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心霊小品集
龍宮行き
六
それッきり火遠理命が龍宮にとどまりきりであったなら、一体何うなったであろう?
むろん、理想の恋は遂げられたであろう。個人としての満足は得られたであろう。――が、天地の神々はそうすることを、火遠理命に許されなかった。イヤ許されなかったと考えるより外に、解釈の途がないのであった。
三歳の終りに近づいたある朝まだき、火遠理命が、その妃豊玉姫と、鴛鴦のふすまをならべて、打ち伏された時のことだった。不図一つの大いなる歎きが、その胸に根づよく宿った。外でもない、それはわが故郷を憶い出したことであった。
『今まで俺は、うッかりして居たが、近頃俺の故郷は、一たい何うなっているであろう? 俺は兄から釣鉤を借りたのだった。俺はその釣鉤をさがし当てたい一心で、郷里の海辺を彷徨ったのだった。それに俺は……俺は……。ああ何たる無責任な仕業であろう。これで天神の裔としての面目が立つであろうか? 借りたものをそのまま打ち棄ておくは、下郎の仕業である。蛮族のすることである……。』
一念爰に想い到った時に、命は慚愧のあまり、総身の血汐が頭部にむらがりのぼるのを覚えた。
『いよいよ鉤が見つからない時は、割腹して罪を謝すべきだ。おめおめと斯んなところで、甘い恋に耽っては居ってよいものか! これからすぐにも帰途に就こう……。』
命はそう思うと共に、我破とばかり寝牀の上にはね起きた。と同時に寝牀の中には、わッと泣き入る豊玉姫の声がきこえた。
『わが脊の君には……。とうとう今日の悲しい仕儀……。しばらく待っていただきまする……。』
瀧とあふるる紅涙を払いもあえず、つつと命の胸にとびついて、愁によりて一しお美しさをましたその面を、命の逞ましい首筋に押し当てて、よよとばかり泣き入るのであった。
『ああもう覚られたか……。そうだ! 何事ありとも、この人のみは棄てるわけには行かない。……よしよし一緒に連れ立って故郷に帰るとしよう。』
命がそう思った瞬間に豊玉姫は、一だん声を高めてわッと泣きくずれた。――
『おこころざしは、幾千代かけて、難有く存じまするが、わが脊の君、龍宮と現世と、その掟が異いまする。……魂と魂との語らいは、自由自在でござりますれど、肉と肉との語らいは、今日を限り、……こればかりは天地の神々が怨めしうござりまする。わが脊の君、これから現世にお帰りになられますると、日向の国の海辺の村長が子に、今年十七になる一人の少女がござりまする。それが妾の魂代、現代に於ける、妾のたッた一人の生れかわりにござりまする。わが脊の君は、現世にて、その少女と夫婦の語らいをなさるるのでござりまする。少女の姿は、今の妾に生写し、それは妾の魂が、そッくりその少女に写されているからでござりまする。』
皆まできかず、命はひしと豊玉姫をかき抱いて、首を左右に振った。――
『ならぬならぬ! 生写しであろうが、あるまいが、俺は汝より外に、二世を契る少女はない。これから連れ立ちて故郷にかえるのじゃ!』
『それが協へば結構なのでござりまするが』と、豊玉姫は身も世もあられぬ悲しい声をふり絞って、『現世と龍宮との間には、魂より外に交通の途は杜絶て居ります。妾のま事の姿は――まことの姿は、八尋にあまる龍。……お愕き遊ばしますな。これから先き、妾の体は常に龍宮の海に沈んで居りましても、妾の魂は常にお側に馳せて、千代に八千代に、御国の守護に当りまする。四季折々の変化はもとより、一切の自然界の働きは皆龍宮の受持、まさかの折には、きッとお手伝をいたしまする。それでこそ日出ずる国の行末は、世界のつづくかぎり、動がぬのでござりまする。かかる約束も、皆天地の神々の御経綸、これが若しお止め申してよいものなら、御体にからみついても、決して離れはいたしませぬが、どうしても、そんな無理のかなわぬが天地の掟、くれぐれもお故郷にお帰りなされました暁は、日向の国の、妾の魂のうつされた十七の少女をば、妾のおつもりで、末永くいたわっていただきまする。過ぐる三歳のありがたき御情思で、永世の堅い契が、すッかりむすばれたのでござりまする。縦令体は陸と海とにお分れしても、このちぎりばかりは破れませぬ。』
火遠理命は、何やら姫の言葉がよく腑に落ちかねるところもあったが、自ずと姫の情熱に引き入れられ、いつしか泪ぐましい気分になって、力かぎり姫の体を横さまにかきいだいて、熱い熱い接吻を施したのであった。
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