐなどの境界きょうかいかじって自由じゆう自在じざいそらでもあるくことばかりかんがえるのは、大変たいへん鼻元はなもと思案しあんというもので、人間にんげんはこのて、このひとあたまえことつとめねばならぬ。山人さんじん天狗てんぐなどははいりが身軽みがる自在じざいだというばかり、山人さんじんには日々ひびぎょうがありてくるしく、天狗てんぐとても同様どうようなかなかほねれるものである。それゆえやま人達ひとたちかえって人間にんげんうらやみ、人間にんげんというものはらくなものだとってくらいである。此方こちらからは彼方あちらうらやみ、彼方あちらからはまた此方こちらうらやむ。兎角とかくそうしたものかもれないが、そのみちはいってれば、何事なにごとでもらくなものではない。わたし師匠ししょうにしろ、そのほか山人さんじんとなり、天狗てんぐとなれる人達ひとたちにしろ、なにかのふか因縁いんねんがあるからったまでのことで、みずからこのんでったわけではけっしてない。そういうわたしなども、小児こども時分じぶんからのことかんがえてるに、とても不思議ふしぎことばかり、これが因縁いんねんというものであろうとおもう。自分じぶんからだでありなが自分じぶん勝手かってにもならず、今日きょうにも明日あすにもむかいがれてかれるのか、それともこのまま此地こっちることになるのか、なになにやら薩張さっぱ見当けんとうれはしない。それゆえときには心細こころぼそくなってのよだつこともある。ドーかんがえたところでまるでゆめだ。しかしかくも、一たんったからは、天道様てんとうさまのお指図さしず次第しだいまたやま師匠ししょう思召おぼしめし次第しだい自分じぶんではドーにもコーにもやうがない。それに、あなたがた自分じぶんからこのんでやまりたいなどとはらざる好事ものずきというものだ。それよりは人間にんげん相応そうおうつとめをだい一とし、おこないをただしくして、死後しごには神様かみさまにまでもるようにこころかためるが肝腎かんじんだ。

『一たいこの一かぎらず、すべてよそことうらやましがるのは感心かんしんしない。仏法ぶっぽう信仰しんこうしたがるなどもその流儀りゅうぎだ。日本にほんというくにほとけくにではなくかみくにで、われひととうとかみ末裔すえであるから、なんでもかみろうと心掛こころがくべきだとおもう。方々ほうばうやしろまつってある神様かみさまだとて、もと人間にんげんであったものが沢山たくさんある。それにほとけになりたがるのは、丁度ちょうど山人さんじん天狗てんぐりたがるのと同様どうようはなしで、じつるい心掛こころがけだ。坊主ぼうずがいくら戒名かいみょうなどをくつつけたとて、天竺てんじくほとけ末裔すえでないからほとけれるものではない。かみ末裔すえだから、くてもわるくてもかみとなるのだ。これはももからももえ、うめからうめえるとおな理由わけだ。何所どこまでも人間にんげんは一生涯しょうがいつうじて善念ぜんねんとお善神ぜんしんとなるのがむべきみちだ。世間せけんではよく、最後さいごの一ねんで、善悪ぜんあくせいくなどとってるが、なかなか最後さいごの一ねんだけではそうはかない。矢張やは生涯しょうがいの一ねんのかためによりてかみにでもなににでもなれるものだそうな。物事ものごとつね成就じょうじゅするものと心得こころえて、おもめてりさえすればできぬことはない――これは、師匠ししょうから毎日まいにちのようにきいてることがまったくそれに相違そういない。』


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