心霊図書館 > 「心霊研究とその帰趨(神霊主義)」

心霊研究とその帰趨

十二、心霊研究のもたらす教訓

 私は一と通り心霊現象の種々相を紹介し、又それ等の諸現象の根抵こんていよこたわるところの内面的機構につきても、現在としてほぼ企及ききゅうし得る限りの解釈を与えようと試みた。で、烱眼けいがんなる読者諸子は、恐らくすでに容易ならざる人生の大問題に逢着したことを痛感されたに相違ないと思う。が、それが人生の大問題である丈、それ丈われわれは極度の警戒、極度のひややかさをもって、この研究がわれ等の思想、信仰、又道徳等の上に及ぼすところの、あらゆる影響を攻究せねばならない。兎角先入主せんにゅうしゅと我田引水は人間の弱点で、その結果ややもすれば、人間は折角与えられたる心霊現象の意義を曲解したり、又は単に自家の主義主張に好都合の一局面のみを強調したりして、はなはだ歪んだ結論を作成する傾向がないでもない。その弊害は特に一部の信仰団体又は思想団体の間に顕著である。そうなると、いかに立派な心霊事実でも、却って人生の帰趨きすうをあやまらしむる有害物とならないとも限らない。われわれはくれぐれもそんな誤謬ごびゅう失策に陥ってはならない。で、私はこれからかなう限り公平無私の態度で、近代心霊研究がはたしていかなる教訓をわれ等に与え、又いかなる指導原理をわれ等に指示するかを総括的に考究して見たいと思う。私は説明が煩瑣はんさわたらぬよう、成るべく問題の要所のみを摘み出して箇条書にしようと試みたのであるが、後で振り返って見るとそれは前後十五条になってることを発見した。以下順次各条につきて簡単な説明を加えて行くことにする。――

 (一)心霊現象は科学的事実である

 すでにしばしば述べた通り所謂いわゆる心霊現象と称せらるるものの中には詐術の産物もあれば、又幻錯覚的病的産物もないではない。此等これらは当然問題の外に排除すべきであるが、しかしいかにそれ等を排除して見ても、後に儼として幾多の正しい霊媒、正しい心霊事実が残ることは、現在として最早もはや疑問の余地がない。これは私心なき読者のつとに承認されたことと思う。強いてこの事実に向って眼をつぶろうとしても、それは畢竟ひっきょう無益の業である。事実は事実、嘘は嘘、こればかりは一時も早く清算してしまうに限る。この種の問題を取扱うに当り、既成の宗教界は、主としてその典拠を、過去の経典やら祖師の事蹟やらに置いてたが、近代心霊研究にありてはいつでも科学的実験をもってすべてに臨む用意ができている。久しい間世界の心霊学界から落伍の気味であった日本の心霊学界も、今日ではようやく万般の準備がすでにほぼ整った。ここまで進歩した時代において、強いて精神的鎖国主義を墨守ぼくしゅしようと試みたところで、今更何の役に立つものでない。あまり頑冥固陋がんめいころうな態度に出ると、そろそろ引っ込みがつかなくなるであろう。

 (二)いかなる異常現象も自然の法則の現われである

 われわれは昔も今も、大抵似たり寄ったりの異常現象が、随所に発生しつつあったことを信ずべき多くの理由を有ってる。束西各地の諸民族間に残された伝説口碑の類をしらべて見ても、大概その見当はつくのである。しかし此等これらの現象に対する人間の態度は、時代によって大変な相違がある。人文の発達しなかった幼稚な時代には、平生見慣れない異常現象に逢着すると、人々はたちまこれを不可思議視し、極度の恐怖又は迷信に陥るのであった。そうした傾向は今日においてもまた全部除かれたとも言われない。幽霊譚、怪奇譚の類が、一部の社会に相当の興味をもって迎えられてるのを見ても判る。ところが、この傾向は人智の発達に伴いて次第に勢力を失って来た。近代人は一時自分の頭脳を過信した結果、自分の智慧で解釈のできない異常現象は必らず嘘に相違ないと思うようになった。すくなくともこれが十九世紀から二十世紀にかけて、いわゆる知識階級に属する大部分の人士の執った態度である。現在の日本にはこの部類に編入さるべき人々がけだしまだすこぶる多い。ところが、時代は更に大に変らんとしつつある。近代心霊研究の擡頭たいとうがそれである。心霊研究者達はず第一に偶発的異常現象を検討して、その真偽をたしかめようとつとめたが、やがて百尺竿頭ひゃくしゃくかんとう更に一歩をすすめ、異常能力の所有者を機関として、実験室の内部で一切の異常現象を作製せしめ、もって純学術的にその裏面の意義、内容、性質等を闡明せんめいすべく全力を傾注するようになった。むろんまだこれによりて一切の疑問が解決されてしまったとは言わない。イヤひとり心霊現象に限らず、大自然界裡の諸現象はまだまだ人智をもって解釈し得ないことだらけであるが、従来はただ神変不思議の超自然的、もしくは超科学的事象でもあるかの如く考えられていた諸異常現象、例えば幽霊の出現にしても、物品の空中浮揚にしても、又その他の諸現象にしても、ことごとく出来るようにして置いて出来るところの、一の自然現象に過ぎないことだけは、すくなくとも明白に突きとめてしまったのである。これが人文史上の最も偉大なる発見の一つでなくて何んであろう! 古来迷信打破はあらゆる時代の有識者の大眼目であった。しかし心霊研究以前の迷信打破は、心身鍛錬を主体としたり、又気休め式の暗示を骨子としたり、要するに搦手からすすむ間接のやり方であって、迷信の要素である所の、もろもろの異常現象に向って、真正面から科学的解剖を試みんとする、直接の行動ではなかった。そんなことで充分の効果の挙がる筈がない。近代心霊研究出でてここに初めて迷信の拠りて立つべき根拠地が完全に覆された訳である。くりかえしていうが、単にこの一事に成功したのみでも、近代心霊研究の出現は決して無意味ではなかった。人間が神秘を神秘としていたずらに恐怖したり、又は事実と手品とを混同して矢鱈に排斥したりしているような、児戯に類するやり方で、何で底力の籠った本当の人間としての働きができるものでない。私は現在の日本並に東亜全体、世界全体に漲る陰惨な世相を観るにつけて特にこの感が深い。いやしくも新時代の先頭に立ちて新生面を開拓しようとする者は、一時も早く近代心霊研究の洗礼を受け、一切の虚偽、迷信、伝統、方便等からきれいに解放された、清くほがらかな心境の所有者になるべきである。

 (三)各自は自我表現の機関として特殊の媒体を有する

 これはすでに第一章においてのべた通り、何より大切な事柄であるが、従来この点の諒解が充分にできて居なかっために、人間はどれ丈幼稚浅薄な議論にあたら歳月を空費したことであろう。元来人間はその好む所にねいして、ややもすれば飛んでもない仮説を立てようとしたがるもので、かの唯心論だの、唯物論だのの提唱がその好適例である。そのいずれにも半面の真理はあるが、どちらも統体の真理を含んでいないことは、公平な洞察力を有するもののつとに直感する所であった。就中なかんづく世界の民族中最も常識的で、常に中道を歩むことを念願とせる日本民族は、その点の心のしめくくりが一ばん強かった。現にこの唯物論も唯心論も、どちらも日本人の頭脳の中から生れたものではない。たまたまそうした不具者を日本人中に見受けるは、単に一時的の附和雷同の結果で、しばらくぐれば、彼等はいつしかその本来の面目を取り戻し、物心一体の生命観に安住するのである。そのしか所以ゆえんは日本民族の歴史が極めて有力にこれを物語ってる。

 兎に角、物と心とが、ドーやら陰陽表裏の不離の関係にあるらしいことは、直覚的には昔から判ってたものの、ただ困ったことに、従来はこれを科学的に証明すべき何等の手段方法もなかった。心は心、物は物、あたかも水と油の如く、両者の交渉関係がドーしても的確に闡明せんめいされなかった。その必然の帰結として、世界の人類は際限もなく、鐘が鳴ったか、橦木しゅもくが鳴ったかの水掛論を繰り返そうとするのであった。

 かかる時に当りて近代心霊研究が、人体の構成要素をはっきりと突きとめ、意念の動きとその媒体との関係を明示し得たのは、何という偉大なる功績であろう! 即ち慾望の媒体が肉体、感情の媒体が幽体、理性の媒体が霊体、叡智の媒体が本体、要するに心と物とが不離の連動作用を営んでり、心ヌキの物、物ヌキの心などというものは絶対に存在せぬことが、一分一厘の隙間なしに立証されたのである。ここにいたりて物心一如ぶっしんいちにょ観は最早もはや直感の域を離れて、立派な科学的事実となってしまっている。この事実の普及につれて、今後唯物だの、唯心だのという、幼稚な水掛論は、やがてばッたりと止むことになるであろうが、それ一つでも人間はどれ丈助かるか知れないであろう。

 (四)各自の個性は死後に存続する

 これは前掲の事実からほぼ推定される事柄であるが、何にしろ人生問題の解決に対して、極めて深刻な影響を及ぼす一大事であるから、近代心霊研究はこの事実の立証に向って畢生ひっせいの心血をそそぎ、客観主観両面に亘るところのあらゆる異常視象を捕えて、綿密周到なる討究を重ねた。その間において反対論者としても実によく努めた。あるいは詐術説を振りかざして横合から襲撃を試みたり、あるいは幻錯覚説を高調して後方から撹乱を試みたり、あるいは又精神論を力説して一切の異常現象の土崩瓦解どほうがかいを画策したり、およそ人間の知能、人間の学問が企及し得る限りの撲滅策を講じたのであった。その心情の如何は別問題として、兎に角その間接の功労は没すべからざるものがあった。何となればそのお蔭で、どれ丈多くのインチキ霊術師輩が見事に掃蕩そうとうされたか知れないからである。が、此等これら一切の否定論者達の大々的攻撃も遂に儼乎げんこたる心霊事実に向ってかすり疵一つだに負わせ得なかった。曰く幽霊の指紋、並にパラフィン手形、曰く直接談話のレコード吹込み、曰く写真の乾板に現るる死者の活々した姿、曰く本人の生前の文体並に筆蹟をさながらに伝うる自動書記、曰く時空の束縛をしり目にかくる、縦横自在な霊視能力……数え立てたら際限もない。うした確証が山積している以上、われわれが死後個性の存続を認めることは決して軽信でも又迷信でもない筈である。すべては正しき事実、正しき推理の問題である。その間に何の躊躇ちゅうちょ、何の逡巡しゅんじゅんの必要があろう。一部の人達はいう、霊魂の不滅とは、その人の記憶又は感化力が天下後世に伝わることであると。他の一部の人達はいう、永遠の生命とは、その人の志業が子孫によりて継承せられることであると。いずれも御尤ごもっとも千万な説ではあるが、しかしそれとこれとは全然別個の問題である。心霊学徒の主張する霊魂不滅は肉体放棄後においてその人の個性が幽体、霊体等を機関として他界に存続することを指すのである。万々一思想の混線を来して初学者を惑わすようなことがあってはならぬから特に注意して置く次第である。

 (五)各自は永遠に向上進歩の途を辿る

 既成の宗教又学説等の中には、人生の目的に関して、随分不健全極まるドグマの押売りを試みようとするのがある。一番有毒なのはけだし唯物的人生観であろう。これで行くと肉体の死は畢竟ひっきょう万事の終結を意味するから、人生の指導原理として享楽主義、弱肉強食主義、階級争闘主義の類でも鼓吹するよりほかに収まりがつかなくなる。全くもって手がつけられない。

 基督キリスト教の教義の中で一番面白くないのが贖罪説最後の審判説とであろう。自己の罪悪をキリストに転化する所に責任観念の不足があり、最後の審判の日まで居睡いねむりをしてるという所に向上観念の不足がある。心霊事実としては勿論むろん毫厘ごうりの価値なく、又方便としてもあまり気のきいたものではないと思われる。

 仏教思想の中で一番感服できないのはけだしかの全部的再生説であろう。つまり現世で良い事をしたものは来世において富貴安楽の境涯に生れ、現世で悪い事をしたものは未来において牛馬に生れかわる、と言ったような考であるが、これは確乎かっこたる心霊事実でないのみならず、又理論としてはなはだしく欠陥がある。これでは進歩のともなはぬただの転生になってしまい、そこに何等の創造も生命も見出されない。真の再生は、私の所謂いわゆる創造的再生であるが、これはきへ行って別に説く。

 私が改めて注意するまでもなく、すでに心霊事実にしたしまれた読者諸子は、人生の目的が生前死後を通じて、永遠の向上であり、進歩であることに充分お気づきになったことと思う。現世生活は彼にりて第一段の道場で、ここで種々雑多の経験を積み、もって人格の基礎工事を営むのである。やがて肉体を放棄して、所謂いわゆる死の関門を通過した時に、その第二段の幽界の修行が始まる。慾望の機関である、鈍重な肉体を放棄した幽界居住者達が、いかに縦横自在の働きを発揮し、いかに時空を超越するやに見えるほどの、威力の所有者であるかは、霊媒の背後にひかゆる司配霊しはいれい達の働きを考察しても、又幾多の霊界通信を読んで見ても、正に驚嘆に値するではないか。勿論むろん帰幽後いくばくの修行も積まぬ霊魂には現世執着の名残があり、従ってその働きも概して見劣りするが、しかし死後数百年乃至数千年を過ぎた霊魂達の優秀高邁であることは、到底地上の人間の比肩し得る限りでない。かくてすッかり地臭を帯びた思想感情をかなぐり棄て、第三段の霊界生活に進むと、もーそろそろ地上の人間とは段違いになってくる。地上の人類にありて、その生活の大部分は、慾望の満足と感情の行使とで占められるが、霊界居住者にありては、最早もはやこれ等に共鳴すべき何物もない。わずかに真理の探求において、地上の人類との間に、一脈相通ずるところが存在するに過ぎない。更にその上の第四段の神界となると相互の距離は千万里、よほどの傑物にあらざる限り、地上人としてほとんどこれに向って手のつけようがないことになる。前後八十年の心霊研究、なりすぐれた霊媒も出ていないではないが、神界はおろか、霊界との直接交渉さえも、きわめて稀にしか成立していないというのが公平の観察である。

 しからば人間はその窮極きゅうきょくおいてどこまで進むべき運命をっているか――それは遺憾いかんながら現在において到底われわれの思索想像の限りではない。強いていえば、それぞれ特殊の経験を携えたる個々の小我が、無限絶対の大我の中に、やがては融合一致するのではないかと推定される位のものである。この推定の当否はしばらく別問題として、各自が生前から死後にわたり永遠に向上進歩の途を辿るべき運命をっていることは、現在われわれが有する心霊資料の指示によって最早もはや確定的事実であると観て差支さしつかえないようである。

 (六)死後の世界は内面の差別界である

 これにつきては第二章においてすでに解説を試み、又前記諸項を説いている途中に、自然この問題にも触れることになったから、ここで格別附加すべき何物もないが、何にしろこれは思想信仰問題を健実なる純学術的領域に導き入るべき重要事項であるから、改めて今一応念を押して置く次第である。くれぐれも留意すべきは、死後の世界が本質的に階段を為してり、決して無差別平等の世界でない事、又それが内面の世界であって、従って距離や方角で測定はできない事、同時に又それが儼然げんぜんたる実在の世界であって、従って過去現在の区別に捕えられない事である。此等これらの事は幼稚な古代人には容易にのみ込めず、その結果幾多の方便説が出現した次第であろうが、今日物質科学が長足の進歩を遂げ、さかんに内面のエーテル波動を活用するところまで進んでいる以上、最早もはや方便説などの存在の意義は全然消滅した。今頃あんなものに引ッかかっているのは正に昼行灯ひるあんどんの感がある。

 死後の世界が内面の世界であればこそ、われわれは適当な工夫を施すことによりてそれと接触交通ができる。そして人文の発達とは、畢竟ひっきょうどこまで内面の世界を掘り下げることに成功したかの問題となる。又死後の世界が差別の世界であればこそ、われわれは無限の希望と光明とに燃えつつ、精進努力することになるのである。既成宗教の多くが誘致したような終結観や無常観はどこにも成立の余地がない。

 (七)各自の背後には守護霊がある

 これは第五章以下第十一章にわたりて私が紹介した、物理的並に主観的の諸心霊現象の記録を、精読した人達のすでに諒承するところであろうと思う。いかなる心霊現象の背後にも、必らずその作製に当る所の他界の居住者が控えている。ただ守護霊だの、司配霊しはいれいだの、又憑依霊だの、という熟字にきて多少の疑問をいだかるものがあると思うから、念のめにここでその定義を下して置くことにする。私のいわゆる守護霊というのは先天的にその人の守護に任ずる所の他界の居住者のことである。英語のガアディアン・エンゼル又はガアディアン・スピリットというのがこれに該当すると思う。この守護霊と本人との因縁関係につきては、別に項を改めて一言するが、兎に角私の実験した限りにおいて、各人の背後にはかならずその人に固有の守護霊がないのはない。同時に最近八十年間に東西各地において行われた心霊実験の結果も有力にこれを裏書きする。ぎにいわゆる司配霊しはいれいというのは守護霊の統制の下にる特殊の任務を分担するところの補助霊と思えばよい。欧米の心霊家達は普通これをコントロール又はガイドなどと呼んでいる。きわめて稀には、この司配霊しはいれいのない人もあるらしいが、しかし大部分の人々にはず一人や三人の司配霊しはいれいのないのはないらしい。就中なかんづく心霊現象の作製を天職とする霊媒にありては、その傾向が一層多く、そして時には、甲の霊媒の実験に出現した司配霊しはいれいが、臨時に他の霊媒の実験にも出現するような実例が幾らもある。旧式の催眠学者や生理学者は、単にこの現象の結果に対して人格転換などという名称を附して能事畢のうじおわれりとするが、これはあまりにも皮相の見解である。表面的にはこの人格転換現象に相違ないが、内面的には他界の居住者との交霊現象である場合が非常に多いのである。つぎに憑依霊という言葉、これは広義に解したら、守護霊、司配霊しはいれい等をも包含して良い訳であるが、普通はもッと狭義に解せらるることになっている。即ち本人の弱点又は祖先伝来の悪因縁等を機縁として感応する所の、不良性の人霊又は動物霊等を指すに用いるのである。一般に、天魔だの悪魔だのと称せらるるのも詮ずる所これに過ぎない。

 これを要するに人間は一方において自由意志を有する所の独立的存在であると同時に、他方においては複雑微妙なる連動装置の一分担者たる宿命を有してり、ここに自力と他力との巧みな使い分けの必要が起るのである。これは手近な人間の物質生活を観てもすぐに判る。いかなる自力宗の信者だって、ただで空気を吸い、ただで日光に浴し、ただで水を飲み、又ただで地面をむではないか。そうするのが大自然の約束なのだから何とも致方いたしかたがない。各自の背後に守護霊その他が控えているのも畢竟ひっきょう同一の筆法である。本人が知っていようが知っていまいが、賛成だろうが、不賛成だろうが、そんな事には頓着なく、守護霊は依然としてその受持ちの人間を守護しているのである。これは無数の心霊事実がいやが上にも立証する所であるから、何人もおとなしくこれを承認すべきであろう。この事一つが判った丈でもどれ丈沢山の人生の謎が解けるか知れない。

 (八)守護霊と本人とは不離の関係を有つ

 徹底的にこの問題を解決する為には、われわれはドーあっても一応『生』の問題に触れなければならない。私が第七章において紹介した、ステッドの所謂いわゆる部分的再生――あれが実にこの問題を解くめの大切な鍵である。部分的再生でもほぼ意味は通ずるが、その内容からいえばむしこれ創造的再生と呼んだ方が適当らしい。私はこれからできる丈簡単にその要領を述べることにする。

 言うまでもなく『生』の出発点において必要なるは、一対の男女によりていとなまるる生殖作用であるが、この生殖作用には極めて肝要なる二つの附帯条件がある。甲は生殖行為の原動力ともいうべき情念の発動、乙は生殖行為の結果である所の精子と卵との結合である。在来の生理学者は主としてただ有形的な後者を認識するにとどまったが、これではわずかに楯の半面をのぞいた丈で、到底微妙なる生の神秘の扉の開かるるよしもない。丁度電灯装置を説明するに当り、ただ有形の電球のみを取扱い、無形の電流を度外視したような話である。

 しからば地上の一対の男女間に起る情念の発動が、生の問題に対しいかなる役割を演ずるか? 他なしこの情念のエーテル波動が超現象の世界に拡がり、其所そこに一人の熱烈なる共鳴者を見出すのである。強い感応に伴う意念の憑着ひょうちゃく、これが取りも直さず他界の居住者の分霊が地上の卵と精子の結合体に宿る所以ゆえんなのである。くして初めて一個の独立せる生きた人間の構成要素が揃う。いかに肉体的条件が具備しても、これに生命を与うる所の一個の独立せる魂が宿らなければ、ついに死滅の運命を免れないことは事実がこれを証明している。

 これが私の所謂いわゆる創造的再生説の要領であるが、無論これは私の主観的想像的の意見でも何でもない。私は主として信ずべき霊媒を通じて、他界の居住者から大体うした説明を受取ったのである。他人の受取った霊界通信の中で、ほぼこれと同様の事を主張しているのが、すでにのべた通り、ステッドの入手せる、いわゆるジューリアの通信である。カムミンス霊媒を使って霊界通信を送りつつある、マイヤースもまた吾党の士である。又心霊研究者として真摯堅実の定評ある英国のアーサー・ヒル氏がほぼこれと同様の見解を発表してる。

 一見すれば、この創造的再生説はあるい奇矯ききょう突飛とっぴの観があるかも知れぬが、深く思いを心霊事実に致して熟慮一番すれば必らずしも、そうでないことが次第に会得されて来る。交霊実験の結果からすれば、肉体を棄てて彼岸に生活する人達にも、性慾その他現世的執着の名残なごりが相当濃厚に附着している事を発見する。すでにそうした生の執着がある以上、地上の男女間に捲き起る情念のエーテル波動が強烈に彼等の心に感応しない筈はない。これは独り理論的に成立することであるのみならず、心霊実験の結果もはなはだ有力にこれを肯定する。およそそ念波の動きほど神速自在なるはなく、一転瞬の間によく百里千里を走り、又容易に顕幽の境をも突破する。ことに強烈にして持続性に富める意念の憑着ひょうちゃく力には実に恐るべきものがある。念の宿った仏像、念の宿った刀剣等が随所に発見される所以ゆえんである。しからば生の執着に燃ゆる他界の居住者達の強烈なる情念が、生殖作用に伴って発生する所の精子と卵との結合体に宿りて離れようとしないのは、正に当然過ぎるほど当然の次第ではあるまいか。かくて念の放送者の本体は依然として他界にとどまるが、それから発射されたる一念は地上の物質に宿りて新生活を営むことになる、両者の関係は一にして二、二にして一、丁度本店と支店との関係に髣髴ほうふつたるものがある。離れたいにも離れられない強い因縁の絆で結ばれている。この本店の主人公こそ私の所謂いわゆる守護霊なのである。無論卵と精子との供給者たる、地上の父母の、有形の影響も無視してはならない。場合によりてはその感化も相当多大である。しかながらそれは畢竟ひっきょう建築材料でしかない。この材料を使って、一個の独立せる建築物――生きた人間を造り上げるのは、矢張り一の独立した個性の所有者なのである。

 私の調査の結果からいえば、各自の守護霊は通例二三百年前に帰幽した人の霊魂が最も多い。時として千年二千年前のものもあるにはあるが、それはむしろ異数に属する。しそれ肉体の親と魂の親との関係に至りては、今日お断案を下すまでになっていないが、大体広い意味においての血族関係を有っているものと考えてよいらしい。

 (九)幽明の交通は念波の感応である

 これは第一章、第二章、第三章等において、すでに一応予備的説明を施したことであるから、ここに再説の必要はなかろう。言うまでもなく、現在の科学界はまだ意念のエーテル光波を捕捉するところまで進んではいない。従ってこの説は、当分一の学術的仮説の領域を脱することはできないが、しかしこれを用いて万般の心霊事実の合理的説明ができる以上、ニュートンの引力説などと同じく、われわれは安心してこの説を採用してよい訳である。在来の宗教界は何等かの心霊現象を説明するに当り、常に超自然的、不可思議的、又情実的の要素を傭うのを常としたが、今日では最早もはやその必要がないことになった。お蔭で世の中がどれ丈明るくなったか知れない。

 (十)超現象の各界には種々の自然霊が居る

 超現象の世界、即ち幽界以上には、かつて肉体をちて地上生活を営んだことのある、人霊その他(所謂いわゆるディスカアネェト・スピリット)とは、全然別箇べっこの存在者が見出される。われわれはこれを自然霊と呼ぶことにしている。即ち自然霊とはただの一度も肉体を持って地上に出現したことのない幽界以上の存在者の総称で、高級なところでは古来諸神、諸仏、天使、天人、如来、菩薩、神仙、龍神などと呼ばれていたもの、又下級なところでは所謂いわゆる天狗、妖精、妖魅、小人、妖怪変化、魑魅魍魎等と称せられていたものが、ことごとくその中に包含されてしまうのである、この自然霊という熟語がはたして妥当であるか否かはしばらく別問題として、そろそろうした特別の用語がなければ困る時代になったのである。何となれば、近代の精緻な霊的探窮たんきゅうの結果、全然地上に類例を見出し難き特殊の存在者が、たしかに他界に発見されつつあるからである。

 無論何が困難と言っても、心霊研究者に取りて、自然霊の調査ほど困難な仕事はめったにない。われわれの日常接触する物質界に、ただの一つもその標本が発見されないというのであるから、実際たまらない話である。されば世人の大多数は、ごく最近までこれに対して常に半信半疑の態度を執って来た。もろもろの経典をはじめ、その他の諸書にも、そうした不思議な存在物の記事が頻出してるから、まんざら嘘でもなかりそうだとは思うものの、しかしいかにもさぐるべき手懸りがない。有りと信ずれば有るようでもあり、無いと信ずれば無いようでもある。畢竟ひっきょうそんなものは単なる信仰の問題に過ぎない……。何人も大概そう言った態度を持して来た。

 ところが、今日では形勢が一変して来た。すぐれた霊視能力の所有者達が、探窮たんきゅうの歩をすすめて見ると、第一に掴まったのが妖精、天狗等の下級霊、それから諸神、諸仏、天使、龍神等の高級霊が歴々と眼底にって来たのである。もちろん霊視能力者がたッた一人か三人に過ぎなかった場合には、これを一の幻錯覚的産物として、考慮の外に放り出すことも自由であったが、今日のように、優秀なる能力者が続々東西に輩出して、幾多の資料を提供し、立派に比較研究を施し得るようになった以上、最早もはや今迄のような乱暴な真似はできなくなった。最近数十年間に続出した無数の霊界通信が、又自然霊の存在を有力に支持しつつある。私が本書で紹介したのはホンの九牛の一毛に過ぎないから、熱心な研究者は、せめて平田篤胤の天狗研究、又はモーゼス、ステッド、ワアド、ウイングフィールド、オウエン等の自動書記の産物なりとひもといて貰いたい。必らずや自然霊に対する確信を樹植されずには置かないであろう。更に又心霊写真が次第にこの新原野の開拓に成功の端緒をつかみつつある。現に妖精の姿などは、すでに幾度も幾度も写真の乾板にはッきり収められている。

 が、こんなにも困難なる問題を取扱うに当りては、われわれは勿論むろん単なる当面の事象にのみ拘束されてはならない。ありとあらゆる方面の知識と資料とを集め、更に厳正なる推理と鋭利なる直覚とを加えて、もって最後の結論に到着するの用意を欠いてはならない。

 われわれとしてくれぐれも注意すべきは、自然霊につけられている、いろいろな名称にあまり拘泥してはならぬことである。名称は地上の人間が勝手に附けたもので自然霊の固有の名称でも何でもない。ゆえに国土が変り、時代が変れば名称がいろいろに変るのが当然である。つぎに注意すべきは自然霊の姿に対してあまり拘泥してはならぬことである。自然霊の有するエーテル体は、意念の赴く所に従いていかなる姿にも化現し得る。ジュリアの通信にも、天使霊はこちらの観念に応じて羽翼を附けたり附けなかったり、どちらにでもすると言っているが、まさにそれに相違ないのである。

 んな次第で自然霊の研究はまことに意想の外に困難をきわめるが、しかし超現象の各界に、その界特有の存在者が見出されるという一事丈は、近代的心霊実験の上から、ドーあっても疑義を挿む余地がなくなったといえる。

 しそれ推理の方面からいえば、超現象的各界に、その界特有の存在者がなかったとしたら、それこそ天下の怪事であらねばならぬ。同一地上の生物だとて、環境の相違でその性質形態が千変万化する。いわんや幽界、霊界等の居住者が、ことごとく現界の複写であるべき筈がない。われわれ人類は現在辛うじて神秘の扉の一端を開きかけたばかりであるから、めったな事を言ってはならぬが、今後人類の視野の拡大、心境の浄化につれて、自然霊との交渉はますます切実を加えて行き、その結果自然霊に対する人間の知識が一層正確化し、同時に一層一般化して行くことであろう。

 (十一)高級の自然霊が人類の遠祖である

 心霊問題もここまで来るとる程度までスペキュレエションの領域に這入はいりこんで行く。ただしわれわれは断じて空疎なるスペキュレエションに陥ってはならぬ。厳粛なる心霊上の事実と理論とが、どこまで行ってもわれわれを支持してくれるのでなければ駄目である。

 われわれはすでに、各自に宿る魂が一人の霊界居住者の分霊であることを学んだ。われわれはこの心霊知識を基礎として、更にその根源に向って霊的探窮たんきゅうを進めて見ると、同一法則がどこまで行っても持続されていることを発見する。即ち守護霊の奥にその又守護霊が控え、その又守護霊の奥にも他の守護霊が控え、もって遠く歴史以前の大古に突入して行く。そして最後には終に人間離れのした原人時代、原始的生物時代にまで到達する。信ずべき霊界通信に従えば、人類の進化の過程は、大体胎児の十ヶ月間の進化の過程を観て判るということであるが、あるいはそれが事実ではないかと思う。

 それは兎に角、われわれはここで当然深刻無比の大問題に逢着する。他にあらず、それは生命の種子が最初いかなる手続きで、いずれの方面からこの物質界に降って来たかの問題である。

 これにつきては従来種々の臆説が提唱されている。が、科学的に首肯しゅこうされるような学説はまだ一つも現われていない。ただここにわれわれに向って、一の有力なる暗示を提供してくれるのは、実に他界の居住者達である。彼等は霊媒を機関として、われわれに人類発生の大体の径路を物語ってくれているのである。私は人間の手で真の科学的学説が完成さるるまで、これを一の学術的仮説として尊重して良いと思う。何となれば、この仮説をもって、この至大なる人生の謎を、合理的に説明し得ると考えるからである。

 信頼すべき他界の居住者達はいずれも口を揃えて言う、地上生物の基因はことごとく超物質の世界にある。換言すれば高級の自然霊が地上の人類の遠祖であるのであると。不用意にただそれ丈きいたのでは、いかにも突飛奇矯とっぴききょうの放言らしくもあろうが、だんだん説明されて見ると、必らずしもそうでない事を発見する。かいつまんでのべると、その要領は大体うである。――

『最初地球の表面は所謂いわゆる生物の発生に適した状態に置かれてはいなかった。で、その時代の住人といえば当然幽界以上の存在者、かの所謂いわゆる龍神とか、天狗とか、妖精とか、呼んでいる自然霊達であった。ところがる時代、今から約二三百万年前に達した時に、地上の状態がそろそろ生物の発生に適合するようになって来た、自然霊達の地上経綸けいりんの活動は実にその時代から始まる。これを一言にして尽せば、自然霊達は地上の適当なる地点を選んで、これを一種の培養所……つまり温床のようなものに造り上げ、これに強烈なる念波を放送したのである。何人も知る通り、強き観念の波はしっかりと物に憑着ひょうちゃくする。霊界居住者達は現在においては念波の放送を卵と精子との結合体に行い、そして人間の母胎を温床として使用しているので、生殖作業は比較的容易であるが、出発点においてはなかなかそうは行なかった。一個の独立せる微生物を地上に醗酵はつこう醞醸うんじょうせしむべき念力の強さは到底地上の人間の想像し得る限りでない。いかに強大なる自然霊達といえどもこれには実に惨澹さんたんたる苦心努力を払ったのである。何にしろ幽から顕に向っての創造の作業であるから、その苦心は一と通りのものではないにきまっている。が、最後に、自然霊達はこの難事業に成功した。これが最初地上に微生物の発生した大体の径路である……。』

 前に述べた通り、これは到底一つの学術的仮説の域を脱しない性質のものであるが、しかしこの仮説をもってすれば、古来不可解視された宇宙人生の謎のいかに多くが立派に解決されることであろう。かの日本の建国の歴史と不離の関係にある、天孫降臨の神事の如きも、この仮説をもって臨めば初めて立派に合理化する。あれを単なる物質界裡の一事象と解したのでは、恐らく日本神道の真髄に触れることは永久にできそうもない。

 ここで念のめに一言註釈を加えて置かねばならぬことは、霊界の居住者達の提示する進化説がダアウィン無差別的進化説と異り、一の差別的進化説ともいうべきものであることである。これによると、あらゆる生物の種子は最初からそれぞれ相違しているというのである。即ち人類は最初から人類として進化し猿は発初から猿として発達し、相互間に種類の転換は行われなかった。つまり人類の祖先は高級の自然霊で、猿の祖先は更に一段低き別の自然霊だというのである。現在地上のいずれの地点にも、人と猿との中間的生物が発見されない以上、私はこの差別的進化説が飽まで正しいと信ずる。

 ついでにモ一つここで注意して置きたいことは、高級の自然霊をはじめ、われ等の祖霊達が、現在地上に住む人間に比較してほとんどあらゆる点において段違いに優れてることである。人間というものは兎角己惚うぬぼれが強く、霊界居住者などは恐らく時代遅れのチョンまげ連で、大てい多寡が知れている位に考えたがるが、これは飛んでもない誤解である。無論われわれの祖先の霊魂中にも未発達のものがないではない。が、それはむしろ例外に属する。彼等は厄介な肉体を棄てて、衣食住その他の心配のない理想世界に住んでるので、現世生活に比すれば、ほとんど比較にならぬほど有利な境遇において、一意向上進歩の途を辿っている、これは一二度すぐれた霊媒を機関としてわれ等の祖先又は守護霊を呼び出して見ればすぐ判る。その識見、その思想の高邁なるはもとより、その行動がいかにも敏活自在で、一転瞬の間に千里万里の外を洞察し、いかに痩我慢やせがまんをしても、地上の人間はとても相撲すもうにならないのである。故に敬神崇祖ということは単に便宜主義から割り出された人為的方便でも何でもない。われわれは当然彼等の前に崇敬の膝を屈せねばならないのである。

 (十二)最高級の自然霊が事実上の宇宙神である

 ここにいたりて問題は一層困難となる。うッかりするとさっぱり腑に落ちない事になるおそれが大にある。で。私は不取教とりあえず『神』という言葉が表現する意義内容につきて、ここで一と通り説明を試みて置きたいと思う。

 私の観る所にして誤らずんば、『神』という文字には、大別して四通りの内容があると思う。第一義の神は宇宙の根本的大生命、無限絶対の独一的実在を指す。日本の天之御中主神、儒教の天、仏教の真如、基督キリスト教のゴッドなどが大体これに該当すると思う。第二義の神は宇宙の大生命から岐れ出る所の偉大なる内的存在と見倣みなしてよいであろう。日本神道の陰陽二系の祖神、日月星辰の諸神霊等がこれに属する。又仏教の諸仏、諸菩薩、基督キリスト教の天使、天使長等も、畢竟ひっきょうこの範疇に属するものと思う。兎に角そう解釈した時に、すべてが初めて心霊科学的に有意義となる。要するに此等これらが超現象世界の最奥にひかえる神霊界の司配しはい階級なのである。第三義の神は右に挙げた第二義の神の末流を指す。即ち人間の霊魂をはじめ、性質の善良なる自然霊、動物霊等がこの部類に入る。要するにこの場合のカミには隠れ身と上位かみとの二つの意義が合併されてる訳である。第四義の神はすべて肉眼に見えないものの総称で、必らずしも正邪善悪に係らない。即ち単なる幽的存在の意味である。悪神、厄病神、死神等の言葉を見れば首肯しゅこうされるであろう。西洋ではすべて此等これらをスピリットと呼んでいる。

 く『神』という一字の中に沢山の意味を包蔵してるのに、在来多くの論者が、何も彼も一しょくたに取扱った結果、とんでもない思想の混線を惹き起し、幾十世紀かにわたりて、みぐるしい泥沼のような水掛論を闘わして来た。就中なかんずく基督キリスト教の人達などは現在でもまだ第一義の神と第二義の神を混合し、る時は神は絶対だと言って見たり、又る時は神は愛だの、義だのと言って見たりする。絶対であるなら愛や義ではあり得ない。愛や義であるなら絶対ではあり得ない。しかしながらうした誤謬ごびゅうの起るのも、畢竟ひっきょう内面の世界に対する基礎的知識が足りなかった結果であろう。近代心霊科学の知識が次第に普及すれば、斯様そのようなな幼稚な議論は恐らく自然消滅に帰するに相違ない。

 これ丈の準備的説明をして置いて私は急いで本項の説明に戻らねばならぬが、私の所謂いわゆる最高級の自然霊というのは当然右にのべた第二義の神を指すものに外ならない。これ等はその偉大なる神格よりして、いずれも事実上一の宇宙の代表神であり、人間の理想信仰の一の生きたる標的たるに足るものばかりである。地上の人類からすれば、もちろん相互の距離は非常に遠いが、しかしすぐれた霊視能力をもってすれば、立派に此等これら高級の神又は仏の姿を認めることもでき、又各自の守護霊を通じて奥へ奥へと中継放送を行えば、立派にそれ等と交通の途もつくのである。

 さてしからぱ此等これら最高級の自然霊中、いずれを選びて崇敬祈願の対象とすべきか、という問題になるが、これは到底一概には言われそうもない。国民性の相違により、又個々の性精の相違によりて、必らずしも劃一かくいつ的信仰をいる訳にも行くまい。中には又、そうした途中の第二義の神などは到底理想、信仰の目標とするに足りない、と気焔を吐くものがあるかも知れない。これもまた止むを得ない。信仰はどこまで行っても各人の自由なのであるから……。

 が、いずれの方面から考えて観ても、われわれ日本民族の伝統的信仰、即ち大陽神を中心とせる組織的神霊界の認識並に崇拝は飽まで中道をたもので、地上の全人類の取ってもって規準とすべきものではないかと思う。他のいかなる神又は仏を崇拝することもそれは各人の随意である。しかしその中心に大陽神の崇拝がなかった時は、すくなくとも大陽系所属の一遊星上に生をけつつあるわれ等人類の信仰たるにははなはだ歪んだ性質のものとならないであろうか。

 果せる哉近年幽明交通の途が発達するに連れて、欧米諸国においても、大陽神並に大陽神霊界の認識が次第に確立されつつある。霊媒モリス夫人を通じてさかんに獅子吼ししくしつつある一古代霊はく叫ぶ、――『何と言っても人類はまだ弱く、人生はまだ不完全である。従って宇宙の摂理を遂行するめにはここに偉大なる力徳の擁護者が要る。キリスト教の所謂いわゆる七大天使がそれである。そしてそれ等七大天使の上に君臨するのがキリストの大神霊である。ここに言う所のキリストは二千年前地上に生れたあの人間のキリストではない。千秋万古にわたりて永遠不滅の大キリスト、大陽系主宰の大神霊のことである。』又曰く『これを要するに現下の最大急務は、今後人類の拠りて立つべき、天衣無縫の指導原理の確立であらねばならぬ。それは一宗一派、又は一地方一民族の専有物でなく、普遍的、共通的の精神的指針であり、同時に現世の活問題の解決に対して、実行的威力を具えたるものでなければならぬ。これを宗教と称するなら称してもよいが、それは既成宗教のすべてと異なり、大陽神から直接司配しはいさるる大自然教であらねばならぬ。既成宗教は決してその敵ではない。むしろその下にありて特殊の方面、特殊の民族の教化指導を分担すべきものであろう。』何たる正々堂々の大主張ではあるまいか。私はキリスト教がこの真義に徹底した時に初めて真に生きると思う。第六感的霊視能力の所有者である英国のホドソン氏もまたその著『天使来』の中にく書いてる。『天使達は大陽をば全組織の大中心、一切の生命の大本源と考える。大陽は実に最高級の天使達の大本営であるが、それより以下のすべての天使、すべての自然霊に取りては、正にそれが憧憬どうけい渇仰かつぎょうの中心なのである……彼等は時として地界と遠く離れたる天空に集まり、各自の神格に応じて秩序整然たる幾重もの円を描いて、感謝と祈願とのまことを大陽神にささげる……かくてすべてが随喜ずいき渇仰かつぎょうの最高潮に達した瞬間に大陽神の御答が下る。それは黄金の光の洪水となりてすべての天使達の魂にひしひしとしみ込む、前後左右、天上天下、あたりはただ澎湃ほうはいたる光の海、そしてその真只中まっただなかに、一だん清く、強く、麗はしき日の大神の御姿が浮ぶ……。』

 兎に角大陽をただ一個の発光性の天体と考えることは、今日ではあまりにも時代錯誤の旧思想であろう。すでにしばしば述べた通り、物心は一如であり、われわれは両者を別々に引離しては到底考え得ないのである。この事はすでに一と通り第三項にのべて置いたから繰り返す必要はないと思う。

 (十三)宇宙の万有は因果律の司配を受ける

 因果関係が物質の世界においてただ一つの例外なしに当てはまることは、今日では最早もはや疑いの余地がなくなった。因があればかならず果があり、果があればかならず因があるのである。御承知の通り、物質科学の方で最も重要な法則の一つは、所謂いわゆる勢力不滅の法則であるが、この勢力不滅の法則と因果の法則とは、要するに一心同体、単に同一の事象をば、少しく異なった観点から考察を下したというに過ぎない。故にしこの因果の法則を否定すれば、それこそ大変で、その瞬間に一切の科学は立所たちどころに破産することになるのである。

 形而下の方面はこれでよいが、ただ形而上の諸問題になると、その性質が非常に複雑微妙を極めるので、その間に発生する因果関係を的確に辿ることは非常に困難となる。で、従来東洋においても又西洋においても、この問題を取扱ったものは相当多数に上るが、公平に観てそれ等のいずれにも、そこに多少のコジツケがあり、現代の知識階級の人士を首肯しゅこうせしむるに足りないところがあった。

 つらつら考うるに、現代人が形而上的因果関係につきて疑惑を挿むようになったのには、そこにあきらかに二つの大きな源由げんゆがあると思う。外でもないそれは(一)割当てられたる各自の地位境遇の不平等に対する疑惑(二)突発的の不幸災厄に対する疑惑、この二つである。が、これ等の疑惑は近代心霊科学の知識をもってすれば比較的にすらすらと解決ができるのである。

 ず割当てられたる各自の地位境遇の不平等に対する疑惑――これを解くに最も大切な鍵は、私が第八項にのべた創造的再生説である。すでに各自がそれぞれちがった霊界居住者、つまりその人の守護霊の分霊である以上、その出発点においてすでに発達程度が違い、性質が違い、欲求が違い、その他何も彼も皆違う訳である。これでは各自の置かるる境遇がそれぞれ相違する筈である。要するに、すべては意念の波動説で説明がつく。即ち籍を地上に置く肉体の親の精神的波動と、籍を他界に置く魂の親の精神波動との共鳴感応――これが彼の現世に宿った唯一源因げんいんで、即ちすべては純然たる因果の理法の現れに外ならない。かれは当然落付おちつくべき所に落付おちついたまでである。

 次に突発的の不幸災厄に対する疑惑――これもまた近代心霊研究の知識をもってすれば、さしたる苦労なしにその解釈がつく。すでに第七項においてのべた通り、各自の背後には守護霊及び司配霊しはいれいが附いてり、人知れず各自の安寧幸福を擁護しててくれる。人間には一秒後の出来事も判らないが、此等これらの守護霊司配霊しはいれい達にはそれ等が通例事前に判っている。で、問題は何等かの方法で両者の間に充分の連絡をつけることである。最も理想的な方法は各自精神統一の実修を行い、所謂いわゆる第六感的能力を発揮することであろうが、よしそれまで行かずとも、せめて一と通り心霊上の知識と理解とを養い、もって正しき信仰に入り、できる丈他界の擁護団との共鳴感応を完全にすべきである。うした心掛こころがけの人達が、どんなに沢山病気災難等から免るることができたか知れぬ。しかるに不幸にも多くの現代人士の、執りつつある態度は、神仏を無視し、心霊事実を無視し、自分の背後に守護霊や司配霊しはいれいのあることなどはまるきり眼中にない。これでは容易にまぬがえるべき不幸災厄の犠牲ともなろうではないか。

 お功利主義的唯物思想にかぶれて、精神肉体の退化を招いた人達に当然免れ難いのは所謂いわゆる悪霊の憑依で、現代の世相を陰惨ならしむる、幾多の不祥事件の大部分は、たしかに其所そこから出発してる。又現代人がほとんど例外なしに適当な祭祀供養等を閑却かんきゃくしていることも、たしかに不幸災害の源因げんいんをなしている。黴菌ばいきんならば石炭酸をぶッかければよいが、迷える亡者、怨霊、その他地縛の霊達は、できる丈これを善導し、済度してやるより外に、絶対にこれと絶縁すべき方法がない。これをやらないで、いたずらに国家、社会、人生の安寧幸福を望んだところで、到底できない相談である。

 んな次第で、社会人生を悩ます幾多の不幸災厄も、実は大部分自業自得の産物であって、そこに何等の偶然、何等の不公平もないのである。

 以上私の説いた所は、いかにも粗枝大葉で、説明が全部に行き亘っていないが、すでに相当心霊事実に親んでいる筈の読者諸子は、因果律が、縦にも横にも、内面にも外面にも、時間的にも空間的にも、又形而下的にも形而上的にも、すべてにわたりて当てはまることを大体承認されたことと思う。

 (十四)宇宙の内部は一の連動装置をなしている

 これは前項の因果関係さえ充分腑に落ちれば、その必然の帰結として自然に成立する命題と思うから、ここに説明を加えぬことにしよう。お私の所謂いわゆる連動装置が、精神物質両方面に同様にまたがるものであることも、これも断るまでもないであろう。われわれにとりて精神と物質との切り売りは大々的禁物である。それは単なる観念上の区別であって、実際には存在しない。

 (十五)全大宇宙は物心一如の大生命体である

 この一項は、これまで説いて来た各項の締めくくりであり、総決算なのである。われわれはすでに小宇宙であるところの、一個の人間が、物心両面を具備せる一の生命体であることを知った。むろんこれは決して人間のみがそうだというのではない。われわれ心霊学徒は、研究の対象として、かりに人間自身を上にのせたまでの話で、堅く因果律によりて縛られ、完全に一の連動装置を構成しているところの、宇宙の万有一切……神でも、魔でも、生物でも、無生物でも、天体でも、原子でも、ことごとく物心一如の生命体なのである。しからば此等これら一切の生命の総括本体たる全大宇宙が、当然物心一如の大生命体であることは言うを待たずしてあきらかである。すでに何度も何度も説いた通り、従来人類はややもすれば楯の半面のみを観て幼稚な議論にふけった。専ら物に即して攻究を進める者は唯物説に走り、他方専ら心に即して追窮ついきゅうを試みる者は唯心説に赴き、その結果同一宇宙の内面に居住しながら、まるで仇敵同志のようなみぐるしき争闘にふけった。これは断じて健全な宇宙観人生観を樹立する所以ゆえんでない。心を離れて絶対に物はないと同様に、又物を離れて絶対に心はない。たまたまそれがあるかの如く考えられたのは、主として超物質的エーテル界の研究が不行届であったがめである。近代心霊科学が霊媒を機関として、よくこの難事業に成功し、いかなる意念の動きにも、それぞれ特殊の媒体があることを、実験的に突きとめたことは、正に人文史上の一大革命たるを失わない。

 無論偉大なる直覚の所有者達は、つと這裏しゃりの真理を洞察してた。就中なかんづくわれ等日本民族の優秀なる祖先達がいかに醇乎じゅんこたる生命主義の祖述者であったかは、一たび活眼を開いて古典をひもといて見ればはなはだ明瞭である。日本の建国もこれによって行われ、日本の国体もこれによって築かれ、日本民族の信念も道徳も皆これによってつちかわれた。その点われわれは全世界の民族中最も恵まれた地位に置かれているといえる。ただ心霊研究以前の精神的鎖国期にありては、その事が純学術的に立証さるるに至らず、その結果日本民族もしばしば思想信念の動揺に襲われた。が、今日となっては最早もはや全然そのうれいがない。われわれは安心してわれ等の祖神祖霊達の建設してくれてある、天地の大道に従って勇往邁進することができる。

 最後に私は日本古典の造化三神観につきて心霊的一考察を下し、もってこの項をおわろうと思う。古典の所謂いわゆる天之御中主神とは、神名それ自身が明示する通り、畢竟ひっきょう宇宙の大生命の内在的中心主体を指すに相違ない。要するに宇宙の神機が未だ発せず、一の中和状態、静的状態に置かれた時の名称である。いかに宇宙神にしても、その状態においてのみ初めて無限であり、絶対であり、又平等無差別であり得るのであって、一たび動の状態、顕現の状態に移れば、その瞬間において宇宙の内部は必然的に+一の二元に分れ、更にこれを基本として千変万化きわまりなき差別相対の有限の世界、規則の世界を造り出して行く。日本の古典では陽系の祖神を高御産巣日神、陰系の祖神を神産巣日神と呼んでいるが、詮ずるところ此等これら造化の三神は宇宙大生命の動と静との両面を最も巧妙に表現したものであると思う。老子の所謂いわゆる『道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず』というのも、恐らく同一思想の表現ではないかと思うが、何やら少し謎に近く、はッきりした観念はつかみ得ない。それから、仏者の所謂いわゆる空即是色、色即是空、あるいは又平等即差別、差別即平等、――これ等も造化の妙機を簡潔な言葉で上手に道破したものだとは思うが、おしかなその中に陰陽の思想がはっきりと現われていない。しそれ基督キリスト教の神学が、専ら一神思想を強調してるのは良いが、前にも言った通り、彼等が第一義の神と第二義の神とか混合し、はなはだしく観念の不透明を来しているのが遺憾いかん千万である。

 だんだんんな風に考えて見た時に、私は矢張り我等の祖先達の偉大なる宇宙観の前に、心から敬意を表したくなる。



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