霊訓

第四章 各種の霊媒能力


問 『いかなる人物が、霊界の機関たるに適するか?』

 霊界の求むる人格――霊媒能力が種々雑多に分れることは、わざわざ断わるまでもあるまい。或る種の霊媒は、単にその一種特別の体質のめに選ばれる。つまりそれ等の人達の肉体組織が、外部的客観的の霊的表現を行うに適当しているのである。彼等は精神的にはほとんど何等の能力もない。たまたま背後の支配霊達が、何等なんらかの通信を行うことはありても、その内容は通例末梢まっしょう的の些事さじにとどまり、時とすれば取るに足らぬ囈語げいごやら、とり止めのない出鱈目でたらめやらでさえもある。この種の霊媒は、もっぱらら霊の存在を証明するめに用いられる。肉眼には見えない他界の居住者が、彼等の肉体を利用して、客観的の現象を作製することができるからである。

 要するにこの種の霊媒は、初歩の心霊現象を作るめの機関に過ぎない。が、そうかと言って、彼等の仕事がつまらないということにはならない。信仰の基礎工事は、実に彼等によりて築かれるのである。

 それから又一部の霊媒達は、その性質が善良で慈悲深いめに、霊界の選抜にあずかる。彼等は多くの場合において、物理的心霊現象の用具とはなり得ない。又最初は、霊界との意識的の通信さえも為し得ない。が、彼等の素直な性質は、霊的感化を受け易く天使達の監視の下に、その純情が驚くべく開発されて来る。その結果、次第に意識的に、霊界通信を行い得るようにもなり、又る程度の霊視能力を恵まれて、折ふし他界の状況を瞥見べっけんすることにもなる。彼等の背後に控えて働くのは、通例情深なさけぶかい霊的存在で、印象的に、絶えず必要な指導を与える。うした人達は、いつも愛と平和の清き雰囲気の裡に包まれ、生きては輝かしき人間の模範と仰がれ、死すれば直ちに安息の境地に迎えられて、平和の真光まひかりに浴するのである。

 それから又他の霊媒達は、理知的に発達を遂げてり、知識の拡布かくふ、真理の普及に使われる。その背後に控えているのは、皆進歩した霊界居住者達で、あるいはよき思想を送ったり、あるいはよき方法を指示したり、あらゆる手段に訴えて、遺憾いかんなく感化影響を及ぼそうとする。霊界のもちうる手段たるや、いずれも巧妙をきわめ、とても地上の人間には窺知きちし得ないところがある。この際霊界人にとりて、何より困難を感ずるのは適当な霊媒……ずっと上層からの通信を感受し得る、適当な霊媒を選び出すことである。ず第一にその人物は、受動的の心の所有者もちぬしであらねばならぬ。何となれば、本人の心が吸収するだけしか、何事も注入し得ないからである。次にそれは愚かなる人間界の先入主せんにゅうしゅから、全然脱却したものであらねばならぬ。利害得失の打算から、真理の指示に背くような魂では、とてもわれ等の用途にはならぬ。

 更に又その人は、一切の宗教宗派的のドグマの捕虜であってはならぬ。これと同様に、一知半解式の知識の所有者であってもならぬ。それ等は自分の無知無学に気づかぬから、手がつけられない。われ等の求むる所は、どこまでも自由で、素直で、純情で、知識欲が旺盛で、真理の吸収にかけて飽くことを知らぬ、清き魂の所有者もちぬしであらねばならぬ。

 次にわれ等の仕事は、積極的の自主的意見に捕えられて、矢鱈やたらに反対したり、又個人的欲望の奴隷となりて、白を黒と言いくるめたりするような人であっては、ほとんど何事もし得ない。そうした場合には、右の人物の悪癖の矯正に手間どれて、あますところが幾何いくばくもないことになる。くどいようだが、われ等の求むる人物は、敏腕で、熱心で、真理欲が強くて、寡欲で、そして温和しい魂の所有者であらねばならぬのである。人選に骨が折れる筈ではないか。事によると、そうした人選は不可能、と言った方があるいは適当かも知れぬ。で、止むを得ないから、われ等は多くの中で、一番ましな人物を選び、これに不断の薫陶くんとうを加えつつ、曲りなりにも所期の仕事を遂行せんと覚悟するに至ったのである。われ等としては、ずつとめて愛と、寛容性とを、その人物に注入すべく心懸こころがける。すると右の人物は、ここに初めて平生の僻見へきけんから離脱し、真理が思いの外に多面的、又多角的である所以ゆえんを悟って来る。次にわれ等は、右の人物として吸収し得る限りの、多くの知識を注入してやる。一たん知識の土台どだいが据えられると、ここに初めて安心して、上部構造物を築くことができて来る。かくの如くして右の人物が、精神的に次第に改造されて行き、どうやらわれ等の所期の目的と調和して行くことになる。

 無論うした仕事に失敗は伴い勝ちで、われ等としても、止むなく中途で見棄ててしまはねばならぬ人物は沢山ある。世にも度し難きは、人間界にこびりついている古い古い僻見へきけんであり、又ドウにも始末に行かぬのは、宗教宗派の墨守ぼくしゅする数々のドグマである。これは『時』の流れに任せる外に途がない。われわれの力にも到底及ばない。

 ここで一言付け加えて置きたいのは、われ等の教が、徹底的に一切の恐怖を、人の心から剪除せんじょせんことである。要するにわれ等の使命は、神と神の使徒に対して、全幅の信頼を置くべく、魂達を指導することである。

 旧神学に従えば、そこに一人の神があって、絶えず人間の堕落を監視し、又そこに一人の悪魔があって、間断なく人間誘惑のわなを張って居るというのである。この考が頭脳にしみ込んでいる人達は、ややもすればわれ等の教訓を不思議がり、容易にこれに従おうとしないが、これはまことに困ったものである。宗教から一切の恐怖、一切の不安が引き離された時にこそ、地上の人類は、初めて安心立命の境地に立ち得るものといえる。

 ここにモウ一つ断って置きたいことは、われ等の使命が、ありとあらゆる形式の利己主義を剿滅そうめつせんとすることである。『』がにじり出ずる所には、そこにわれ等の施すべき余地はない。自己満足、唯我独尊、驕慢、自慢、自家広告、自分免許……‥いずれも皆禁物である。小智小才に走るものは、到底われ等の用具にはなり得ない。独断専行を好むものも、またわれ等の侶伴ではあり得ない。克己自制――これがいずれの時代においても、聖人君子に付きものの美徳であった。いやしくも進展性にとめる真理の祖述者そじゅっしゃは、昔から最も少なく自己を考え、最も多く自己の仕事を考えた人達であった。かの地上にありし日のイエスこそは、正に高き克己心と、清き熱誠との権化ではなかったか。彼はあくまでも自己を抑えて、真理のめに一身を犠牲にすることを辞せなかった。彼の一生は人間の歴史が有する、最も高潔な絵巻物の一つである。同様に世界を迷妄の闇の中から救い、これに真理の光を注いだ人達にして、いまかって自制の人でないのはなく、いずれも皆自己に割り当てられたる使命の遂行に向って、畢生ひっせいの心血をそそぐを忘れなかった。ソクラテス、プラトン、ヨハネ、ポーロ、――此等これらは皆真理の開拓者であり、進歩の使徒であり、極度に無欲純潔、少しも驕慢、自負、自家宣伝等の臭味がなかった。それでこそ、あれほどの仕事ができたのである。し彼等にして一片の利己心があったなら、そは必ず彼等の成功の心臓部を喰い破ったであろう。

 われ等が求むる所は、右にのぶるが如き人物である。慈悲心にとみ、熱情にとみ、自己を忘れて真理を求め、神業一つを睨みつめて、現世的欲求を棄てて顧みない人物がほしいのである。そんな人格が暁天ぎようてんの星の如く稀であるべきは、元よりいうまでもない。それけそう言った人格は尊い。友よ、おちついた、熱心な、そして誠実な哲学者の心をもって心とせよ。又慈悲深く、寛厚かんこうにして、常に救いの手をさしのべんとする、仁者の心をもって心とせよ。更に又為すべき事を為して、報酬を求めざる神のしもべの克己心をこれに加えよ。かかる人格にして初めて、気高く、きよく、美しき仕事ができる。われ等としても、最大の注意をもっこれを監視し、又警護する。同時に神の直属の天使達も、また常に温顔をもっこれを迎え、露あやまちのないように、特別の保護を与えるであろう。

問 『さう言った人格は、到底現代に求め難いと思うが……』

 万事は忍耐――それは少ない、極めて少ない。よしあっても、ただその萌芽に過ぎない。われ等とても、決して人間に向って完全を求めはせぬ。われ等の求むる所は、ただ誠意あるもの、向上心に富めるもの、自由な、吸収力に 富めるもの、純潔にして善良なるものである。人間としてあせる心が何よりも悪い。静かに忍耐の心の緒を引き緊めることが肝要である。取越苦労と、心配とは絶対に禁物である。できない事は到底できない。思案にあまる事柄は、すべてわれ等に任せ、思いを鎮めて、よくわれ等の述ぶるところを味ってもらいたい。


(評釈) いささか冗長のきらいはあるが、大体すぐれたる霊界居住者が、人間に対して何を求めるかは、これでほぼ見当がつく。が、かえりみて何人か自己の資格の不充分、不完全を歎息せぬものがあるであろうか。これにつけてもわれ等は、かの活神、活仏気取りの浅墓な心懸の人々には、つくづく長大息ためいきを禁じ得ぬ。本人も本人だが、その存在を許す周囲の人達も人達である。日本民族が精神文化の先頭に立ちて、世界を率いる資格の備わるのは、そもいづれの日であろう!


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