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岩間山人と寅吉

 七 もの

 やまときははあにくもおもいましたが、さて帰宅きたくして見ると思白おもしろことばかりはありませんでした。就中なかんずく什麼どうしても調和ちょうわにくいのは信仰しんこう相違そういで、寅吉とらきちいえは一向宗こうしゅうかたまりなものですから、ははあに庄吉しょうきち寅吉とらきち毎日まいにち太神宮だいじんぐう御玉串おんたまくしたななおしておがむのを大変たいへんきらい、けがらわしいとてしおらしたりにかいたします。寅吉とらきちまた寅吉とらきちで、仏壇ぶつだんきたならしいとってつばきかける始末しまつ双方そうほうみだれて喧嘩けんか口論こうろんらすようになりました。

 寅吉とらきちやまからかえときに、天気てんきけんするしょだの、薬方やくほうしょだの、そのいろいろの記録物きろくものってましたが、そんなものはははあにとにみな焼棄やきすてられてしまい、かの師匠ししょうからたまわった大事だいじ佩刀はいとうさえ古鉄ふるがねかいばされるという散々さんざんいました。

 ははあに人並ひとなみはずれた頑固屋がんこやであったには相違そういありませんが、寅吉とらきち娑婆しゃばらすにはあまりにやまなか生活せいかつぎ、あまりに人間にんげんばなれのした教育きょういくぎてました。だい寅吉とらきちあたま毬栗いがぐりで、当時とうじ習慣しゅうかんからえば随分ずいぶん異様いようえたに相違そういありません。おけにそれが日数にっすうるにれて放題ほうだいび、一けん出来損できそこねの熊坂くまさか長範ちょうはんたようにりました。

 ンな我儘者わがままもの何時いつまでもうちにばかりあそばしてくものでもあるまいというので、寅吉とらきちは七月にはいりて野郎やろうあたまで、ある商家しょうか奉公ほうこうにやられましたが、勿論もちろん普通ふつう町家ちょうか歓迎かんげいするはずはありません。れい世間せけんばなれのした言動げんどう間断かんだんなき嘲弄ちょうろうたねとなり、言目ことめには馬鹿ばか馬鹿ばかののしられ、とうとうならずしてお払箱はらいばこにされました。

 が、さすがはひろ江戸えど市中しちゅう、これほどの変物かわりもの永久えいきゅう埋木うもれぎにしてはきませんでした。上野うえの下田しもだといういえ奉公ほうこうってときそのころ博識ものしりとして有名ゆうめいな、前記ぜんき山崎やまざき美成よしなり見出みいださるることになりました。

 『こいつァ近頃ちかごろ堀出ほりだものだ。ンなところ丁稚でっち小僧こぞうにコキ使つかうのは勿体もったいない。わしところ食客しょくかくとして引取ひきとることにしよう。』

 寅吉とらきち山崎やまざき美成よしなりもと寄寓きぐうすることになったのはンな縁故えんこからでありました。

 寅吉とらきち評判ひょうばんはそれから次第しだいたかくなりました。かれ当時とうじ学者がくしゃ好事者こうじしゃとうからきもらず質問しつもんけられ、当人とうにん寅吉とらきちよりは保護者ほごしゃ義成よしなりかえって自慢じまんはなたかくしました。とうとうその風評うわさ当時とうじ神道しんとう学者がくしゃとしてとりおと平田ひらた篤胤あつたねおうみみにまではいることになりし次第しだいは、すでべたとおりであります。

 平田ひらたおうはすっかり寅吉とらきちの一夕話せきばなしんでしまい、かた再会さいかいやくしてったのでした。


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