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神社と祈願

 日本は世界中で、比類なきまでに、神社組織の行届いた国であります。それが行届いてる丈に日本人たる者は、神社の意義、目的、性質等につきての、正しい観念を有たなければならない。ただ習慣的、形式的に神社の前で拍手を打つとか、神社を中心にお祭り騒ぎをやるとかいう丈では、世界の神社国民たる資格がないと言わねばならない。

 平生私がしばしば申してる通り、神社の存在を意義あらしむるめには、われわれはその以前に、ず神霊の実在を、学術的に証明しなければならないことは、勿論むろんであります。神霊の実在はこれを否定するが、しかし神社の存在は、これを肯定するというのでは、何の事やらほとんど意味を為しません。今は一と昔以前、かの日清戦争の時代に、ある御用商人が、軍隊に牛肉の鑵詰かんづめを納めたが、いざ戦地でこれを開けて見ると、中には牛肉はなく、砂利が一杯詰っていたというので、非国民呼ばわりを受けたことがありました。全く中身なしの鑵詰かんづめでは、何とも致方いたしかたがありませんが、神霊ヌキの神社は、丁度右の不正鑵詰かんづめのようなもので、そんなものを国民に強うる学者、神職などは、非国民だと言われても、あるいは返す言葉がないかも知れません。

 私は今ここで、神霊の有無にきて、かれこれ論じているいとまもなく、又その必要もないでしょう。何となれば、心霊科学の立場からすれば、この問題はすでに学術的に、立派に証明された事柄であり、これを否定する位なら、むしろ自分自身の存在を否定した方が、マシだと思考せらるるからであります。しもこれに対して、今お疑義を挿まれているお方がありますなら、何卒どうぞ、心霊上の有力な参考書をひもとくとか、又有力な心霊実験に臨むとか、それぞれ必要な手段を講じて戴きたいのであります。私どもとしては、いかなる場合にも、よろこんで御相談に与かり、でき得るかぎりの御便宜を計ることを辞せないものであります。

 が、神霊の実在が事実であるから、神霊が神社の内部に入っておいでなさると考えることは、早計であります。御承知の通り、神霊は超物質的、第四次元的存在であり、これに反して、神社は物質的、第三次元的存在であります。故に、丁度人間が家屋の内部に入っているような工合ぐあいに、神霊が神社の建物の内部に入ってると考えることは、はなはだ不合理なのであります。

 神社制度を創始された、われ等の祖先達にしても、決してそんな幼稚極まる、唯物観念の奴隷ではなかったと信ずべき理由が沢山あります。見よ、神社は決して宏壮こうそうな建物であるを要しない。おそれ多い話だが、伊勢の神宮にしても、おおきさからいえば、到底東大寺や、本願寺のような、大伽藍だいがらんと比較はできない。中には間口がたった三尺か、一間の小社もすくなくない。そして神社というものは、これで一向差支さしつかえなしとしてある。この一事を見ても、われ等の祖先達の霊的直感力が、非常に優れていたことがうかがわれるのであります。

 更に物質主義的見地から到底不可解なのは、あの神社の中枢を為している御神体でありましょう。曰く、御幣ごへい、曰く玉又は石、曰く神鏡……あれはそもそも何を意味するか? 『どんなものが入っているかと思って、扉を開けて見たら、ただの石コロが入っていた……。』 私はかつて、某神社の臨検に来た一人の官僚が、そんなことを言って、侮蔑の色を浮べた実況を目撃したことがありますが、こんな態度で、神社の臨検をしたら、どこの神社も、門並かどなみに落第です。私はそんな連中をつかまえて、決して不敬呼ばわりは致しません。が、そんな連中が、心霊上の知識によくよく欠けているのには、いささか呆れざるを得ないのであります。

 心霊科学の立場からすると、日本の神社ほど、信仰教育の機関として、理想的に出来ているのは、世界中の何所どこにもないと痛感します。神霊と人間との念波の感応道交を助ける点において、そこに一点の申分もなく出来ている。ず人間の側からいうと、あの鬱乎うつこたる老松老杉の木立、あの清浄なる白木造りの神殿、あの苔蒸せる石階せつかい、あのすがすがしい御手洗みたらし……人間をして、しばしなりとも、平生の邪念を一掃して、神に近づかしむるようにしてあります。次に神霊の側からいうと、極度に神聖に保たれている御神体を、アンテナとして、人間の世界と感応の道を開くことができるのであります。全くもって至れり尽せりであります。

 われわれ心霊学徒の立場からすれば、かの仏教の寺院、又キリスト教の会堂なども、決して棄てたものではないようでありますが、ただいかにも、少々無用の装飾、又は不純性の夾雑物きょうざつぶつがあって、信仰教育機関としての効果が、よほどがれているように思われます。これは実地に体験された方々の、うにお気づきの点でありましょう。

 これを要するに、日本の神社は、すべてを意念のエーテル波動と解し、その見地から考察を加えた時に、初めてその難有ありがたさが判ります。われわれは平生、鎮座だの、鎮守だのという言葉を使いますが、勿論むろんこれは敬虔の念から出た言葉の綾であります。神霊を単なる主観的存在だとするのは、勿論むろん間違であるが、神霊と神社とを、同位同格に考えることも、また同様に間違で、どちらも正しき神霊観とは言われない。

 ついでに、私がここで一言附け加えて置きたいと思うのは、各神社の眷族のことであります。神社の祭神は、普通皆高級の神霊で、物質的現界とは遠くかけ離れた、上の世界に居住されてりますが、しかし現界の神社の神聖を保ち、つ現界人の保護指導に当るべく、人間とあまり距離のかけ離れていない、適当な幽的存在、主として自然霊を、眷族として使われてることは事実であります。神社の境内で、無体を働いて神罰を蒙ったなどというのは、あれは皆そう言った眷族の仕業で、決して高級の祭神そのものが、神罰を加えられるのでも何でもない。この点は、人間としてよくよく注意すべき事と考えます。さもないと、高級の神霊に対して、飛んでもない勘違いをなし兼ねないおそれがあります。

 さて神社を考える以上、われわれとしては、直ちに祈願にきて考える必要があります。神社と祈願とは、何所どこまで行っても、切り離せない性質のものだからであります。

 つらつら考うるに、祈願又は祈祷の起源は、人間が人間以上の存在を認めて、これに依存せんとする心持の現われで、非常に古い歴史を持っているのであります。そしてそれは、恐らく思索の結果というよりも、むしろ感情又は本能の所産で、る程度理窟りくつヌキで、自然に始められたものでありましょう。る人が 『祈願は、人間を物質以上の存在なりとする、内的確信から出発している。』 とのべたが、私も大体そんなことだろうと考えています。

 さて祈願にもいろいろ種類がありますが、中で最も原始的なのは、恐らく一の哀願、つまり困った時の神依みでありましょう。 『何卒どうぞこの厄難から免れさせたまうように……。』 『何卒どうぞこの病を治して下さいますように……。』 まあそう云った種類で、俗にこれを現世利益だの、御利益信心だのと申します。そして首尾よくその祈願が叶った時には、当然これに対するお礼、感謝が伴います。もっとも中にはひどい奴があるので、神様にたのむだけたのんで、後は知らぬ顔をしているのがあります。これではいかに神様でも、良い気持はなさるまいと思います。

 御利益信心式の祈願も、る程度仕方がないでしょうが、ただ困るのは、それがあまりにも、私利私欲の色彩を帯びることであります。つまり自分の力で立派に出来る仕事を、神様にたのんで、手ブラでうまい汁だけ吸おうという、太い料簡りょうけんであります。この夏、私は箱根に行った時に、箱根神社に参拝しました。しばらく社頭で気息いきを入れてりますと、東京の実業家らしい、三十代の若者が大きな声で、しきりに神様に御祈願していました。きくともなしに、それを聴いてると、 『商売繁昌致しますように。』 とか、 『家内一同無病息災に暮らせますように。』 とか、気の毒なほど沢山の注文を持ち出して、神様を困らせて居ました。 『これではあまり虫が良過ぎるようだ……。 』 私はおぼえず苦笑を漏したことでした。こんな祈願は、神様に通じる代りに、ややもすれば、茶目の動物霊などに通じますから、お気をつけて下さい。

 モウ一つ祈願で困るのは、これが口癖の文句の行列になることであります。何所どこの神社へ詣でても、いつもスラスラと、丁度鸚鵡おうむのように、きまり文句を並べ立てる。これでは御本人の耳には届くかも知れませんが、到底神様に通じる筈がありません。祈願には熱と力が必要です。つまりそれが止むに止まれぬ、衷心の思想感情の勃発したものでなければならないのであります。それでなければ、とても強力なる念波とはなり得ない。これは思想伝達の心霊実験が教えるところであるから、絶対に間違いはありません。

 つまる所、祈願は、それが単独の私的祈願であろうが、又多数合同の公的祈願であろうが、いずれにしても、ず動的であり、又積極的であるを要し、さもなければ、一向祈願の甲斐がないのです。思想というものには、たしかに動静の二方面があります。静的のものは、それ自身の内にとどまり、動的のものにして、初めて外に働きます。仕事をする気がないのなら、静思内観だけで良いが、何か仕事をしようと思わば、外に向って、自分の思想を力強く放射せねばなりません。

 フランスの神経専門家のバラダック博士は、先年多くの実験を行い、人体の放射線を写真に収めました。それは、る特別に調製された種板を用いて、空間を写すのですが、ある多人数の祈祷会でそれを試みると、大衆の頭上に、飛龍のような一大円柱が現われた。それから、又熱心に祈祷をしている、る一人(熱心なるカトリック信者のド・ローカス大佐)の身辺を写して見ると、その種板には、頭上約三尺の辺まで上昇している、羊歯しだ状の妙な光体が現われた。此等これらの実験が、何を物語るかははなはだ明白で、熱情をこめて祈願をむれば、その人の体内から、一道のエネルギーの流れが放射されることが、よく判るのであります。言うまでもなく、その際に必要なるは、魂から出発する心霊的エネルギーであって、口から出る言葉は、ただ空気に振動を与えるだけなのであります。

 一部の人士は、いかに神様にお願いしても、さっぱり効験がないなどとこぼしますが、これは恐らく神様に罪があるのでなくして、御当人に罪があるのだと思われます。つまりその祈願の性質が面白くないか、それとも祈願の力が弱いか、二つのうち、どちらかであろうと思われます。ただし実際問題となれば、右の二つは、多くの場合において一致してります。即ちそれが不正な祈願であれば、自分でも内々気が退けるから、従ってその力は弱く、これに反して正しき祈願であれば、自分でも大威張りで、所謂いわゆる俯仰ふぎょう天地に恥じざるの慨があり、時とすれば、神様に向って、号令をかけ兼ねない勢になります。そんな祈願なら、勿論むろん天地の神明に感応するでしょう。

 私は今ここで、いかなる性質の祈願が不正であるかを、キチンと判で押したように決めることはできません。人間の発達程度には、多大の相違があり、従って甲に適当な祈願が、必ずしも乙にも適当とは言われない。日本国内にいろいろな種類、性質の神社の存在が、必要視されているのも、そのめでありましょう。が、祈願の概括的指針としては、 『できる限り私欲私情に遠ざかれ』 というのが、古今東西の識者の、等しく推薦するところであります。マイヤースの通信にも、んなことが説かれてります。――

 『神に祈願する者は、自己の赤心を披瀝ひれきし、ず自分自身を浄めねばならない、神の前に開陳せんとする願望に、一点利己主義の臭いがあってはならない。彼はすべかららく自己の殻からけ出で、一切の生命と合流するの気概がなければならない。そうすることによってのみ、彼は初めて神に近づき得る。原則として、彼自身に許さるる祈願は、精神的霊的のものだけである。他人のめにのみ、彼は物質上の恵みを祈願して差支さしつかえない。更に忘れてならぬことは、祈願がこれを述べる場所によりて、ごうも神聖化しないことである。神社、寺院、教会等は、汝の精神を、正しき方向に導く効果はあるであろう。これと同様に山間の静寂境なども、汝の気分を高めるのに適当かも知れない。祈願を行うに際して、汝がそうした境地をえらぶことははなはだよい。が、何所どこに居やうが、先決問題として大切なことは、汝の心から、恐怖、疑惑、猜忌さいき心、利己心、怒、怨、その他の罪穢を、きれいに払いのけることである……。う言った一般的忠言は、あまりにも、難きを人に求むるように見えるかも知れぬが、各自はその分に応じて、適宜に取捨すればよい。各自は智的にも、又情的にも、それぞれ等差があるのであるから、此等これらの忠言の適用は、各自において工夫することが必要である。これを要するに祈願の要諦は、真心の一語につきる。空言浮辞ふじが一ばんいけない。無邪気で熱心な田夫野人でんぷやじん小供こどもらしい祈願が、しばしば堂々たる礼式と、荘重なる措辞そじとで行わるる、大僧正の祈願にまさりて、神に達する所以ゆえんである……。』

 説いて充分ともいえないが、これなどはたしかに、祈願の性質をきめるのに、多少の参考になるところがあるかと存じます。

 次に私は祈願の対象につきて一言したいと思います。 『何所どこの神様にお依みをすればよいか? 』 ――私はよくう言った質問に接しますが、実際問題として、それは余り拘泥するには及ばないと信じます。たとえば、ここに洋上で難破した船舶がありとします。そうした場合に執るべき最善の手段は、できる丈強力な無電で、救助を求めることで、何所どこの無電局と、特別に名指す必要もなければ又余裕もない。祈願の場合も、これと同様であります。神霊の世界は、四通八達の連動装置になってり、必要と考えれば、時と場合で、それぞれ適当な援助を与えてくれます。この際大切なるは、ただ強く正しく 『神様』 を念ずる丈で、格別人間の方で、申込所の選択などを気にするにも及びますまい。

 最後に一言御注意申上げて置きたいことは、いかにすれば、祈願を強力にすることができるか? でありますが、これは極めて簡単で、できる丈焦点を造ればよい。換言すれば、その目標をただ一つにきめて、これに全力を挙げればよいのであります。矢鱈やたらに気ばかり多くて、両手に花式、犬も歩けば棒に当る式の軽薄な態度は、ひとり祈願の場合に面白くないばかりでなく、何をるにも、ず失敗は免れないと思考されます。

(昭和十一年十月二十四日於大阪有恒倶楽部)


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