霊訓

第七章 真の宗教


問 『霊界通信の眼目はいずれにあるか』

 通信の目的――われ等の仕事を妨ぐる障害物は、一にして足りないが、ず最も当惑とうわくするのは、われ等の使用する大切な機関――霊媒の頭脳が、神学上の先入的偏見に充塞じゅうさいされ、われ等の思想を伝えるのに、多大の困難を感ずることである。これがめにわれ等は、しばしば長大息ためいきを禁じ得ぬ。

 次にわれ等の教に反対する者の中で、最も取り扱いにくいのは、実にかの似而非えせひ科学者である。彼等は自分自身の媒体を通じてのみ事物を観察し、そして自分自身の条件によりてのみ、事物を評価せんとする。彼等の求むる所は、真理そのものではなく、いかにして霊界人が詐欺漢であり、又いかにして、それが分裂せる頭脳の一断片であるかを証明せんとするかにある。その曇れる眼、その歪める頭脳は、到底われ等の侶伴りょはんたるに適しない。彼等には、他界との交通の神秘を会得すべき心の深みがない。少数の科学者中には、われ等の提示する現象的方面に、注意を払うことを辞せないものも居るが、そはわれ等の事業の中心眼目ではない。われ等の伝えんとするものは、主として魂と魂の交渉であり、又死後において魂の辿るべき宿命の問題である。多年物理学的諸現象の考察にのみ従事せる人達の頭脳は、この種の問題の研究には、適当であるとは言われない。

 同様に困るのはかの無学者――他日充分の準備教育を施したあかつきには、われ等の唱道する所を、咀嚼そしゃく翫味がんみするに至るであろうが、当分まだわれ等の仕事とは没交渉である。

 更にわれ等が持て剰すのは、いたずらに伝統の儀礼法式に拘泥し、固陋ころう尊大そんだい、何等精神的の新事実に興味を感ずることを知らざる人達である。物理的心霊現象ならば、あるいは彼等に向くかもしれぬ。が、われ等の受持にかかる霊的通信は、恐らく彼等にとりて一篇いっぺんの夢物語に過ぎないであろう。

 しかり、われ等の痛切に求むる所は、以上の如き人達ではなく、之に反して神を知り愛と慈悲とに燃え、やがて自分の落着くべき来世生活につきての知識を求むる、素直すなおな魂の所有者である。が、悲しい哉、天賦的に人間に備われる宗教的本能が、いかに烈しく人為的の神学――無知と愚昧とがいつとはなしに集積せる、わらうべきドグマのめに歪曲され、又阻害されて居ることであろう! 彼等は真理に対して、完全に防衛されたる鉄壁である。われ等が神の啓示を口にすれば、彼等は、過去において現れたる啓示をもって完全無欠となし、新らしきものを受け納れる心の余地を有しない。しもわれ等が、古代の啓示の矛盾を指摘し、いずれの啓示も、決して円満えんまん具足ぐそくもって任ずるものでないことを告ぐれば、彼等はドグマだらけの神学者の常套語などをやときたりて、自家の主張の防衛につとめる。要するに彼等はる特殊の場合に、る特殊の目的をもって現れたる、古経典こきょうてん片言隻語へんげんせきごもって、一般的真理なりと思考して居るから困るのである。

 全くもって度し難きは、かの盲信の徒である。われ等は止むことを得ず、時として何等なんらかの奇蹟をもって、われ等の使命の実有性を証明すべく試みるが、これも彼等に対してほとんど効果がない。彼等は言う、奇蹟の時代はすでに過ぎた。奇蹟はただ古代の聖者にのみ許されたものである。現在現れつつある奇蹟は、実は神の仕業を模倣しつつある、悪魔の欺騙ぎへんに過ぎない。真理をもって信仰の上に置き、神の御子の絶対性ぜったいせいを否定する者は、まさしく魔王の所為しょいに相違ないと。

 われ等はかかる論法に接する時に、心から憮然ぶぜんたらざるを得ない。それ等の論者は多くは皆愛と熱とに富める立派な人達である。悲しい哉、彼等には世界の闇を照すべき進歩的傾向がない。われ等は心からそれ等の人達を使って、通信を送りたいのであるが、われ等はその前に、彼等の向上前進を不可能ならしむる、盲信と独断の残渣ざんさを一掃し去らなければならぬ。

 宗教にして、真にその名に背かぬがめには、必然的に二方面を具備せねばならぬ。他なし一は神に向い、他は人に向うのである。われ等が出発点においず訴えんとする最高の法院は、人類に具はる所の理性である。われ等は理性を要求する。何となれば古代の聖者も、ただ理性によりて、それが果して神の啓示であるか否かを決定したのであった。われ等もまた理性に訴える。ヘブルユーの予言者を指導した者のみが断じて神の唯一の使徒ではない。われ等もまた同一の使命を帯びて現代に臨んで居る。

 要するに、われ等と彼等とは全然同一である。ただわれ等の使命が、一層進歩して居るまでである。われ等の神と、彼等の神とは、そこに寸毫すんごうの相違もない。ただその神性が、一層よく発揮されて居る丈である。兎に角理性が最後の審判者である。理性を排斥する者は、結局自己の暗愚を告白すると同一である。盲信的信仰は、断じて理性的確信の代理たることはできない。信ずべき根柢こんていのある信仰と、信ずべき根柢こんていのなき信仰とは、決して同一架上のものではない。われ等はどこまでも、理性に向って訴えるものである。われ等がいかなる理由で悪魔的であるか? われ等の主張が、いかなる点において魔的傾向を帯びているか? これを合理的に証明することが出来なければ、それ等の人達の言説は、ただ一片の空言に過ぎないと謂わねばならぬ。そうした人達が教会の指導者であっては、人生もまたわざわいなるかなである。


(評釈) 今日こそ、英国人士の霊界通信に対する理解が、ようやく深まりつつあれど、今から数十年の昔に於ける迫害――ことに既成宗教団からの迫害ときては、正に狂人の沙汰であった。モーゼスを使役して通信しつつある霊達が歎息するのも、もっともな次第である。最初はモーゼス自身すらも、決して神学的ドグマから超脱し切れず、何回となく霊達に向って抗争を試みた位であった。霊達の世迷言は全く同情に値する。

 ひるがえって日本の現状を観ると、今お暗雲低迷、一方に古経典こきょうてんの講義でもすることが、信仰上の最大急務と思い込んで居るものがあるかと見れば、他方には理性の批判にえないどころか普通の常識にも負くるような、愚劣低級な囈語げいごもって、神懸りの産物なりと唱え、大なり、小なり始末に負えぬ特殊部落を作って、神聖なる国土を汚している連中がはなはだ多い。モーゼスの背後の霊をして批評させたら、果たして何と言うであろうか?


第六章

目  次

第八章


心霊図書館: 連絡先