心霊図書館 心霊小品集創作編

心霊小品集

張良

 二十人ばかりの屈強な猛者もさどもに守られて、四頭立の立派な馬車を駆りながら、誰が見ても大名らしい業々しさを以て、大道せましと、大威張りでかえり行く韓信を、玄関きにって見送った張良は、右の行列が見えなくなると同時に、おもむろにきびすをかえして、黙って自分の書斎へ入って行った。

 容貌婦人のごとし、などとその時代の人々は、張良を評したものだが、しかしこの評語は、必ずしも当って居るとは言えなかった。何にしろ攀膾だの、項羽だの、ただしは韓信だのという、獰猛な豪傑連ばかり見慣れた人達の眼に、小柄で、痩ぎすで、どこやら垢ぬけのした張良の容貌が、意外にやさしく映ずるだけの話で、彼は決して蒼白あおじろい、にやけた、脂粉のにおいのするさ男ではないのであった。

 いて婦人らしい個所ところをさがせば、それは張良の口元ぐらいのものであった。薄い口髭の蔭で、につと会心のみを湛えたときの唇辺は、いかにもやさしくて、さながら一道の春風の南枝におとづるる趣があった。――が、その眼つきなどは、どちらかといえば、鋭味の勝った方で、それと太い眉、広い額、通った鼻等とのとりあわせは、むしろ風塵の外に立つ、一個の道士らしい風格をしのばせるのであった。

 年齢としようやく五十そこそこであろうが、山羊やぎのそれのような顎髯あごひげが、半ば以上白をまじえているので、それが特に、彼の風丯ふうぼうに、仙味らしいものを添えるのであった。

 書斎に入ってからの張良は、何やら浮かぬ色を浮べて、自分の机の前のとうに腰をおろしたまま、黙って考えこんでしまった。両眼を固く閉じて、双腕をこまねいて、いつまでっても身うごきだにしない。

 机の一端に据えられた玉製の文鎮の白牛、机の正面に黙坐した人間の化石、何やら両者の間に、一脈の空気でも通っているらしく思われた。

 と、入口の扉が徐かに開いて、そこに四十ばかりの、面長の女の顔があらわれた。目鼻立がよく整って気品もあるが、白粉一つほどこさぬ額の小皺、皮膚の荒れ、どう見たって、世話女房らしいところがあった。

 清貧を以て理想としている張良の家庭は、いつになっても、その夫人に粉黛をほどこして、琵琶でも弾じさせるような余裕を与えなかった。朝から夕まで、彼女は一人の婢を相手に、家事に忙殺されているのであった。

 彼女は、しばし入口のところで躊躇ちゅうちょしていたが、思い切って内部なかはいった。

『あの、ちょっとお邪魔いたしても宜しいのですか……。』

 六尺ばかり離れたところに立ち止まって、彼女は遠慮がちな低い声でそう訊いた。

 ものの二分も経ったときに、ようやく良人の唇が重く開いた。

『何ぞ用事か?』

 夫人はおいくらかもぢもぢしながら、

『格別の用事というほどでもございませんが、あの、韓信さまのことに就いて、あなたに伺って置きたいと存じまして……。』

『韓信がうしたというのじゃ?』

『出入りのもののうわさでは、韓信さまは今度淮陰侯とやらいう、お大名に封ぜられて、大へんな御出世をなすったと申すことでございますが、それは真実のことでございますか?』

『それはそうじゃとも。今日はつまり叙爵の挨拶のつもりで、わしのところへもやって来たのじゃ。』

『矢ツ張り事実だったのでございますね。』と、夫人は少し呼吸いきをはずませながら、『道理で今日の行列は、日頃にない業々ぎょうぎょうしさだと、私、蔭から拝見して居ましたわ。呆れてしまいますこと!』

何故なぜじゃナ? 何故なぜそう呆れるのじゃ?』

『だッてそうじゃございませんか! そりゃアあのお方が、万人にすぐれた戦功をお立てなすったことは、事実でございましょう。けど、何にもあのお方一人ひとりが、ほかの方々を出しぬいて、重い論功行賞にあずかるべき道理はないと思いますワ。蕭何さまにしても、陳平さまにしても、皆さまが心を合わせ、力を一つにして、苦労に苦労を重ねて、主上のめに、長い間一心不乱に働いてくだすったればこそ、首尾よくあの強敵の項王を打ち亡ぼして、天下を平定することができたのでございましょう。韓信さまお一人が、出世なさるということは、わたくしどうしても腑に落ちないのでございます。』

何故なぜ第一にわたしの貞主ていしゅをお大名にしてくれないか? それが口惜くやしい!――お前のはらを割って見ると、そういう考えがあるのじゃあるまいかナ。ハハハハハ。』

と、張良は初めて唇を開いて、皮肉らしく笑った。

『そうでございますとも!』と、夫人は少し昂奮して、双頬を染めながら叫んだ。『わたくしからそう申しますのは、少々可笑おかしいか存じませぬが、主上の股肱とたのまるる、第一の功臣と申しましたら、あなたより外にはないということは、どなたもお認めの事でございます。あなたというものがあって、はかりごと帷幄いあくの裡におめぐらしになったればこそ、首尾よく項王を垓下がいかに追いつめてしまうことができたのでございます。韓信さまが淮陰侯とやらに封ぜらるるなら、あなたなどは、その前に、楚の半分位の大きな国のお大名に封ぜられるのが正当でございます。随分主上おかみも片手落な仕打をなされる……。』

『楚の半分位の大国は良かったナ。そうすると、わしは楚半国侯張良、お前は楚半国侯張夫人……。』

『冗談を仰ッしゃるのは、およしなさいませ。わたくしは真面目に、当り前のことを申して居るのでございます。あなたはいつも仙人じみたことばかり言っていらッしゃるので、そのんな場合に、貧乏籤びんぼうくじを引かされるのです。少しは子供達の身の上も考えていただかないと、行末が案じられるじゃございませんか! 今日の韓信さまの行列ぶりは、本当にお立派でございましたワ。それに引きかえ、あなたはいつも貧弱な従者を、ただ一人お引きつれになって、村夫子くさい恰好で、テクテク徒歩でお出掛けなさる。』

『よッぽど韓信の乗っていた、あの四頭立の馬車が御意に召したものと見えますナ。』

『だッてそうじゃございませんか! これまでさんざん苦労ばかり重ねて来たのですもの、わたくし達だッて、一生に是非一度は、あんな華麗な乗物にも乗って見たいと思いますワ。』

『乗るのもいいが、あぶなくてね、あんな乗物は……。』

何故なぜでございます。何があぶないのです?』

『動物に引張られるものは、やがて動物にはねとばされる。』

張良はしんみりした句調で、独りごとのように言うのであった、『わしはあんな、あぶないものに乗りたくない。もともとわしが主上のめに、身命をささげて働いたのは、何にもこれによって、功名富貴をつかむのが目的ではない。周末以降、あまりにも乱れに乱れた支那四百余州の秩序を回復して、塗炭にくるしむ二億の民衆を、平和の春光に浴させてやりたい。……余計なお世話かも知れんが、ただそれ丈の念願を懐いて、生死の巷に東奔西走して見たまでのことじゃ。あの親分肌の、器局の大きいだけが能事とりえである沛公という人は、言わばこの大目的に使われた一の傀儡かいらい、つまり時代の風雲に乗じて、大仕事を仕遂げた、一頭の巨龍なのじゃ。わしの眼から見れば、沛公がわしを使ったのではない。このわしが沛公を使ったのじゃ。すべて人間は、仕事をする間が花であって、仕事が済んでしまえば、もうその人に用事はない。わしなどは、このまま引込んでも、決して惜しくはない……。』

『まァいやでございますこと!』と、夫人は呆れた様子で、『あなたは、今日はよッぽどうかしていなさいます。苦労をする時は、散々苦労をするもよろしいですが、安楽をしてよい身分になったら、ゆっくり安楽をするのが本当かと、わたくし、そう思いますワ。又主上おかみにしましても、日頃あれほどまでも、あなたを力になされた義理ある仲でございましょう。御自分が、首尾よく皇帝の御位におつきになられた上は、あなたを相当な地位に引き立ててくださるのが、当り前の事ではないでしょうか。』

『イヤわしも一時はそう思ったこともあった。しかし今日韓信の顔を見てから、急にそんなことがいやになってしまった……。』

『韓信さまのお顔を御覧になってから……。何故なぜでございます? それは……。』

 張良はやッとききとれる位の低い声で囁いた。――

『俺の眼にいやなものが見えたのじゃ。――韓信はやがて非業の最後をとげるナ……。』

『エッあの韓信さまが……。御冗談でございましょう。』

『冗談ならいいが、どうもそれが事実となって現われそうでならんのじゃ。またくぐり時代の韓信と、四頭立の馬車の中にりかえつた淮陰侯韓信とは、同じ韓信でも、韓信が違うから困る……。もともとわしじゃとて、普通の常識の欠けた唐変木ではない。四頭立の馬車の乗り心地の悪くないことは、百も承知して居る。又くねくね幾まがりする、廻廊かいろう沢山の御殿に納まりかえって、傾国の美姫にかしづかるる、贅沢な殿さまぶりの棄てたものでない位は、充分想像せんでもない。完全な精神肉体をもった人間には、誰にも皆そうした半面があるものじゃが、生憎あいにく、俺にはそうした生活の後につづく、悲惨な状況が、ありありと心眼に映ずるので弱る。最初沛公をすすめて兵を起した当時、この心眼は、俺を助けて、よく今日あるを致さしめたが、今はその同じ心眼が、わしをして、富貴栄達の望みを断滅せしめる。……できることなら、わしはこの心眼を棄てたい。さすれば、たとえ一時たりとも、普通の人間並みに、現在の快楽に酔うことができ、お前達も、お蔭で、すきな真似もできるというものじゃ。が、どうもこのわしの心眼ばかりは、体につくりつけの道具であって、今更棄ててしまわけにも行かんでのう……。』

『そうしますと、あなたは、これから一体うなさろうと仰ッしゃいますので?』

『俺にもよく判らん。……よくは判らんが、しかし、どうやら俺の身に、一大転換期が、徐かに近づきつつあるように思えてならん。』

 夫人の顔には、次第次第に不安の雲が濃く漂って来た。そして血の気の失せた彼女の唇には、ピリピリと細かいふるえさえ認められた。

『一大転換期が近づいたと仰ッしゃいますと、それはのようなことで……。』

『それが今いうとおり、よく判らんと申すのじゃ。――しかしわしは、まさか、このまま死んで、腐った肉を蛆虫の餌に供えるほど、気のきかぬ真似もせぬつもりじゃ。又、お前達にしても、たとえ俺がどうなろうと、たちまちに路頭に迷って、袖乞そでごいをするほどに零落おちぶれもせぬであろう。天はそれほど残酷なものではない。兎に角取越苦労は、いくらやっても詮なきことじゃ。もともと、自分の意志で生れて来た人間の身ではないのであるから、将来も自分の意志のみで、自己の運命を決するわけにも行くまい。――イヤお前が入って来たので、俺の心の統一が破れて来た。もう少し、俺をこのまま、独り法師ぼつちで坐らして置いてくれ。それが済めば、お前達の顔を見ながら、晩にはいつものとおり、ひとさかずきを傾けることにしましょう。いかなる苦労をも忘れさせ、ながらにして天下を取ったような気分にさせてくれるのは、わしには、四頭立の馬車でもなければ、又淮陰侯の印綬いんじゅでもなく、ただ家族団欒の席で、チビリビリむ一ぱいの酒ばかりじゃ。』

 日頃良人の気分をのみ込んでいる夫人は、まだ何やらききたいような気がするのを、無理に抑えて、黙礼して、そのまま良人の書斎を出て行った。

 

 それから約一刻の後であった。後庭でまりをついて、独り遊びをしていた七歳になる張良の末のむすめが、あわただしく母親のところへ駆け込んで来て、白い髭を垂らした一人のお爺さんが、今うちのお父さまを連れて、フワフワ空を踏んで、向うのお山をさして、飛んで行ったというのである。

 夫人は覚えずふきだして、

『この児は何を言っているのです。大方夢でも見たのでしょう。』と言って、一笑に附してしまおうとしたが、子供があまりに真顔なので、少しは心配にもなって来て、急いで書斎に行って見ると、窓は元の通りとざされ、とうや、机や、文鎮や、何一つとして所をかえていなかったが、しかし主人の影は、何所にも見当らないのであった。

 それから急に大騒ぎになって、幾日かにわたりて、心当りの場所という場所は、隈なく捜索されたが、とうとうそれッきり、張良の行方は不明であった。

『張良は、きッと元のお師匠さんの黄石に導かれて、他界へ入ったのだ……。』

 家族をはじめ、当時の人達は、皆そう信じたのであるが、むろんその真偽は、何人にも知るよしもなかった。(完)


道普請

目  次

大理石


心霊図書館: 連絡先