再生説と古神道

 前回に於て私は再生の意義につきて概説し、現世の生活は、取りも直さず、霊魂の修行の為めに設けられたる、一の学校であること、従つて或る霊魂は、其所そこで幼稚園の課程を修め、或る霊魂は小学校、又ある霊魂は、大学校の課程を修めること、又宇宙学校の教育方針は、飽までも開発主義であり、各自の努力を必要とすること等を申上げました。いかにも大ざつぱな説明でしたから、皆様の首肯し難き点が、沢山あつたことと思ひますが、それは回を重ねるに従ひて、次第に補足して参りませう。今回からは再生の手続につきて申上げようかと存じます。

 が、再生の手続を申上げるにつきては、その前提として、勢ひ霊魂世界の組織、並に霊魂といふ文字の意味を、もつとはつきりさせて置く必要が生じてまいりました。霊魂世界(又は死後の世界、他界、等)といふのは、超現象の世界に対する総称で、実は其中に、いくつもの世界が存在するのです。又霊魂といふ文字もそれと同様で、詳しく言つたら、霊魂の中にも無数の等級があるのです。心霊研究者が、唯物主義を当面の敵手として、荒つぽい輪講を行つて居た間は、斯んな概括的な用語で沢山でしたが、再生説などといふ微妙な問題を論議するには、到底それでは用事が弁じなくなつて来ました。少々面倒臭い話で、皆さまにお気の毒ですが、しばらく御辛抱を願ひます。

 づ霊魂世界の組織――それから申上げることに致します。こいつ実に厄介な仕事で、何所どこからう説明して良いか、実は私自身とて、ちよつと途方に暮れて居ります。申上ぐる迄もなく、霹魂世界を調査する手段方法は、

   霊媒といふ道具を使用すること

より外にありませんが、この道具は死んだ器械とは異なり、めいめい勝手な力量をそなへ、めいめい異なつた方面を受持ち、一として同様なものがありませんから、従つて甲の報告は、多少乙の報告と異なり、又乙の報告は、幾分丙の報告と一致しません。時とすると、相互の間に、天地雲泥の相違さへ生ずる場合もあります。で、現在に於ては、世界各地に現はれた有力な霊媒の報告をあつめて、厳密な比較研究を行ひ、更にそれを仏教、基督キリスト数、道教、神道等の古経典に対照し、づこれだけは動かぬ所と思考せらるる箇所を申上げるより外に、致方がありません。斯くしてのべるところが、絶対真理であるといふ保証は、到底附き兼ねますが、それが人間の手で行はるる、霊魂世界の調査として、最も信頼すべきものであることは確かであります。在来、一宗一派の帰依者達が、一二の経文のみにこびり附いて、それを唯一無二の真理であるかの如く押売りせんとした態度にくらぶれば、非常な相違であります。

 兎に角、私がこれから申上げようとする霊魂世界の組織は、さうした比較研究の結果、やつと出来上つたもので、現在としては、づこれなら大丈夫と、折紙を附けて宜しいものと思考されます。今一々その出所を申上げて居た日には、徒らに混雑を来すばかりで、纏りがつきませんから、ここには一切省略しますが、只一言皆様に御報告して置きたいと思ふのは、最近数十年間に、世界各地の有力な霊媒を通じて、霊魂世界の組織に就きて示されたものが、不思議にも

   日本古神道の教義

と、主要の点に於て、ことごとく一致して居る事であります。これはお国自慢でも何でもなく、全く赤裸々の事実で、私自身も今更ながら、日本古典の案外値打ねうちのあるのに驚嘆して居る次第であります。外面的には日本の古典は、実に安つぽく見えます。ちよつと見ると、幼稚極まる一のお伽噺位にしか見えません。が、それは解釈の仕方ができていないからで、一たん真の解釈の鍵を握つて見ると、世界のいかなる経典よりも、一ぼん歪みと、ゴマカシが少ないやうに感ぜられます。ところで日本古典の解釈にかけては、私はこの席においでの荒深さんの霊媒的能力に、大なる敬意を払ふものであります。私が荒深さんを収扱ひ始めたのは、まだホンの最近、やつと半歳ばかり前からに過ぎませんが、しかし容易ならざる長所を発見しつつあります。今後二年三年と追究を重ねて行く中には、よほど見るべき成績を挙げ得るでせう。今までの所でも、すでに相当の収穫が挙げられつつあります。日本の心霊研究の為めに、甚だ慶賀すべき事柄であります。

 さて然らば、霊魂世界をう別けたら宜しいかといふと、私はこれを三つの大きな世界に別けたいのであります。即ち

  一 神 界
  二 霊 界
  三 幽 界

の三つで、これに現界を加へると、都合四つの世界になります。地球を包囲する雰囲気内は、以上四つの層が重なり合つているが、もちろんその中で、一ぼん精妙稀薄なのが神界であり、霊界、幽界と順次これにぎ、人間の日常最も頻繁に接触する現象的物質世界が、一ぼん鈍重濃厚であるのです。いふまでもなく、それぞれの世界は、場所や距離の区別でなく、われわれの立てる地上が、同時に神界でもあり、又霊界でも、幽界でも、現界でもあるのです。丁度、空気とエーテルと重なり合つて、同一空間を塞いで居ると同じやうだと思つて戴けば宜しいでせう。

 地球の雰囲気内が,以上四つの界、若くは層から成立していると同様に

   われわれ人間の体も、亦四つの層から成立

して居り、そのお蔭で、人間はそれぞれの界に、交通の途が開けて居るのであります。日本の古神道では、その四つの層をば順次に
  一 奇 魂
  二 幸 魂
  三 和 魂
  四 荒 魂
と呼びます。即ち神界といふのは奇魂くしみたまの世界、霊界といふのは幸魂さきみたまの世界、次に幽界が和魂にぎみたまの世界、現界が荒魂あらみたまの世界なのです。四魂の解釈は、日本古神道に取りて重要無比のものですが、これに関する面白い解釈が、今回荒深氏の霊言によつて出現したので、日本の神典が、初めて生きたやうに感じられます。従来神道の学者達は、四魂を平面的にのみ解釈したので、その説明に無理が出来、近代心霊研究の結果と平行しかねましたが、右のとほり、之を縦に解釈したことによつて、千歳の疑問が初めて一掃された観があります。ざつと申上げますと、奇魂とは所謂いわゆる真澄ますみの境涯で、一切の汚濁と離れて宇宙の大精神と合一……、少くとも非常に相接近した、悟りの境涯であります。地球の雰囲気内ではここが最高の理想境、所謂いわゆる神界でありますが、もちろん、それが終局といふのではありません。奥には奥があり、一層高所から達観すれば、その上に更にすぐれた神界があるのです。即ち地の神界といふのは、天照大御神の知ろしめす世界の、霊界位に相当するらしいのです。しかしさう何所どこまでも奥へ奥へと突き進んで行つた日には、際限がありませんから、現在のわれ等としては、しばらく地の神界で打ち切りにして置くことに致しませう。地の神界とても、われわれ人間の境涯から見れば、

   玄々微妙なる直覚の世界

であつて、人間界には、ホンのその片鱗しか現はれて居ないやうです。人間は、基督キリストや釈迦を以て、殆んど理想の極致と考へたがりますが、それは霊魂界の奥のはうに接しないから、さう思ふので、彼等には、可なり娑婆臭いところがあるやうです。彼等が多く接したのは、せいぜい幽界の中の、ちよつと気のきいた境涯位に過ぎないやうです。これには異諭がありませうが、許しい話はこれを他日に譲ります。

 次に第二段の霊界、即ち幸魂さきみたまの世界といふのは、現代式に申上ぐれば、所謂いわゆる

   精神的向上の世界

であります。幸魂さきみたまの『サキ』は『先』であり『咲』であり『去』であり、つまり娑婆気を離れて、理想の天地に安住する状態を指すのです。地上の人間の、よほど気のきいたところでも、一昼夜二十四時間中、果して何時間をこの世界に過すものがあるのでせう。ヘタな連中になると、食ふこと、視ること、眠ることなどに、殆んど二十四時間中の全部を占領され、幸魂の世界には、さつぱり御無沙汰を致し勝ちのやうです。

 次に第三段の幽界、即ち和魂にぎみたまの世界となると、よほど其所そこに人間味が発生してまいります。和魂といふことを現代式に言ひ現はすと、つまり

   共存共栄を眼目とする境涯

で、人間でも少し気のきいた連中になると、相当多量の和魂を所有して居ります。いはんや幽界の居住者となると、厄介な肉体を放棄した結果、衣食住の心配がなくなり、人間のやうにガツガツ、ガミガミ相争ふ必要がない筈です。で、幽界が和魂の世界であるべきは、当然過ぎるほど当然なのですが、死んでも、地上生活の悪習慣が脱け切れない亡者連は、幽界に居りながら、依然として娑婆世界に見るやうな、争闘や軋轢に耽つて居ります。そんなのが所謂いわゆる修羅道だの、餓鬼道だのに落ちて居ると言はるる連中で、畢竟ひつきよう幽界の落武者、霊魂学校の落第生と言はねばなりません。

 次に最後の現界、即ち荒魂あらみたまの世界といふのは、一と口に言つたら、つまり

   慾望と情熱とに燃えつつある動物的境涯

であります。けだし荒魂は、一面からいへば新魂でもあり、まだ充分の精錬薫陶を経ず、その結果、お粗末な働きしかきない、霊魂学校の新入生徒に過ぎないのであります。

 兎に角斯うして見ると、一個の人間の成立は、なかなか複雑なものであることが判るでせう。私達が、従来一と山百文式に、ただ肉体と霊魂との区別を説くにとどまつて居たのは、実は問題を簡単化する為めの、便宜法に過ぎなかつたのであります。内面から考察すれば、宇宙の万有は、たつた一つの霊、たつた一つの生命の現はれでありますが、外面かられば、それは奇魂、幸魂、和魂、荒魂の四つに大別せられ、各魂とも、それぞれの本質を具へ、それぞれの層、若くは界を組織して居るのであります。私は便宜の為めに、それぞれの本質に、それぞれの名称を附けて置きたいと思ひます。即ち

   真体霊体幽体肉体

の四つであります。少々無理な名称か知れませんが、他に適当な文句も見当りませんから、しばらくさう呼ぶことに致します。奇魂だの、幸魂だのといふよりか、幾分現代人の頭脳あたまはいり易いかと思ふからであります。試みに右の四つの名称を、西洋式に言ひ現はしますと、真体は Spiritual body. 霊体は Mental body. 幽体は Astral body. 肉体は Physical body. といふことになりませう。枝葉の点につきていへば、多少の相違もありますが、根本に於て、右の分類法は、全世界の心霊研究者間に、共通のものであると見做して差支ないのであります。

 すでに生きている人間が真体、霊体、幽体、肉体の複合体であるとして、然らば其組成の割合はどうかといふと、生を現界に享けて居る以上、肉体(荒魂)が、その主要部分を占めて居ることは、改めて申上ぐる迄もありません。従つて人間は、その必然の結果として、或る程度慾望と熱情とに司配されます。近頃よく世間で高唱さるる『性の悩み』……全くそれは人間として、免れ難き弱点であります。困つたものだが致方がありません。荒探さんの守護霊から聴きますと、

   普通の人間は、荒魂が九割を占める

といふことでしたが、けだし当らずといへども遠からずでありませう。九割を差引いたあとの一割を他の三つ、奇魂、幸魂、和魂で、少しづつ分割するのであるから、いかにも心細い話で、これでは動物と相距ること、ホンの一歩であるのも無理ではありません。食つて、飲んで、寝て、起きて、子孫を遺して、後は殆んどぜろ……。あまり万物の霊長などと威張れた義理でもありません。尤もこれは、よくよく平凡な人間を標準としての話で、霊魂学校の課程を相当んで来て、ある程度物質的慾望の上に超脱した人間は、和魂や幸魂の分量がずつと加はり、外観的にも、気品が自から高くなります。例へば学者は自から学者らしく、博士は自から博士らしく、美術家は自から美術家らしいのを観ても、思ひ半ばに過ぐるものがありませう。ですから、俗気又は野気満々たる山師どもが、どんな大きな顔をして

   活神だの活仏だのと

駄法螺を吹き立てて見たところで、到底駄目であります。九割以上も荒魂あらみたまで造りあげた、お粗末千万な容貌風釆の所有者が何になります。同時に又、生きている人間に向つて、余り多きを求むることも、大いに慎まねばなりません。いかにすぐれた哲人高士でも、現界の住人である以上、荒魂の五割や六割は持つて居りますから、幽界や霊界の、すぐれた居住者のやうには、到底参りません。人間味のない人間は、畢竟ひつきよう現界の片輪者で、矢鱈にそんな片輪者を尊重すると、結局人生の破滅を招来することになります。印度などが、恐らくその良いみせしめで、日本の心霊家は、断じてそんな真似をしてはなりません。

 かく現世の人間が、肉体を主要機関として居るやうに、幽界の居住者は、幽体を主要機関とし、霊界の居住者は、霊体、神界の居住者は、真体を主要機関として居ることは申すまでもありませんが、その割合は、人間の場合にキチンと一定し得ないと同様に、他界の居住者の場合にも、キチンと一定はして居らぬやうです。ここに順序が生じ、等級が分れます。つまり内面から見れば一列平等、外面から見れば千差万別、再生といふことは、さうした宇宙大装置の中にあつて行はるる、一の大切な仕事であるやうです。

 イヤ準備的説明がだんだん長くなり、本日は遺憾ながら、この辺で打ち切りとせねばなりませぬ。次の機会には、もすこし本題に近寄り得ることと存じます……。

 (昭和三年五月二十日於大阪心霊研究会)

日本神霊主義と祭祀

序文および目次

国家の守護神