霊訓

第十章 進歩的啓示


問『あなた方の啓示は、却って民衆の心から信仰を奪う結果になりはせぬか……。』

 新啓示と一般民衆――汝の疑惑の存するところはよく判る。われ等はこれから右にきて、十二分に所見を述べようと思う。われ等はわれ等の使命の、神聖なることを信じて疑わぬ。時運さえ熟せば、天下の民衆は、必ずわれ等の指示に従うに相違ないのであるが、それまでには、民衆に対して多大の準備教育を必要とする。現在においてわれ等の提唱する所を受け容れることのできるのは、ホンの少数の先覚者――つまり一般民衆の先達として、指導者の位置に就くべき、少数の先駆者のみに限られる。一体いずれの時代、いずれの国土においても、これに例外はない。旧知識に満足して居る無智の大衆は、必ず新知識に向って、反抗の声を揚げるのが常則となって居る。かのイエスとても同様の憂目を嘗めた。寄木細工式の繁瑣はんさな神学をでっち上げた人達、朝に一条を加え、夕に一項を添えて、最後に一片の死屍にも似たる、虚礼虚儀の凝塊かたまりを造り上げた人達――それ等はイエスを冒涜者と見做し、神を傷け、神のおきてを破る大罪人であると罵った。かくて最後に、イエスを十字架に送ったのである。

 今日では何人も、イエスを神をけがす罪人とは考えない。彼こそは、実に外面的の冷かなる虚礼虚儀を排して、その代りに、の光の如く暖かなる内面的の愛を、人の心に注ぎ込んだのである。が、当時の当路者達は、イエスをもって、みだりに新信仰を鼓吹して旧信教を覆すものとなし、これを磔刑に処したのである!

 イエスの徒弟の時代に至りても、一般民衆は、お未だイエスの真の啓示を受け容るる丈の心の準備がなく、徒弟達に対する迫害は、間断なく繰り返され、ありとあらゆる讒罵ざんばの雨が、彼等の上に降りそそいだ。曰くイエスの徒弟どもは、極端に放縦ほうじゅう無規律なるしれものである。曰く彼等は、赤児を殺し食膳に上せる鬼どもである。今日から顧れば、殆ど正気の沙汰とは受取れぬような悪声が、彼等の上に放たれたのであった。が、これは独り当時に限られたことではない。現在われ等霊界の使徒に対して向けられる世人の疑惑、当局の圧迫とても、ほぼこれに等しきものがある。

 ただしかくの如きは、人文史上の常套的事象であるから、あきらめねばならぬ。新らしい真理に対する迫害は、宗教と言わず、科学と言わず、人類の取扱う、いかなる原野においても、例外なしに行われるのである。これは人智の未発達から発生する、必然的帰結であるから致方がない。耳馴れたものほど俗受けがする。之に反して耳馴れぬもの、眼馴れぬものは頭から疑われる。

 で、われ等の仕事が、前途幾多の荊棘けいきょくに阻まれるべきは、元より覚悟の前であらねばならぬ。われ等の啓示は往々にして、未開なる古代人の心を通じて漏らされた啓示と一致せぬ箇所がある。これは使用する器の相違がしからしむるところであるから、如何ともする事はできない。

 言うまでもなくバイブルは、幾代かにわたりて受取られたる啓示の集録である。かるが故に神につきての観念は、人智の進歩に連れて次第に変化し、枝葉の点においては、必ずしも一致していないのである。加之しかのみならずバイブルの中には、人間的誤謬ごびゅう夾雑物きょうざつぶつが少くない。これは霊媒という一の通信機関を使用する、必然の結果である。真理は全体の流れの中に見出すべきで、一字一句の末に捕えらるれば、到底真理を掴むことはできない。全体と交渉なき局部的の意見は、筆者の思想を窺うのには役立つが、われ等の信仰問題とは没交捗である。二千年、三千年の昔において述べられた言説が、永遠に威力を有するものと思うは、愚もまたはなはだしい。そうした言説は、それ自身の中にも矛盾があり、又同一書冊の中に収められた、他の言説とも相衝突している。大体において言うと、バイブル編成時代の筆者達は、イエスをもって神の独子と思考し、このドグマを否定するものを異端者と見做した。同時に又それ等の人達は、あまり遠くない将来において、イエスが雲に乗りて地上に再臨し、地上の人類の審判に参与するのだと信じて居た。無論これ等が皆迷信であることは言うまでもない。イエスの死後、すでに千八百年以上に及べど、今もってイエスは地上に再臨しない。よほど活眼をもってバイブルに対しないと、弊害が多い所以ゆえんである……。

 で、われ等がこの際諸子に注意を促したいことは、諸子が神の啓示を判断するに当りては、すべからく自分自身に備われる智慧と知識との光にたより、断じて経典学者の指示にたよってはならないことである。啓示全体にみなぎる所の精神を汲むのはよいが、一字一句の未節に拘泥することは、間違の基である。従ってわれ等の教訓を批判するに当りても、それが果してる特殊の時代に、る特殊の人物によりて述べられたる教訓と一々符合するか否かの穿鑿せんさくは無用である。われ等の教訓が、果して諸子の精神的欲求に適合するか、否か、それが果して諸子の心境の開拓に寄与する所あるか、否かによって去就を決すればよいのである。

 換言すれば、われ等の教訓が、正しき理性の判断にえるか? 精神こころかてとしてれ丈の価値を有するか?――われ等の教訓の存在理由は、これをもって決定すべきである。

 正規の教会で教うるように、諸子に臣従を強うるところの神は、果して諸子の崇拝の対象たるに足りるか? その神は、自己の独子の犠牲によりて、初めてその怒りを解き、お気に入りの少数者のみを天国に導き入れて未来永劫、自己に対する讃美歌を唄はせて、満足の意を表している神ではないか! そしてその他の人類には、天国入りの許可証を与えず、ことごとくこれを地獄に追いやりて、言語に絶した苦痛を、永久に嘗めさせているというではないか。

 教会は教える。神の信仰に入りさえすれば、いかなる堕落漢たりとも、立所にその罪を許されて天国に入り、神の御前に奉侍ほうじすることができると。しもそれが果して事実なりとせば、天国という所は、高潔無比の善人と、極悪無道の悪人とが、互に膝を交えて雑居生活を営む、不思議千万な場所ではないか?

 われ等の教うる神は、断じてそんなものではない。道理が戦慄みぶるいして逃げ出し、人情が呆れて顔をそむけるような、そんな奇怪な神の存在をわれ等は知らない。それは人間の迷信が造り上げた神で、実際には存在しない。しかもかかる神を空想した人物は、よほどの堕落漢、よほどの野蛮人、よほどの迷妄漢であったに相違ない。人類として信仰の革命が、急を要する所以ゆえんである。

 われ等が知る所の神、愛の神は断じてそんなものではない。その愛は無限、しかもすべてに対して一視同仁いっしどうじんである所の、正義の神である。そして神と人との中間には、多くの守護の天使達が存在し、それ等が神の限りなき愛、神の遠大なる意志の直接の行使者となるのである。此等これらの行使者があるから、そこに一分一厘の誤差も生じないのである。神は一切の中心であっても、決して直接の行動者ではないのである。

 思え! 永遠の魂の所有者たる諸子は、不可解、不合理なる教義の盲目的信仰と、ただ一片の懺悔の言葉とによりて、単調無味なる天国とやらの権利を買い占めるのであろうか? 否々、諸子はただしばし肉の被物ころもに包まれて、より進歩せる霊的生活に対する準備を為すべく、地上に現れたる魂なのである。かるが故に、現世において蒔かれたる種子は、やがて成熟して、次の世界の収穫となる。単調無味な、夢のような天国が、前途に諸子を待っているようなことは断じてない。永遠の向上、永遠の進歩、これが死後の世界の実相である。

 従って各自の行動を支配するものは、不可犯の法則である。善行は魂の進歩を助け悪行は魂の発達を阻止する。幸福は常に進歩の中に見出され、進歩につれて神に近づき、完全に近づいて行く。魂は決して安逸あんいつ懶惰らんだを願わない。魂は永遠に知識の前進に対する欲求を棄てない。人間的慾情、人間的願望は肉体と共に失せるが、魂には純情と進歩と愛との伴える、浄き、美しき生活が続く。それがまことの天国なのである。

 われ等は魂の内に存在する地獄以外の地獄を知らない。この地獄は不潔な劣情のほのおによりて養われ、悔と悲のけむりによりてつちかわれ、過去の悪業に伴える、もろもろの重荷が充ちみちている。この地獄から脱出すべき唯一の途は、ただきびすをかえして正道に戻り、正しき神の教に基きて、よき生活を営むことである。

 無論死後の世界にも刑罰はある。されどそは、怒れる神の振り降ろす懲戒のしもとではない。恥を忍び、苦痛を忍びて、自から積みあぐる善行の徳によりてのみ、償うことのできる自然の制裁である。御慈悲を願う卑劣な叫びや、オロオロ声を絞りての、にせ懺悔ざんげなどによって償うべくもないのである。

 真の幸福を掴もうと思わば、道に協い、我慾から離れたる生活を、ただ一筋に儼守げんしゅするのみである。幸福は合理的生活の所産であり、これと同様に、不幸は有形無形に亘る一切の法則の意識的違反から発生する。

 われ等の遠き前途にきては、われ等は何事も語るまい。何となれば、われ等もまたそれにきて、何等知るところがないからである。が、われ等の現在にきていえばそは諸子の送る地上の生活と同じく、不可犯の法則によりて支配され、幸不幸は、ただその法則を遵守するか否かによりて決せらるるのである。

 われ等は今ここで、われ等の唱道する教義にきて細説はせぬであろう。神に対し同胞に対し、又自己に対して守るべき人間の責務につきては、諸子もほぼ心得ているのである。他日諸子はこれにき、更により多くを知るであろう。現在としては既成宗教のドグマと、われ等の教義との間に、いかに多大の径庭けいていがあるかを明かにしたのをもって満足するとせう。

 諸子はわれ等の主張が、既成宗教の教条に比して、遥かに不定形、遥かに不透明であると思うであろう。が、われ等は、決して彼等のひそみならって実行不能、真偽不明の煩瑣はんさ極まる法則などは述べようとはせぬ。われ等の期するところは、より清く高き空気を呼吸し、より浄く、聖なる宗教を鼓吹し、より純なる神の観念を伝えることである。要するにわれ等は、飽まで不可知を不可知とし、苟且かりそめにも憶測をもって知識にかえたり、人間的妄想をもって、絶対神を包んだりしないのである。われ等の歩まんとする道は、臆測よりはむしろ実行、信仰よりはむしろ実験である。われ等はこれが智慧により、神によりて導かるるところの、正しき道であると信ずる。思うに我等の教は懐疑者によりて冷視せられ、無智者によりて罵られ、又頑冥者流によりて異端視されるであろう。しかしながら真の求道者は、われ等の教によりて手がかりを獲、真の信仰者はわれ等の教によりて幸福と、進歩との鍵を掴み、そして縦令たとえ千歳の後に至るとも、この教の覆ることは絶対にないと信ずる。何となればわれ等の教は、飽くまでも合理的の推理と、合法的の試験とにえるからである。


(評釈) 神霊主義の真髄は、ほぼ遺憾いかんなくここに尽されている。現世と死後の世界がつながりであること、両者が飽までも大自然の法則の支配下にあること、『神』は最高最奥の理想的存在であって、神律の実際の行使者は、多くの天使達であること、幸と不幸との岐れ目は、有形無形の自然律を守るか、守らぬかによりて決すること、神霊主義は正しき推理と、正しき実験との所産であるから、永遠に滅びないこと――それ等の重要事項が、なかなか良く説かれて居る。今後人類の指導原理――少くとも具眼有識者の指導原理は、これ以外にある筈がないであろう。

 就中なかんずく私がここで敬服措かないのは、『天使』につきての大胆率直なる啓示である。無限絶対の『神』又は『仏』のみを説きて、神意の行使者たる天使の存在を説かない教は、ほとんど半身不随症にかかって居る。無論ここにいう天使は、西洋式の表現法を用いたまでで、日本式でいえば八百万の神々である。くれぐれも読者が名称などに捕えられず、活眼を開いて、この貴重なる一章を味読されんことを切望する。


第九章

目  次

第十一章


心霊図書館: 連絡先