霊訓

第十一章 審神の要訣


問『あなた方の所説は、はなはだ合理的とは考えられるが、千八百年にわたりて、われ等の心胸に浸み込まされた信条の放棄は、非常な重大事である。願くばもっと明確な証左しょうさを御願いしたい。』

 宗教の真義――友よ、汝の熱心な疑惑は、われ等にとりて、この上もなき福音である。単なるドグマに捕えられず、あくまで合理的に真理を求めんとする心掛こころがけ――それでなければ神慮しんりょにはかなわない。われ等は心から、そうした態度を歓迎する。われ等の最も嫌忌けんきするのは、そこに何等の批判も考慮もなしに、ただ外面のみを扮装した、似而非えぜひ人物の似而非えぜひ言論を鵜呑みにせんとする、軽信けいしん家の態度である。われ等はかかる軽信けいしん家の群に対して、言うべき何物もない。同時にわれ等の手に負えぬは、かのよどめる沼の如き、鈍き、愚かなる心の所有者もちぬしである。われ等の千言万語も、遂に彼等の心の表面に、一片の漣波さざなみさえ立たせ得る望みはない……。

 さて汝の提出した疑問――われ等としては、これに証明を与えるべく全力を傾けるであろうが、ある地点に達した時に、それ以上は、いかにしても実証を与うることが不可能である。汝も熟知するとおり、われ等は到底打ち勝ち難き、不利な条件に縛られて居る。われ等はすでに地上の住人でない。かるが故に、人間界の法廷において重きを為すような、証拠物件を提示し難き場合もある。われ等は、ただ吾等の力に及ぶ証明をもって、汝等の考慮に供するにとどまる。これを採用すると否とは、ひとえに汝等の公明正大なる心の判断に任せるより外に道がない。

 われ等の所説を裏書するのには、る程度まで、霊界に於けるわれ等の同志の経歴を物語るより外に途がない。これは証明法として不十分であるが、何とも他に致方がないのである。われ等は、地上生活中の自己の姓名を名告り、そして自己と同時代の性行せいこう閲歴えつれきにつきて、事こまやかに物語るであろう。さすれば、われ等が決してニセ物でないことは幾分明白になると思う。事によると、汝はそれ丈の証明では不充分であるというかも知れぬ。成るほど狡獪こうかいなる霊界人が、欺瞞の目的をもって、細大の歴史的事実を蒐集しゅうしゅうし得ないとは言われない。が、到底いつわり難きは、各自に備わる人品であり風韻ふういんである。果実を手がかりとして、樹草の種類を判断せよとは、イエス自身の教うる所である。とげのある葡萄ぶどうや、無花果いちじくはどこにもない。われ等が、果たして正しき霊界の使徒であるや否やは、われ等の試むる言説の内容をもって、忌憚きたんなく批判して貰いたい。

 これ以上、われ等はこの問題もんだいにかかり合っているべき勇気をたない。われ等の使命は、地上の人間の憐憫あわれみを乞うべく、あまりに重大である。われ等の答が、まだ充分腑に落ちかぬるとあらば、われ等はわれ等の与うる証明が、得心のできる日の到来を心静かに待つであろう。われ等は断じて、今直に承認を迫るようなことはせぬ……。

 われ等がここで是非指摘したいのは、現世人に通有の一つの謬想びゅうそうである。人間はしきりに各自見解に重きを置かうとするが、われ等の眼から観れば、そうしたものはほとんど全く無価値である。人間の眼は、肉体のめに蔽われて、是非善悪を審判する力にとぼしい。霊肉が分離したあかつきに、この欠陥は初めて大いに除かれる。従って人間の眼で、何より重大視さるるものが、われ等の眼をもって観れば、一向取るにも足らぬ空夢、空想である場合が少くない。これと同時に、各派の神学、各種の教会の唱えつつある教義が、その根柢こんていおいて、格別ちがったものでもないことが、われ等の眼にはよく映るのである。

 友よ! 宗教なるものは、決して人間が人為的に捏造したような、そう隠微いんび不可解な問題ではない。宗教は地上の人間の狭隘なる智能の範囲内において、立派に掴み得る問題なのである。かの神学的揣摩憶測しまおくそくや、かの独断的戒律、並に定義は、一意光明を求むる、あわれなるものどもを苦しめ、惑わせ、かれ等をして、ますます無智と迷信の雲霧うんむの中に迷い込ましむる資料としか思われない。迷信の曲路、無智の濃霧――これ等はいずれの世にありても、常に求道者を惑わせる。又人間の眼から観れば、同一宗派に属するものの信仰は、皆同一らしく思われるであろうが、もともと彼等は、暗中に模索しているのであるから、いつの間にか、めいめい任意の解釈を造り、従ってわれ等の眼から観れば、多くの点においてめいめいちがった見解をって居る。真に迷霧めいむが覚めるのは肉の眼が閉づる時、換言すれば、地上生活が終りを告げる時で、そこで初めて地上の教会、地上の神学の偽瞞ぎまんに気がつき、大至急訂正を試みることになるのである。進歩性の霊魂は、決して呉下ごか旧阿蒙きゅうあもうではない。かの頑冥がんめい不霊ふれいな霊魂のみがいつまでも現世的迷妄の奴隷として残るのである。

 記せよ、真理は決してある特殊の人間、ある特殊の宗教の特権でも何でもない。真理は古代ローマにおいて、鋭意肉の解放を企求した、アテノドーラスの哲学の中にも見出される。又真理は来世の存在を確信して、地上生命の棄却を意としなかった、アツポクタスの言説の中にも見出される。又真理の追窮ついきゅうは、かのブローテイナスをして早くも地上生活中に、よく超現象の世界に遊ばしめ、更に真理の光明は、かのアレツサンドロ・アキリニイをして、よく烈々として、人を動かす熱語を吐かしめた。かるが故に、此等これらの霊界居住者達は、今や互に共同一致して真理の宣揚、顕幽一貫の神霊主義スピリチュアリズム的運動のめに、かくは汝を交通機関として、真剣な活動を試みつつあるのである。此等これらの人達に取りて、地上生活時代の意見の如きは、ほとんど問題でない。それ等は夙の昔に振りすてられ、生前の僻見へきけんなどは、最早もはやどこにも痕跡をとどめない。むろん此等これらの人達は、すでに地上とはきれいに絶縁してしまい、彼等の墓石の上に、哀悼の涙をそそぐものなどは、最早もはやただの一人もない。彼等には再生の機会は全くなく、要するに彼等は、純然たる霊界居住者なのである。しかながら、彼等がかっちりばめたる宝玉は、歳と共に光輝を加えて、不朽ふきゅうの生命をっている。この魂の光、この魂の力こそは、実に今日彼等をして、協力して地上人類の純正高潔なる霊的教育――より高く、より清き真宗教の普及のめに、精進努力せしむる所以ゆえんなのである。

 吾等は信ずる、沈思ちんし熟慮もっこうの結果は、必ず汝をして、われ等の主張の合理性を承認せしむるに相違ないと。これに対する絶対的証明は、地上生活中には到底獲られぬであろうが、いずれそのうち汝もまた死線を越えて、われ等の仲間入りをするであろう。その時こそ、最早もはや嘘も事実もない。それまではしばらく間接的証明の蓄積によりて、一歩一歩自己の信念を固められたい。自己を裁くと同一筆法をもって他を裁けば、決して間違いは起らない。それが審神さにわの要訣である。


(評釈) 進歩せる神霊界の使徒との交通感応こそ、真宗教の骨子である。これがある時に、初めて宗教に生命が湧き、これがない時に、宗教商人の跋扈ばっことなる。ただしくれぐれも看過してならぬことは、相手の霊界居住者の正否善悪に対する審判である。この点において本章の説く所は正にわれ等に絶好の指針を与うるものである。


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