霊訓

第六章 夫婦関係


問 『夫婦の関係は、死後永遠につづくか?』

 趣味と能力――夫婦関係が永続すると否とは、全然趣味と能力とが、均等に発達しているか否かにかかっている。しも右の二つが揃って居れば、死後の夫婦は互いに手を携えて、向上のみちを辿ることができる。少くともわれ等の境涯に見出さるる一対の男女は、趣味と能力が一致してり、互いに扶け合いつつ、進歩の階段を上昇することのできる人達である。われ等には霊的教育がすべてである。従って進歩の所縁よすがとなるべき関係以外は、全然その存在を認められない。かのいたずらに地上生活を陰惨いんさんならしめ、いたずらに魂の発達を阻害する人為的束縛は、肉体の消滅と同時に、跡方もなく断絶する。これに反して、魂と魂の一致によりて堅く結ばれたる夫婦関係は、肉体の羈絆きはんを脱したあかつきおいて、更に一層の強度を加える。二つの魂を包囲する愛のきずなこそは、相互の発達を促す最大の刺戟であり、従って両者の関係は永遠に伝わって行く。それは過去において、たまたま両者の間に関係があっためというよりも、むしろ永遠不滅の適合性が、両者の霊的教育に不可欠の要素として役立つからである。うした場合には勿論むろん地上の夫婦関係は永遠に続くといえる。少なくとも愛の生活が、相互の利益である間は、一緒に住んでいるが、或る時期に達して、別れて住むことが望ましくなれば、彼等は何の未練もなしに、各自の行くべきみちを辿る。何となれば、こちらの世界では交通は物のかずでなく、離れていても、立派に相互の胸奥きょうおうつたえることができるからである。強いてこの法則を破ることは、いたずらに不幸の種子であり、進歩の敵である。霊界の法則は断じてこれを許さない。

問 『夫婦というものは精神的又道徳的には、必ずしも同一線上に居なくても、立派に愛し合っていられると思うが……。』

 愛する魂――むろん相互愛に充たされたる夫婦は、永久に別れてしまうことはできない。兎角とかく人間のかんがえは、時間と空間とに拘束されているので、われ等の住む世界の真相が、腑に落ち難いようである。愛する魂と魂とは、空間的にはいかに離れていても、実際においては、極めて親密に結合しているのである。われ等には時間もなければ、又空間もない。無論真の理想的の一致というのは、両者の智能までも、全然同一水平線上にある場合であるが、実際問題とすれば、それはほとんど不可能に近い。魂と魂とが愛情のきずなで結ばれて居れば、それで立派な夫婦であり、智能的には、必ずしも同一程度であるを要しない。愛はいかなる距離をも結合する力がある。それは幼稚不完全なる地上生活においてすらしかりである。二人の兄弟が、相互の間を幾千万里の海洋によりて隔てられ、幾年幾十年にわたりて、ただの一度も会見の機会なく、しかもその業務がすっかり相違しているにも係わらず、彼等の間には、立派に愛情が存在し得るではないか。夫婦となれば、その心情は一層不思議で、日頃自分を呵責さいなむばかり、やさしい言葉一つかけてくれぬ自堕落の亭主を、心から愛する世話女房が、あちこちに発見される。

 無論死は直ちに彼女を奴隷的苦境から解放する。彼女の方では上昇し、これに反して良人の方では下降する。が、愛の絆ではこれがめに断絶することはない。同棲はしないが交通はする。距離は地上においてすら無視することができる。霊界にありてはそんなものは全然存在しない。


(評釈) 説明の言葉は簡単だが,この一章は人生の問題に触れてり、貴重なる教訓をわれ等にあたうるものである。かの仏教の安価なる一蓮托生説だの、基督キリスト教の一本調子な恋愛至上説だのは、わずかに真理の一部を掴んだに過ぎざる、はなはだしく歪んだもので、到底今後人類を率いるに足りない。これに比すれば、この章に説かれて居る所は、まさに天地の相違で、穏健、周到、着実、どこに一点の無理もゴマカシもない。これが一般民衆によりて味読さるるに至った時に、恐らく結婚に伴う幾多の謬想びゅうそうが除かれるであろう。


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