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心霊小品集

 間もなく小松は、夫婦に導かれて、病人の寝間と定められて居る奥の八畳に行った。それは茶間とは直角になった、廊下伝えの離れで、前面の狭い庭には、別に面白くもない松が五六本、向うの松並木の蔭からは、例によって海浜院の屋根がチラチラのぞいて居た。

 病人は不相変あいかわらず床の間を背後うしろに、南向きに寝て居たが、成るほど話にきいた以上に、衰弱の度が著しく、肉の落ちた土色になった顔は、むしろ死人の顔に近かった。小松が枕元に坐った時に、彼はドンヨリした両眼を開いたが、こちらの顔が見えたのか見えないのか、そのまま黙って、又それを閉じてしまった。『これでそんなにあばれるのかしら……。』と、小松はひそかに思った。

 病人の寝床の右側には六十余りの、がッしりとした体格の、田舎者らしい一人の老婆が看護していたが、小松が坐ると、何やらくどくど述べながら、莫迦ばか丁寧な挨拶をはじめた。下婢かひなのやら、又親族みうちのものなのやら、はっきりせぬので、小松が弱っていると、奥田がわきから口を添えた。

『これはたくばあやで……。親のだいから長く奉公して居りますもので……。何にしろ、手不足で看病がしきれませんから、先達手紙を出して呼びましたところ、昨日ようやく島から着きましたような次第で……。』

 それまで死んだように、鎮まり返って居た病人が、この時にわかに寝床の中から両手を突き出して、無茶苦茶に振りまわしながら、かすれた、しかし、力強い声で叫び出した。

『うるさい! みんな早くあっちへ行け! んなところへ来て、愚図ぐず愚図ぐずしゃべりやがると承知しねぇぞ! トンチキが……。』

 わずか数日前までおとなしい、内気な、善良な田舎青年であった敬三にしては、ひどい口のきき方で、さすがの小松も、ちょっとびッくりした。彼は心の中に考えた。

『矢張りこりャ憑霊の作用に相違ない。肉体は元のままの敬三だが、内容なかみは赤の他人――しかも余っぽど奥田一家を呪っている、怨みの霊魂か何かであろう。よしよし今日は一つ思い切って、根こそぎその正体をさらけ出してやる……。』

 彼はきちッと姿勢をととのえて、敬三の頭の真正面に座を占め、合掌がっしょう瞑目めいもくした。

『ひとーふたーみいーようーいつーむゆーななーやーここのーたりーももちーよろづー』

 暫時の後、このかぞえ歌が小松の口から漏れ出した。その調子はいかにもゆッたりと悠揚ゆうよう迫らず、何所どこに二十世紀のめまぐるしい世界があるかと言った趣なので、両三回繰り返してそれが唱えられている中に、何所どことなく八畳の一と間だけには一種寂びしい、きよい、そしていくらか神秘的な別世界が開けるべく見えた。

『ひゅ――ゆゅゅゅゅ――。』

 歌につづいた石笛の単調な幽韻ゆういんは、一層その情趣を強めるべく見えた。

 そうして約十分を過ぎたと思う時分に、それまで黙って寝て居った敬三が、意外にもたちまちむくむくと寝床の上に起き上った。そしていくらか体を反気味そりぎみにして、痩せ細った両腕を組んだ膝の上に突っ張り、凄い、冷たい、蛇のような眼光をして、キュッとばかり小松を正面からめつけた。

 奥田夫婦の面上には、恐怖と、懸念と、心痛とがみなぎわたり、気息いきを$呑んでブルブル唇をふるわした。が、八丈島から来た老婢ろうひのびッくりし方は一層露骨で、片手を畳に、片手を宙に、半ば以上歯のけた口をしまりなく開いて、『あ……あ……』と、ふるえた声でうめき出したのであった。


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