心霊図書館 > 「心霊研究とその帰趨(神霊主義)」

心霊研究とその帰趨

十三、神霊主義の四大綱領

 私は前章において、つとめて端的に近代心霊研究の結果から帰納しえるべき条項を、ほとんど何の工夫も又何の秩序もなく、ただ順々に数え立てて見た。念の為にここにモー一度それ等を書き列ねて見ると――

(一)心霊現象は科学的事実である。

(二)いかなる異常現象も自然の法則の現われである。

(三)各自は自我表現の機関として各種の媒霊を有する。

(四)各自の個性は死後に存続する。

(五)各自は永遠に向上進歩の途を辿る。

(六)死後の世界は内面の差別界である。

(七)各自の背後には守護霊がる。

(八)守護霊と本人とは不離の関係をつ。

(九)幽明の交通は念波の感応である。

(十)超現象の各界には種々の自然霊がる。

(十一)高級の自然霊が人類の遠祖である。

(十二)最高級の自然霊が事実上の宇宙神である。

(十三)宇宙の万有は因果律の司配しはいを受ける。

(十四)宇宙の内部は一大連動装置を為している。

(十五)全大宇宙は物心一如いちにょの大生命体である。

 く列記して見ると、いかにも山から発掘したままの鉱石が磊々落々らいらいらくらくとして地上に転がっているようなもので、そのままではほとんど手がつけられない。うあってもモー一度これを溶鉱炉に入れて精錬を施した上でなければ、もって人生の指導原理とするに足りない。私は思い切って、これからそれを試みようと思う。くれぐれも断って置くが、これは私の溶鉱炉、私の頭脳に入れての精錬なのであるから、それがはたして最後のものであるか否かは、今のところまだ不明である。勿論むろん私とすれば、専心思いをこの問題に潜むることここに十有八年、いささか微力の限りを尽したつもりである。従って私として、これに対して相当深い自信を有っていることはここに言明をはばからない。単なる議論のめの空疎な講論や、先入主せんにゅうしゅに捕えられた時代錯誤の反対説や、曲学阿世式のお座なり説法や、自己の小主観で固めた研究不足の一家言的主張や、そう言った種類のもので容易に動かされるには少々念が入り過ぎている。が、前にものべた通り、地上生活の第一階段を登りつつある所の不完全な人間の仕事には、どこにいかなる手落ち、いかなる誤謬ごびゅうが潜んでいないとも限らない。で、私は衷心から誠意ある識者の力瘤の入った徹底的指教を歓迎する。私はこの種の問題が、たッた一人や二人の手で完成を期すべき筋合のものでないことを信じて疑わないものである。

 兎に角私はここで早速自分の手に成れる綱領を発表することにするが、それは哲学、科学、道徳、宗教の観点から考察の結果左の四ヶ条に分れてる。即ち(一)大自然主義(二)大生命主義(三)大家族主義(四)敬神崇祖主義である。そして此等これら四大綱領を総括するところの代表的名称が取りも直さず神霊主義なのである。表示すれば左の通りである。

 神霊主義 (一)大自然主義(哲学的)
(二)大生命主義(料学的)
(三)大家族主義(道徳的)
(四)敬神崇祖主義(宗教的)

 

 何等の用意なしに、卒然としてこれに対すればあるいは腑に落ちなく思わるる方もあるか知れぬが、しばらく純白紙の態度で、これから私の試みる説明を、一応聴き取って戴きたい。賛否の決はそれからでも決して遅くない。

 

 神霊主義の名称――順序として私はず神霊主義の名称にきて説明せねばならない。神霊という文字は古来の慣用語であるが、神霊主義という熟語を用いたのは恐らく私をもっ嚆矢こうしとする。従ってこの言葉の意義内容につきて説明することは当然私の責任に帰する。

 私のかかげた十五ヶ条を仔細に検討された者は、それ等のすべてを一貫して流るる中心の思想が宇宙生命の認識であることにお気がつかれたことと思う。物心一如の生命観――これが実にわれわれ心霊学徒の思想の中心骨髄なのである。そのしか所以ゆえんは特に前章の第三条及び第十五条等において反覆説明したところであるから、読者も最早もはやこれに対して疑議は懐かれぬ筈である。ただし宇宙並に宇宙の万有を一の生命と観ずるのは、あくまでひややかな科学的見解である。その中には少しも宗教的又は道徳的の情念が籠っていない。人間に科学ははなはだ必要だが、しかし人間は到底科学の一面のみでは生きられない。われわれが科学の力を借りて深遠しんえん奥妙おうみょうなる宇宙の真相を一段深く探れば探るほど、おのづとわれわれの心胸しんきょうの奥に、人間以上の、より神聖なもの、より偉大なもの、より根本的なものに対する崇敬讃仰さんぎょうの純情が油然ゆうぜんとして湧き出ることを禁じ得ない。すくなくともわれわれ心霊学徒としては、造化の祖神を、太陽系の主宰神を、偉大なる自然霊を、又国家民族の祖霊を、単なる生物として遇する気分にはドーしてもなれない。私の所謂いわゆる神霊主義なる文字はその結果として必然的に湧き出でたもので、その中には宇宙生命観も、何も彼も、ことごとく含まれているのである。私にはいかにどう考えても、これ以上にすべてをふッくりと、過不及なく包んだ言葉が見当らないのであるが、恐らく大多数の方々も、私の所見に賛同してくださるのではなかろうかと信ずる。

 おこれはいささか枝葉に属するが、私が神霊主義なる標語を選定したにつきては他にも一つの理由がある。他なし西洋のスピリチュアリズムの代表的邦語としてこれが一番妥当であると感ぜらるることである。神霊主義とスピリチュアリズムとは根本の趣旨において全然一致する。即ちどちらも物質科学並に心霊科学の両面にわたりての研究の結果を充分に取り入れ、一切の先入主せんにゅうしゅ、一切の利害の打算等を排除して、もって新規蒔直しに一の健全なる人生の指導原理を樹立せんとしているのである。無論民族の相違、又環境の相違のめに、些末さまつの点に関しては、両者の主張に幾分の喰いちがいがないでもない。又同一事を述ぶるに当りても自からそこに力点の置き所が違うのである。これ等につきては後で改めて検討を加えるつもりであるが、兎に角私の提唱する神霊主義と西洋人士の主張するスピリチュアリズムとが大体において一心同体であることは確かで、私として知己を世界に求むる時に他にこれ以上のものは到底見当らないのである。要するにスピリチュアリズムは西洋の神霊主義、神霊主義は東洋のスピリチュアリズム、と思えば実際的にはほとんど差支さしつかえないのである。この際神霊主義なる文字以外にはたして他により良き代表語が見当り得るか。すくなくとも現在の私にはいかに考えても思いつき得ないのである。

 神霊主義の四要素――神霊主義の名称にきての説明はしばらくこれ丈にとどめ、次に私の選んだ四大綱領の説明に移るべき順序になったが、私はず何故に神霊主義の内容をかく四つに分類せねばならなかったか、その理由を簡単に説いて置きたい。私の観る所によれば、われわれ人間生活の根本的要素は、大別して四つの方面に分れる。ほかでもない、それは哲学、科学、道徳、宗教である。此等これら四方面の要素の中どれ一つでも欠ければその人は完全円満なる人格の所有者とは言われない。無論各自の境遇及び性情の不同のめに、力点の置き所はそれぞれ違い、その結果各自の専門も分れるのである。しかしながら職業は職業、人格は人格、前者のめに後者を犠牲に供することは到底できない。し強いてそれを行えば社会人生はたちまち滅びてしまう。試みに哲学ヌキの科学者、科学ヌキの道徳家、道徳ヌキの宗教家、と言ったようなものを想像して見るがよい。それは到底一の生きた人間ではなくして、むしろ純然たる機械であり、バケモノである。く考えた時に人生の指導原理をもって任ずる神霊主義が此等これら四大方面の要素を具備することは、当然過ぎるほど当然の次第ではあるまいか。即ちすべてを包括して一つに集めれば神霊主義、これをそれぞれの方面に応じて四つにわかてば、あるいは大自然主義となり、あるいは大生命主義となり、あるいは大家族主義となり、あるいは又敬神崇祖主義となる。いずれもその根本の意義において何等の相違があるのではない。ただその現われにおいてそれぞれ特色を有してるに過ぎない。私はそう行かなければ、いかなる教義もいかなる主義、主張、学説等も到底活社会の活指針たる資格はないと思う。従来世界の人類が、あるいは主として倫理教育に走ったり、あるいは主として宗教教育に馳せたりしたのは、畢竟ひっきょうその視野が余りに狭く、その見識が余りに低劣だっためであろう。人類はそんな幼稚不徹底な状態から一時も早く脱却すべきである。活きた人生は到底そんな切売きりうり式のやり方では収まりがつかないのである。

 これでいよいよ各綱領の説明に入るべき段取になったが、これは前章において列挙した十五ヶ条の再整理に過ぎないから仕事が比較的容易である。

 大自然主義――ず哲学的観点から神霊主義をのぞいた時に、それは当然大自然主義ということになる。私の所謂いわゆる大自然主義というのは、大自然の法則をあくまで厳粛に尊重することを意味し、老子の所謂いわゆる道、日本神道の所謂いわゆる惟神かんながらの大道などと大体同一で、畢竟ひっきょう大自然の一切の相をことごとく一糸みだれざる不変性の理法の現われ、換言すれば物心一如いちにょの大生命体の機能の因果的表現であると観ずるのである。従来自然主義という言葉は一部の論者によりてすこぶる狭い特殊の意味に解せられたが、私の所謂いわゆる大自然主義はもちろんそれと同一視されては困る。

 すでに大自然主義が宇宙の万有の裡に内在する活きた自然の法則を規準として進む立場にある以上、従来唱えられて来た主義、主張、学説、教理等のるものと全面的又は局部的衝突を免れないことになるかも知れない。例えばかの神秘主義――これは神秘を神秘として、自然法則の適用以外に置こうとする、反自然主義であるから、われわれはこれを取らない。勿論むろんわれわれは人智をもって、宇宙間の神秘不可解の分子を全部除き得たというのではない。が、われわれはそうした分子を、できる丈除き去るべく、永遠の努力をつづけるのをもって、人間の本分と考えるのである。近代心霊研究がその覚悟で進んだばかりに、どれ丈迷信分子を人間の社会から除き去ったか知れぬ。『いかなる異常現象も自然の法則の現われである』――これでこそ世の中が初めて明るくなる。神秘主義はその反対で、うっかりすると迷信の鼓吹、既成宗教擁護の傀儡となる虞がないとも言われない。例えば又かの物心一如の自然の大生命の半面のみを認めようとする各種各様の唯物思想と唯心思想――これもまた共にわれ等の与し難き所である。何となれば何等かの物ヌキの心、何等かの心ヌキの物というものは絶対に存在せぬというのが、大自然界裡の根本義となっているからである。しそれかの経典をもって、かの自己の崇拝する祖師の言行をもって、又かのドグマだらけの神学をもって、すべてを律せんとする一切の迷信的集団の蝉噪せんそう蛙鳴あめいの類にいたりてはもとより問題の限りでない。

 細説すれば限りもないからここでこの条項の説明をおえることにする。お不審の点あったら、是非モ一度前章にかかげた十五条の中、特に第二条、第三条、第九条、第十三条、第十四条、第十五条等を精読してもらいたい。

 大生命主義――ぎに科学的観点から神霊主義をのぞいた時に、当然これを大生命主義と解釈することが最も適切である。この事は既に神霊主義という言葉の意義の検討に際して説用してしまっているから、再びここに繰り返へす必要はあるまい。要するに神霊主義の真髄は、宇宙それ自体並に宇宙内面の万有一切を、一大生命の現われと観ずるところに存するので、とりも直さずそれが科学的事実なのである。すべてが生命の現われであるからここに進化があり、活用があり、希望があり、光明がある。かの物質科学とても、物質を単なる無生命の物質と観じた時代には、ほとんど行詰りに近かった。物質科学が物質に内在する微妙なるエネルギーを認め、くしびなる生命の動きを認めるようになってから、ここに初めて長足の進歩発達を遂げ、思想信仰等の方面にもその威力を及ぼすまでになって来た。今後人文の発達は正に地上の人間がどの程度までこの生命主義に徹底するか否かによりて決定するのであろう。

 大家族主義――次にわれわれが道徳的観点から神霊主義を解釈する時に、それは大家族主義という言葉で表現するのがけだし最も適当かと思う。一体家族主義というものは、単なる功利的又は人為的の約束を基本として発生したものではなく、有形無形に亘る密接なる因果関係で縛られている、人類本来の面目の現われそのものなのである。さればいかなる野蛮蒙昧の民族でも、その血縁関係者間にありては、立派に家族主義を儼守げんしゅしている。家長の無き家、酋長のなき部落は、何所にも存在しない。君民一体の民族的団結は畢竟ひっきょうこの精神の拡張であり、完成である。現在地球の表面においてその最もよき標本はけだし日本にある。万世一系の皇室を中心とせる、金甌無欠きんおうむけつの日本の国体は、正に一の活きた模範を世界の民族に垂れてると称しても恐らく自画自賛ではあるまい。

 しかしながらわれわれは単に一国内丈にしか適用しない家族主義の謳歌者で満足してはならない。いやしくも家族主義が人生指導の正しき原理であるならば、それは当然国境を越え、人種の区別を越えて各大陸に、つづいて世界全体に拡充普及すべきである。私は神霊主義の立場から考えてその実現の必然性を確信するものである。問題はそれがいかなる形式を取りて進展するかである。思うにかのウイルソンの提唱せる国際連盟の組織は、恐らくこの世界大家族主義を理想としたものであろうが、おしかな彼は実行の順序を誤った。肝腎な自分の居住する米大陸にさえ、何等具体的の連盟組織が出来上っていないのに、ドーして一気呵成的に、世界大連盟の完成を期し得ようか。小から中に、中から大に、一つ一つそれぞれの中心を作り、それぞれの組織を作り、首尾連関一糸みだれないのが、宇宙の万有を通じてあやまらざる法則である。天体もそうして出来、細胞もそうして組み立てられている。連盟組織のみがドーしてその例外であり得ようか。果せるかな、国際連盟は年と共に露骨にその無力を曝露しつつある。酷評すればあれはただ一の烏合の集団に過ぎない。ウィルソンが世界の人類に一の有力なヒントを与えた功績は充分認むべきであるが、あのままでは到底家族主義の秩序立った普及徹底は望まれない。

 私の所謂いわゆる大家族主義の何であるかはこれでほぼ明瞭にされたと思う。くれぐれも言って置くが、家族主義の最も大切な要素は、その一糸みだれざる連動装置である。中心と周囲との過不及なき釣合いである。有形無形精神物質にわたりての切っても切れぬ因果関係である。この真意義が徹底するに連れて世界の人類は一歩一歩に混沌たる現下の難局を打開すべき方策を見出すであろう。他の地方の事はしばらく問題外とし、すくなくともわれわれはせめて東亜の天地に、強力なる一大家族主義的連動装置の完成を目標として精進努力すべきであろう。今頃お依然として、児戯に類するお国自慢や、排他主義などに捕われているのは、全然沙汰の限りである。

 ここで一言断って置きたいのは、大家族主義という言葉と、世界同胞主義又は人類愛主義などいう言葉との相違である。多くの宗教団体をはじめ、西洋のスピリチュアリズムでさえもが、世界同胞主義を大切な標語として使っているが、私は断じてこれに与することはできない。家族主義には組織があり、統一があり、中心があるがあるが、同胞主義には全然それがない。同胞主義はあくまで平面的、羅列的、悪平等的等であり、従ってこの精神で進んだ時に、縦令たとえ千万年を経るとも世界の人類は何等渾然たる組織的体系を造る見込はないと思う。神霊主義は断じてそんな空疎な標語に惑わされてはならない。

 敬神崇祖主義――いよいよ最後に、宗教的観点から神霊主義を考察する順序になったが、それは矢張り敬神崇祖主義という言葉で表現するのが、平凡ではあるが、しかし最も適切かと思う。この事は前章にかかげた十五項目の中、特に第七条、第八条、第十条、第十一条、第十五条等を観れば明白であろう。日本の伝統的思想は『人は祖に基き、祖は神に基く』と教えているが、近代心霊研究の結果は、この言葉が正しく科学的事実に相違ないことを実験的に証明する。この点において、日本国民は世界の民族の中で、最初から最も恵まれた地位に置かれたことを感謝してよい。他の民族にありてはややもすれば敬神はありても崇祖がなかったり、又崇祖はありても敬神がなかったりする。これでははなはだ不徹底である。実際はドーあっても崇祖ありての敬神、敬神ありての崇祖でなければ駄目である。幽界以上にはわれ等の祖先の霊魂をはじめ、又人類の遠祖である所の偉大なる存在、所謂いわゆる自然霊が儼然げんぜんとして存在し、首尾連関、四通八達、もって深遠奥妙おうみょうなる造化の経綸に当りつつあることは、今日においては最早もはや一点を挿むの余地がない。試みに日清、日露、欧州大戦等の予言警告につきて考えて見るがよい。早きは十年、二十年、遅くも数十日前において、他界の居住者達から、キチンと人間界に伝達されてるではないか。ただこの一事を以ってもわれわれ人間と祖神祖霊達との密接な関係が推定されると思う。『評論の評論』の主筆であった故ステッドの霊魂の通信の一節に『天下公共の仕事において、全部の人間は、自分以外のる力――先天的に人間に結びつけられている、る力と考とによりて、意のままに駆使せらるる操人形に過ぎない』とあるが、事実それに相違ないようである。先天的に人間に結びつけられている、人間以外の力と考とは、勿論むろん他界の居住者、祖霊と自然霊のことである。造化の機構がかく連動式に出来上っている以上、われわれ地上の人間が、人間以上の力と考の所有者達に崇敬の誠をささぐべきは正に当然の次第ではないか。そうした時にのみ人間は初めて存在の意義を有し、又そうすることによりてのみ人間は初めて真の力徳を発揮することができる。

 ただし敬神崇祖の意義を曲解し、もしくは濫用して、かの漫然たる無批判的迷信の材料に供せられてはたまらない。心霊研究の結果からすれば、自然霊にも又人霊にも、大小、高下、善悪、賢愚等無数の階級があり、従って人間が矢鱈なものを崇拝することは大々的禁物である。自然霊中の一部は低級未発達のイタズラ者で、全く箸にも捧にもかからない。ただ優れたのが途方もなく優れてるまでである。人間の霊魂だとて、生前良いものは良く、生前悪いものは悪いのである。死は万事の解決でも何でもない。死はただ物質世界から超物質世界への一関門に過ぎない。従ってわれわれは死者に向っていたずらに余り多くを期待してはならない。ただ我等の優秀なる祖霊中には、現世生活に比して遥かに理想的なる境涯において、百年千年にわたりて不断の精進努力をつづけた結果、しばしば驚嘆すべき識見力量を発揮するようになっているのがある。彼等が帰幽後同一地点に足踏みしていると考えることは非常な謬見びゅうけんである。彼等は決して呉下の旧阿蒙きゅうあもうではないのである。われわれの所謂いわゆる敬神崇祖が、もちろんそう言った優れた自然霊、優れた祖霊を崇敬の対象とするものであることはここに言うまでもない話である。

 ここに忘れてならないことは、この敬神崇祖主義という言葉の半面に、報本反始ほうほんはんしの意義が多量に含まれていることである。善くても悪くても本は本、祖先は祖先である。根をつちかわずして枝葉の繁茂することは、到底期待されない。ここに祭祀の本義がある。人間がその眼を単に上方にのみ向くるのは、決して醇乎じゅんこたる宗教心の発露とは言われない。人間の眼は同時に下向に向ってもまた注がるべきである。仏教が特に済度、慰霊、供養等に力点を置いているがめに、一般民衆の間になかなか根強く勢力を張っていることは、深く留意すべき事柄であると思う。

 以上で一先ひとまず神霊主義の四大綱領――大自然主義、大生命主義、大家族主義、敬神崇祖主義――につきての解説をおえる。しそれ此等これら四大原則を、いかに人生百般の事物――例えば政治、経済、教育、農商工業、軍事、文芸等の諸方面に活用すべきかに至りては、おもむろに今後の精緻なる討究思索に待たねばならない。現在の私は単にこの基礎工事だけの提唱をもってしばらく満足することとする。


 スピリチュアリズムの綱領と批判――最後に私はここに西洋の神霊主義――スピリチュアリズム――の七大綱領を紹介し、彼我の異同にきていささか比較研究を試み、もって本稿の結末をつけるつもりである。

 スピリチュアリズムの綱領として最も古くつ最も一般に普及してるのは、十九世紀末に現われた英国の霊媒エムマ・ハアディング・ブリテン夫人を通じて他界の居住者から指示された例の七ヶ条である。即ち――

 (一) 神は万有の祖である。

 (二) 人類は皆同胞である。

 (三) 人間の個性は死後に存続する。

 (四) 幽明間に交通があり、人類は天使の司配しはいを受ける。

 (五) 各人各個の責務がある。

 (六) 生前死後を通じて因果応報がある。

 (七) 人類は永遠に向上する。

 私がこれまで説いた所を精読された者に取りて、右の七ヶ条が大体皆首肯しゅこうさるべき性質のものであることは少しも疑問の余地がないと思う。泥沼のような神学的ドグマの横溢おういつせる世界から、かくも清新の気に充ちた指導原理が生れたということは正に人文史上の一驚異で、丁度沙漠の中にオアシスが発見された観がある。が、同時に烱眼けいがんなる読者達逹はその短所をも観破かんぱし得たと思う。その最大の短所は、けだし指導原理としての充分の組織が出来上るところまで洗練されていないことで、その点何やら素人臭い、何やら未成品らしい感じを与える。これは欧米の識者達もつとに認むる所で、彼等とて、右の七ヶ条がスピリチュアリズムの指導精神を道破し尽して遺憾いかんなきものとは、決して思って居ないのである。何にしろ右の七ヶ条の現われた時代がすでに相当古く、そろそろ再整理の必要に迫られているのではないかと思われる。

 兎も角私はこれから各条につきて順次一瞥を与えつつ卑見を加えて行くことにする。

 神は万有の祖――第一条は、神は万有の祖であるというのであるが、スピリチュアリズムの解説者として有名なハンソン・ジィ・ヘー氏はこれにつきてう解釈してる。――

『すべての物は、可視と不可視とに係らず、ことごとく統体の神の一部分である。われわれは神から出たのみでなく、又実に神と一体なのである。従ってわれわれは神と能性的には同質である……丁度火花が中心の火元から飛び出るが如く、われわれは宇宙万有の無尽蔵の宝庫たる、実在の火から放射されたる一閃光である。万有はその根本において一元である。故に神はわれ等の中にあると同時に、われ等は神の中にある。しもすべてを神とするのでなければ、宇宙間には二つの存在―ー神と神にあらざるものが発生する訳で、それでは神の無限ということが当然一の囈語げいごとなる。われわれはすべかららく卑しき野菊の花にも神の手を認め、ささやかな雲雀ヒバリの歌にも神の声をきき、要するにわれわれは神の在さぬ所には決して存在し得るものでないことを認知すべきである。われわれはあくまで分離の観念が誤謬ごびゅうであり、協同一致が宇宙の要石であり、大自然の第一原則であり、又真宗教の基本であることを学ぶべきである……。』

 西洋人の説明として、これなどは正に上乗のもので、神と悪魔との対抗運動を説くような、旧式神学者流などの到底及ぶところでない。が、おしむらくは論者は神の絶対無限性、仏家の所謂いわゆる『無』のみを認め、その無から出発する陰陽二元の動的方面に充分の注意が届いていないようである。これは是非とも東洋思想の花ともいうべき易、老子、又は日本神道思想等をもって補充すべきである。この不完全な一神観又は一元観ごうつかりすると生み出す所の畸形児はかの悪平等思想で、その弊害は実に怖ろしい。果せるかなその欠点は直ちにスピリチュアリズムの第二条に現われている。

 人類は同胞――第二条は、人類は皆同胞である、というのであるが、ヘー氏はこれを解してぎの如く言っている。――

『あらゆるものがその根源において神と同一体である以上、われわれは皆同一家族であらねばならぬ。相違点はただ各自の発達程度の差異である。かくして統一の原則が成立する。縦令たとえ彼が賢者であろうが、罪人であろうが、又王侯であろうが、農夫であろうが、それとも又彼女が婦徳の亀鑑かがみであろうが、街頭に色をひさぐ娼婦であろうが、すべての人は原則として共通の地歩の上に立つ。本人が認めると認めざるとに論なく、誰人もことごとく宇宙の普遍体の一断片であり、又宇宙の普遍霊の一閃光である。人類同胞主義は何と確実なる基礎の上に立っているではないか。同胞主義に従えば、他をきずつけることは、畢竟ひっきょう自己をきずつけることである。同様に他を助けることは、畢竟ひっきょう自己を助くることである。』

 ヘー氏の解説はおしい所で論理的推断を誤っている。彼は各自の発達程度の相違を認め、平等の反面に差別の相の存することを立派に心得てりながら、空疎なる一元観に捕えられて、うっかり同胞主義の鼓吹に陥ってしまった。私が力説してる通り、これは是非とも家族主義を標榜せねばならぬ筈であった。何となれば家族主義の中には、立派に同胞観念を摂取し、おその上に余裕綽々しゃくしゃくとして中心観念、組織観念をも包蔵しているからである。

 現に家族主義の活きた標木はげんとして地上に存在するが、これに反して同胞主義の活きた標本は地上の何所にも存在しない。前者は実践的であり、後者は空想的である。

 もっともこの同胞主義とても、その中に半面の真理を有っていない訳ではないから、全然無用の長物だというのではない。例えば貧民孤児の救済とか、堕落した青年子女の救助とか、失業者の保護とか、いずれかといえば消極的の社会事業には、なかなか有効に働くことは確かである。が、積極的、実用的の指導原理として到底物の役に立つべくもない。恐らく七大綱領の中でこの一ヶ条が最も面白くない。

 死後個性の存続――第三条は、人間の個性は死後に存続するというので、これは私も十五ヶ条の中に掲げたものであるが、これはむしろ一の科学的事実というべきものであって、人生の指導原理ではない。現在は死後個性の存続を否定せんとする乱暴極まる盲者が、まだ品切れにならぬから、しばらくこれを綱領の中にかかぐることも、あるいは無意味でないかも知れぬが、しかしこんな変態がいつまで続くものでもあるまい。人類は儼然げんぜんたる科学的心霊事実の前に、永久に眼のさめないほどの横着者でもなかろうと思う。かくていよいよ眼が覚めた暁に、この一条などは正に無用の長物となるであろう。私は綱領の中から、成るべく早くこの一条を削り去るべき機運の到来を切望して止まない。

 幽明交通と天使の司配――第四条は幽明間に交通があり、人類は天使の司配しはいを受ける、というのであるが、これはあきらかに二つの命題の合併であって、あまり手際がよくないと思う。幽明間に交通があることと、人間が天使の司配しはいを受けることとは、その間に一道の連鎖があるにしても、たしかに別個の問題である。

 ところで、前半の幽明交通の可能ということは、これも第三条と同じく、単なる科学的事実であって、指導原理でないことは言うまでもない。しそれ天使の司配しはいいたりては、その用語がいささか不明瞭で何とも困るのである。一体天使とは何か。偉大なる自然霊を指すか、それとも優秀な人霊を指すか、それとも又両者を併せ指すのか。これにつきての心霊科学的説明が少しも施されていないのに、卒然として天使が人類の司配しはい者であると言われたのでは、何人も途方に暮れざるを得ないではないか。察する所筆者の意は、神は万有の祖ではあるが、実際の司配しはい者は優れた自然霊又は人霊だというのであろう。しかりとすれば私の所謂いわゆる敬神崇祖主義と同一で、綱領中の大綱領たる貫禄を有するのである。決して附録的に、一ヶ条の後半に、小さな一席をゆるされるべき性質のものであるまいと信ずる。

 各人各個の責務――第五条は、各人各個の責務がある、というのだが、この一条は神学的ドグマの対症療法として存在の意義を有する丈で、それ以外に余り効能はないと思う。何となれば因果の厳律をみとむる者が個々の責務をみとむることはあまりにも当然だからである。ただしキリスト教の贖罪説の不合理を力説するヘー氏の解脱には、すこぶる傾聴の価値がある。その一部を紹介する。――

『責任観念の相違――これこそはわれわれ神霊主義者とキリスト正教徒とを区別すべき明瞭な境界線である。われわれからいえばキリストの贖罪説は正に天則の違反である……悪魔的人物が一朝にして天使の列に進むべき妙術は絶対にない。何人も皆自己の内に悪魔を携えて現世に生れる。る人にありてはその悪魔は酒の形式を執り、他の或人あるひとにありては女人の形式をとり、さらに又賭博、その他の形式をとる。あらゆる誘惑者中の巨魁は自己である。自己と戦ふことを知るものは自己以外の何人でもない。彼は一たんこの大敵に破れるかも知れない。しかしそれは再び起たんがめである。過去の罪悪は自己の善行をもって消滅させる以外に絶対に消滅の道がない。キリスト教の贖罪の観念は正義の人には正に唾棄に値する。正しき人々には、俯仰ふぎょう天地にぢざる行動をもって、功罪共にその結果を、潔よく自己に引き受ける心の準備がある。キリストによりて自己の罪悪を贖って貰おうなどとは断じて考えていない。試みに思え、キリスト以前にも地上にはすでに無数の人類が住んでいたではないか。し贖罪説が真ならばそれ等の人達は一体どうしたというのか。又キリスト教徒以外にも義人、善人は沢山る。そして立派に人道のめに働き、人道のめに生命をほおっている。し贖罪説の立場からすれば、それ等の人達は永久に神の前に救われないが、これに反して最後の瞬間に懺悔したものは、生涯悪徳の限りを尽した兇暴者でも、永遠の福祉に浴し得るというか。否、否、神霊主義からいえば信仰の如何に係らず善人は善人、悪人は悪人なのである。人間はどこまでも自分の手で自分の蒔いた種子を刈り入れるのである。』

 因果応報――第六条は、生前死後を通じて因果応報があるというのである。私が掲げた十五ヶ条の中には『宇宙の万有は因果律の司配しはいを受ける』としてあるが、私は是非ともそう言い切りたい。因果律の通用は単に生前死後に通ずるのみの、部分的性質のものではない。陰陽又は物心二元の相対不離の因果的関係――これは宇宙万有全般に通ずる大鉄則である。従って因果律と神霊主義とはほとんど同格的価値を有っている。私が選んだかの神霊主義の四大綱領――大自然主義だって、大生命主義だって、大家族主義だって、又敬神崇祖主義だって、ギリギリのところまで煎じつめれば、畢竟ひっきょうそれぞれ異なれる観点から因果の理法を辿らんとしたものに外ならない。ただしスピリチュアリズムの綱領中に、兎も角も堂々と因果応報に関する一条を掲げてあるのは、欧米人としては正に見上げた見識である。神様を矢鱈に愛の権化にまつり上げて置いて、責任解除を希ふ、愚劣な迷信的態度に比すれば、正に天地の相違である。

 ヘー氏の解説の一節を紹介する。――

「人はいかに善良でも、地上生活の短い旅路の間に為し遂げた善行のめに、絶対の幸福に浴することはできない。これと同様に、いかに邪悪でも、絶対の不幸には値しない。畢竟ひっきょう人間は有限である。かかるが故に彼の地上において為し得ることは、善悪ともに有限である。この有限の善行もしくは悪行に対して、無限の幸福又は無限の刑罰を約束するおしえはなはだ不均衡であり、十全の神の観念と一致しない。スピリチュアリズムはこれと異なり、われわれが現世を見棄てる時と、そっくりそのままの状態で他界に入り、現世の課程のすぐぎの課程を其所そこで開始するのだとおしえる。』

 永遠の向上――第七条は、人類は永遠に向上するというので、これは私も十五ヶ条の一つに数えた重要項目である。唯物的人生観、又は神学的地獄極楽観等をもって、散々悩まされた世界の人類は、これでようやく前途に光明を望み得ることになった訳である。ヘー氏の解説には非常に良い個所があるから左にその一部を紹介する。――

『永遠の向上進歩ということは、死をもって万事の終りと考える人達にとりて、正に驚天動地の命題に相違ない。三次元的に事物を考えるべく習慣つけられたものにとりて、終結観は避け難いであろうが、すでにしばしば指摘したとはり、神的存在には終結がない。そしてわれわれ人間もまた神の存在の中にあるのである。われわれが一つの罪を征服する毎に、われわれが一つの弱点を修正する毎に、われわれが一つの汚点を除去する毎に、われわれは一歩向上の途をすすむのである。で、われわれは即座に行進を開始すべきで、天使になってからの事にしよう、などと考えてはならぬ。自身の内に天使を開発するのが人間の道なのである。死は進歩の途上にある一切万有の上に早晩必らず襲来する。こればかりは何物も免れない。が、死は実は生の関門なのである。厳密なる意味において、死は実は存在しない。それはより高き状態に入るめの一変化に過ぎない。流転は進化の秘密であり、発達の大発条である。一つの界の奥には、更に一つの界があり一界又一界、われわれは無限の経験を積んで行く。スピリチュアリズムのおしえに従えば、われわれは言わば霊的巡礼者で、時間、空間、物質の迷い勝ちなる網目の中をくぐりつつ、地上生活の経験中に、より円満なる来世の生活に必要なる準備をしているのである。現在われわれの中に見出さるる生命とても、そは過去世の幾輪廻の道中において獲得され、集成されたものに外ならない。自然は何物をも跳び越さない。生命の綱は単元から人間に、分子から天使に首尾連係している。今日霊魂達の踏みつつある道は、明日われわれ人間の踏むべき道である。スピリチュアリズムの見地からいえば、世界の創造は今も昔も同じく進行中である。従っていずれの日も皆神の日、いずれの場所も皆神の宿、いずれの家庭も皆神の殿堂である、汝の礼拝の形式は問う所でない。問う所はただ汝の礼拝の精神のみである……。』


 私はスピリチュアリズムの七大綱領の紹介に際して、意想外にその瑕疵かしを拾うことになったが、しかしそれは主として、綱領の表現形式に対しての批判であって、スピリチュアリズムの主張精神そのものに対しての批判ではなかった。心霊学徒として、又日本国民として知己を世界に求むる時、私は矢張りスピリチュアリズムを第一位に置かねばならぬと思う。

――(終)――



心霊図書館 管理人