心霊図書館 心霊小品集創作編

心霊小品集

龍宮行き

 それから何時間にわたり、れだけの里程を走ったのかは、もとより判ろう筈もなかったが、兎に角火遠理命ほおりのみことは、日頃絵でお馴染なじみの、龍宮の都へ着いたのである。

 みことはしきりに臥牀ねどこ内部なかで、龍宮城に着いてからの、不思議きわまる、数々の出来事を、頭脳あたまの中に繰りかえして見るのだった。――

『そうそうわしは船から降りて、真先まっさきに、あの、さも龍宮らしい城門前の井戸端に行ったのだった。井戸の上には、大きな湯津香木ゆつかつらが生え茂って居た。俺がその木に登って、四辺あたりの様子を見て居るとも知らず、一人の侍女おんなが玉のうつわを、持って来て、それに水を汲み入れた。ツイ俺が茶目気分を出して、頚飾くびかざりの珠を一つはずして、右の器に放り込んでやると、侍女奴びッくりして悲嗚を挙げたが、それでも感心に、器を両手にかかえたまま、門内に逃げ込みよった。

わしはこんな悪戯わるさをしたことを、少なからず後悔して、そろそろ香木かつらの木から降りかけると、早くも門内から多くの侍者を随えて、龍宮王が自身其所そこへ現われて来たには驚いた。俺は見知らぬ異郷に於て、いかなるとがめに預かるかしらと、内心いささかびくびくして居ると、案に相違して、あれから龍宮王が発揮した歓迎ぶりと言ったら、一体うじゃ! これはこれは空津日高そらつひだか皇子みこ、ようこそ龍宮城へお出ましくだされました。すべては、皆天地の神々の御はからい、龍宮では幾万年の昔から、今日きょうのよき日を待ちに待って居たのでござる。ずこなたへ。――俺はその時は全く狐につままれたような感じがした。

『出来損ねの猿見たいに、よちよち木から降りるのもあまりに忌々いまいましかったので、思い切って、俺は高い枝から一と思いに、ひょいと飛び降りてやった。あれが若し普通の地上であったら、向脛むこうずねの皮ぐらいはすりむくところであるのだが、この龍宮というところは不思議なところで、ただふうわりと、さながら鳥の羽見たいに、音一つ立てないで、地面ぢべたに着いたのであった。う考えても、こればかりは腑に落ちない。

『イヤ腑に落ちないことと言ったら、他にまだ幾らでもある。うも龍宮王は、わしの身の上から近状までも、ちゃんと知りぬいているらしいから、呆れてしまった。俺が兄の火照命と、さちの交換をやったこと、釣鉤つりばりを失ったこと、昨日海岸を彷徨さまよっているうちに、塩椎しおつちの翁と逢ったこと、牙眼勝間まなしかつまの船なるものに乗って、ここへ来たこと、――そんなことを、一々間違なく言い当てるではないか。事によると、昨日逢った、あの塩椎しおつちの翁というのも、つまり龍宮城の間者まわしものかも知れん。……それは兎に角、歓待される気持は、決して悪いものではないので、わしはすべて先方むこうのやるとおりにして居ると、美智みちたたみ八重を敷いた上に、さらに絹畳きぬたたみ八重やえを重ねて俺を坐らせ、百取ももとりの机の代物しろものを具えての饗応ぶり、そして最後にあの豊玉姫を連れて来て、これは開闢かいびゃくの昔から、天地の神々のさだめられた約束であるから、すぐに俺にめあいさせたいという。……

『これには、さすがの俺も驚いたが、しかし、一と目豊玉姫を見たとき、俺の配偶は、この乙女でなければならないと思えた。筑紫つくしの国にも、手弱女たおやめは数かぎりなくあるが、俺の魂を打ち込むほどのものは、今にただの一人も見当らなかった。それがめに、俺はどんなに心の底にいいしれぬ寂しさを感じて居たことだろう。俺の心には、昨夜豊玉姫を見たときに、初めて温かい光が射した。とうとう俺は、少し唐突すぎる感じはしたが、父の王のすすむるままに、昨夜神前に於て、豊玉姫と結婚の式をあげたのであった。随分長い、鄭重な儀式であった。式が済んでから、俺は多くの侍女達にかしづかれて、この寝殿に退いたのだが……。そうそう姫はわしの傍に寝ている筈だが……。』

 一つづつ書き連ぬると長くなるが、みこと頭脳あたま内部なかで、ここまでの順序を辿るのに費したのは極めて短時間、ホンの寝返り一つ打つ位の時間に過ぎなかった。最後に自分と添寝した筈の、姫の事に考が及ぶと同時に、みことは電光にでも打たれたように、頭を枕からもたげて、自分の側を振りかえって見たのであった。

 が、白絹しろぎぬの厚い厚い寝床の中に寝ているのは、わが身只一人であることを発見したときに、みことの胸には、新たなる不安が起らざるを得なかった。――

『自分では正気のつもりでいても、俺は長い長い夢のつづきを見て居るのではないかしら……。』

 が、みことの懸念はただの一瞬間で、烟のように飛び散ってしまった。

 几帳の蔭に、サラサラと絹ずれの音がしたかと思えば、水のしたたるばかり、いとあでやかに、すでに朝の化粧をすませた。絵に見る天女そッくりの豊玉姫が、七分の情味に、三分の羞恥をたたえて、たちまち命の枕辺近くすり寄った。――

『あの、お眼ざめになられまして……。ごゆるりと遊ばしませ……。』


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