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祈願の意義

 従来私はもっぱら心霊問題の科学的研究、つまり学問としての心霊研究にきて、力を用いて来ました。無論今後どこまで行っても、私はこの方針を棄てる考はありません。何となれば、心霊に対する研究心の衰滅は、社会万般の問題に対する、基礎工事の崩壊を意味するからで、政治も、道徳も、宗教も、その瞬間から、直ちに腐敗堕落の径路を辿ります。就中なかんずくその影響の最も顕著なるは宗教であります。現在、世界の既成宗教のほとんど全部が、いかに活社会に対する実勢力を失いつつあるかを見ても、思い半ばに過ぐるものがありましょう。つまり他界との直接取引があっての宗教で、断じて

   宗教あっての他界との交通ではない

のであります。丁度、外国との直接交通があっての外交で、外交あっての外国との交通ではないのと同様であります。研究心の薄らいだ宗教家などが、かれこれと難癖をつけて、強いて心霊問題に遠ざかろうとするのは、勿論むろん彼等の勝手であるが、われわれから見れば、人間お茶を濁すのには、随分骨の折れるものだと、ただお気の毒に感ずるばかりであります。

 が、われわれは、ただ側目わきめもふらずに研究室に立てこもりて、心霊問題さえ研究してれば、それで能事畢のうじおわるという訳にはまいりません。われわれは、御同様生身なまみを抱いて実務に当り、言わば活きた人生の構成分子なのであります。

   心霊研究者である以前に一個の人間

なのであります。ですから心霊問題に関して、何か一つでも悟るところがあれば、それが実生活の上に、如何いかなる影響を及ぼすかを、直ちに攻究することを怠ってはならないのであります。未解決のまま残っている、人生の活問題に対して、心霊研究者の考えを費さねばならぬ事は実に多い。で、私は今後皆様と接触する、今日のような機会を利用して、平生頭脳の中に埋もれている考を引き出して、できる丈整理を加えて、作らず飾らず、有りのままにそれを発表することに致そうかと思います。皆様の方でも、何卒なにとぞ単に受身にばかりしてられないで、腑に落ちない所は、忌憚きたんなくあくまで追究し、又必要と思召おぼしめしの問題は、御遠慮なくドシドシ提供さるるよう切望の至りにえません。

 本日は思いついたまま、取り敢えず、祈祷又は祈願に就ての卑見を述べて、皆様の御批判を願おうかと思います。

 言うまでもなく世間には

   祈祷無用論者

が沢山ります。『んだ祈祷? あんなものは、一の自己暗示だ。』などと、一と口に罵る者もあります。『祈祷も面白いか知れぬが、ただ余り多数おおぜいから、勝手な事を祈られた日には、神さまも忙がしくてやり切れないだろう。』などと、あたまからひやかす者もあります。ちょっと聞くと、それ等の人達は、大へんえらそうにも見えますが、一旦何等かの突発的変事にでも遭遇すると、そんな連中、蒼白まっさおな顔をして、人前をもはばからず、ブルブル声で、アーメン、ソーメン、南無阿弥陀仏……一朝にして、大々的祈祷論者に早変りするのが多いから、実に滑稽であります。ドウも人間には人間以上の、眼で見えない、ある偉大なる力にすがろうとする素質が、先天的にそなわってるらしく思わるるのであります。

 近代心霊科学の研究が、長足の進歩を遂ぐるに連れて、この点は一層明白になって来た観があります。極度に厳正無比のやり方で、主観客観、各種各様の、無数の心霊現象を研究して見ると、うしても、現象世界の奥に、微妙不可思議なる一の未知の世界、所謂いわゆる霊界の存在が疑われないことになる。その霊界には、低級愚劣の居住者もすくなくないが、同時に又偉大優秀、とても人間業では太刀打不可能と思わるるような、素晴しい居住者もる。『イヤ実に恐れ入ったものだ!』――そうした嘆声たんせいは、いやしくも真剣味をもって、他界との実地の交通に当った研究者の、ひとしく発するところであります。

 これを要するに人間が大威張りで、小山の大将をきめるのは、心霊上の知識が、皆無の時に限ったことで、霊界の実状に通ずれば通ずるほど、心霊の知識が加われば加わるほど、次第次第にあたまが上らなくなり、とどのつまり、一切万有の奥の奥の無限絶対の大威力神に向って、随喜ずいき渇仰かつごうの手を延ばすより外に、致し方がないことになるのであります。自己の微弱なることを自覚するものの、やる瀬なき衷心よりの訴え――それが取りも直さず、宗教的の真の祈祷であり、祈願なのでありましょう。私は、うした意味の祈祷祈願こそは、至純至誠なる人間性情の清きほとばしりであって、はなはたっとしといものであると確信するものであります。

 祈願の根本的意義は、んなところで一応判ったとしましても、われわれはすこし立ち入って、祈願を行うものの心の準備、その他につきて、できる丈考察を遂げ、夢にも、取りかえしのつかぬ過誤に陥ることのないようにつとめたいと考えます。

 

   祈願者の心得又は心の準備

から申上げます。改めて申すまでもなく、吾人の観念なるものは、これを心霊学上から観れば、一の生物であります。私の心霊講座中には、しばしばこれを立証すべき、幾多の実例が掲げられてりました。例えば生者の思念が、遠方で行わるる自動書記に現われたり、又生者の姿が、心霊写真に写ったりするの類であります。本邦でも、昔から生霊いきりょうの恐ろしいことは、よく知られてりました。一時お粗末な唯物説にかぶれた人達は、這裏このあたりの微妙な消息を知らず、大きな面をして、

   俺が何を考えようと俺の勝手だ

などと放言したものですが、それは途方もない謬見びゅうけんであったのであります。思想は単なる思想として、本人の一方丈にとどまるものでなく、立派な客観的実在物として、外界に放送され、善きにつけ、悪しきにつけ、その周囲にそれぞれの影響を及ぼすのであります。うした事柄は、昔の素朴な人間には、ただ暗々裡に直覚されてたにとどまりましたが、近代の心霊研究者は、科学的に、実験的に、立派にその事実を証明しました。

 この事実が判明して見ると、祈願というものが、いかに細心の注意をもって行われねばならぬかは、言を待たずして明白でありましょう。われわれは是非とも、

   正しい祈願

らねばならない。不正な祈願なら、行らない方が遥かにましなのであります。そこで当然、いかなる祈願が正しいかという問題になりますが、第一にそれが善意の祈願、愛の祈願であるべきことは、言うまでもありますまい。人間は片時も、孤立的に存在し得るものでなく、宇宙構成の一分子として、絶えず宇宙意思、大自然神に順応することによりてのみ、初めて生存を許さるるものであります。従って人間は自己に対し、同胞に対し、神に対し、一切万有に対して、常に善意をつことが絶対必要であります。万々一われわれの祈願にのろひ、怨、不平、不満、自暴、自棄等の痕跡だに混ったら、それこそ大変です。何となれば、われわれはそうすることによりて、結局自己破滅の種子たねを蒔きつつあるのであるから……。

 が、善意のみが、愛のみが、正しき祈願の全資格を作り上ぐるものではないようであります。善意の祈願であっても、其所そこに判断のあやまりがあっては、さっぱり駄目です。つまり、正しき知識、正しき思慮のくわわった善意の祈願――これでなければ、充分に祈願の威力を発揮し得ないのであります。う考えた時に、祈願が容易ならざる、困難な仕事であることがお判りでありましょう。世間には、往々最大の善意をもって、トンチン漢極まるデモ祈願を為し、あたら貴重な時間を徒消としょうしてるものが、尠少せんしようでないのであります。御参考までに、私が腑に落ちかねた一つの実例を申上げましょう。

 私の知人にOという一敬神家がりますが、この人は毎朝未明から起きて、神前で二時間ばかり、いろいろの祝詞のりとをあげて、祈願を籠めるのを日課としてります。祈願の件々は、白紙に清書して、神壇に貼りつけてありますが、これを見ると、『天下泰平、国土安全、五穀豊饒、聖寿無窮、家内安全……』といったような文句であります。私はそれが善意の祈願であることには、毛頭疑を挿みませんが、ただそれが、はたしてOという市井の一個人の祈願として、思慮分別に富んだ適当な祈であるかということに想到した時に、いささか疑念を起したのであります。何故なぜかと申しますれば、私にはうしてもこの人に

   自己の力量に対する識別力が欠けて居る

としか考えられなかったからであります。つまり自分の力には及びそうもない途轍もない、大きな問題を提げて、矢鱈やたらに神に訴えたところで、それがはたしてドウなるか? まさか神さまの方でお怒りになられもしまいが、『そんな問題は、お前の方で心配してくれなくてもよい。』と言われはしまいかと、私には思われて仕方がなかったのであります。これはホンの一例に過ぎませんが、一事は万事であります。要するに正しき祈願というものは、善意丈では足りない。是非とも自分の身柄にしっくりはまった、止むに止まれぬ、衷心の訴えでなければ駄目だということを、例示するには充分かと存じます。自他をきずつくる悪意の祈願の、極力避くべきは申すに及ばず、同時に的がはずれたり、通り一遍の紋切型に陥ったり、又は偽善臭を帯びたりする祈願も、またはなはだ面白からぬ結果をもたらすのであります。これはお互いに、気をつけた上にも気をつけたいと痛感します。

 私の所謂いわゆる正しき祈願の意義は、これでほぼ見当が取れることになったと存じますが、実際問題として、ここに是非とも攻究を要する、非常に大切な事柄が、お一つ後に取り残されてります。外でもない。それは

   祈願の対象を何れに置くべきか

 換言すれば、いかなる神、もしくは仏に向って祈願すべきであるか? という問題であります。

 この点に関して、基督キリスト教徒は、一面から観れば、はなはだ世話の焼けない境遇に置かれてります。彼等から言えば、祈願の対象は、たった一つの神しかないことになってり、んな問題でも、ことごと其処そこへ持ち込めばいのです。問題を簡単化するという点からいえば、これほど簡単なやり方はありませんが、しかし其処そこには、非常な無理も伴います。物質的現象界と、無限絶対の宇宙の大霊との中間に、何等の存在物も無いというなら、このヤリ方で差支さしつかえないでしょうが、それが事実でないことは、すでに心霊科学上、立派に証明されてることで、現象界の奥には、げんとして霊魂の世界が存在し、秩序整々として、天地の経綸に任じつつあるのであります。その事が判らなかった時代に、これを無視したのは致方いたしかたがありません。丁度地理学の発達しなかった時代に、われわれが欧米人士を一と山百文式に、南蛮人と呼んだようなものであります。が、だんだん他界の消息が判明して来た今日、依然として旧態を墨守ぼくしゅし、強いて眼をつぶりて、他界の存在を否定せんとするが如きは、実に下らない話で、言わば

   一の精神的鎖国主義

に陥ってるのであります。現に基督キリスト教徒自身すら、古来この点に関して、迷いに迷いを重ねて来てるというのが実際であります。彼等の所謂いわゆる『ゴッド』という言葉は同一でも、その内容は決して同一ではないのです。そねむことを知る神、供物を歓迎する神、一地方一個人を偏愛する神、姿を見せたり言葉を発したりする神……それが宇宙の大霊、所謂いわゆる絶対の神でも何でもないことは、三尺の童子も、先刻気がつくべき事柄でありましょう。思索想像の終点に、絶対の唯一神を認むることは、勿論むろん文化人としての最大特権で、吾人の信仰の最高の理想は、そこまで進まねば駄目でありますが、これを認むることは、決して基督キリスト教の専売でも何でもなく、日本の神道でも、印度の仏教でも、皆其所そこまで到達してるのであります。ただわれ等は、絶対の独一真神を認めると同時に、現象界の奥に、差別的霊界の存在をも併せ認め、その必然の結果として

   諸神又は諸仏の崇拝

をも行って来たのであります。この点において、日本人は、世界中で、恐らく最も徹底した信仰をってるもので、敬神崇祖をもって国民の信条とし、個々の守護神を認め、郷土の守護神を認め、社会民衆の守護神を認め、又進んで国家皇室の大守護神をも認めます。これがめに、一時基督キリスト教徒、又は仏者の輩から迷信呼ばわりをされましたが、最近の心霊科学の実証するところによれば、実はこの方が遥かに正しかったのであります。 ただし、日本式の八百万神の思想にも、幾多の弊害が伴うことは事実です。その最大の弊害はけだ

   功利主義の信仰鼓吹

に陥ることで、いかがわしき性質の淫祠いんし邪教じゃきょうが、到る所に巾をきかせて、神聖なる日本国土を汚すことになっています。正しき祈願と、利欲みよくの信心とは、形の上にいくらか似た点がありますので、ややもすれば人を惑わせますが、実は両者の間には、氷炭ひょうたん相容あいいれざる相違点が存在します。正しき祈願は、常に利他的要素が基調を為し、その結果自己の救済を伴いますが、利欲みよくの信心は大抵排他的要素が基調を為し、その結果、最後に自己滅亡の基を構成します。

 言うまでもなく、信仰は各人の自由、一分一厘他から強制することのできないのが、信仰の信仰たる所以ゆえんであります。われわれは、夢にも他の信仰に向って、くちばしを挿んではなりません。一神教だの、他神教だのと言って罵り合うが如きは、心霊上の知識のとぼしかった、十九世紀の遺風で、現代人の最も慎まねばならぬ事柄であります。各人皆境遇が異り、性情が異なり、習慣が異なり、国土が異なり、又頭脳の深みや、理解の程度が異なります。各人の信仰を一つにしようなどと言ったところで、それは到底できない相談、信仰は一人一人にことごとちがうというのが、けだし本当でありましょう。従って祈願の対象を、何所どこにきめるのが一番良いかという問題に対して、私はこれこれの神、もしくは仏に限ると考えることは、到底できません。結局私の考え得るところは、ただ左の数語に尽きます。――

『すべての祈願は、それがいやしくも、私の所謂いわゆる正しき祈願でありさえすれば、各人その認むる所のいずれの神、又はいずれの仏にささげても少しも構わない。その対象が、宇宙独一真神だから高尚でもなければ、又それが諸神諸仏の一つであるから、安っぽい訳でもない。最も慎しむべきは、正しき祈願と、利欲信心との区別を誤まらぬこと、下拙へたな祈願なら、むしろせぬ方がよっぽどましだ……。』

(昭和三年二月二十六日於大阪心霊研究会)


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