霊訓

第二章 健全な生活


問 『いかなる種類の人が最も理想に近いか?』

 真の仁者真の哲人――真の仁者とは、いつもその同胞の幸福と進歩とに、貢献すべく心懸けて居る、まことの人物、まことの神の子である。また真の哲人とは、知識の めに知識を愛する、これもまたまことの人物、まことの神の子である。前者は人種、土地、教理、名称等の相違に留意することなく、その博大なる胸裡きょうりに、地上一切の人類を包擁ほうようせずんば止まぬ。彼は対者の意見などには頓着せぬ。彼はただ対者の欠陥を察し、これに智慧の光を注ぐことをもって、畢生ひっせいの念願とする。それが真の仁者である。が、世には往々おうおう仁者の偽者がある。それ等は自己に迎合げいごう阿符あふする者のみを愛し、これに金品を与えて虚名きょめいを博すべく努力する。

 それから真の哲人――彼は決していかなる学説にも捕われない。又いかなる宗教宗派のドグマにも拘泥しない。そしていやしくもそれが真理であり、科学的の事実でさえあれば、一切の先入的偏見を排除して、千万人といえどもわれ行かんのがいもって、宇宙間の陰微いんびを探るべく勇往邁進する。無上の幸福、無上の満足がその間に湧き出る。天地間の宝蔵は無限であるから、彼はごうも材料の枯渇をうれうるには及ばない。汲めども尽きぬ智慧の泉、採れども尽きぬ思想の宝、世にも幸福なるは、まことの哲人の生涯である。

 以上二つの結合――仁者と哲人の結合こそは、正に完全人の典型である。両者を兼ねるものは、その一方のみで進む者より、遥かに進歩が迅速である。

問 『生命は永遠?』

 永遠の生命――しかり、われ等は何れの方面から考えても、しか信ずべき理由をつ。が、生命にはたしかに二つの階段がある。外でもない、それは向上黙想との二つである。われ等はまだ向上の途中に在る。われ等は地上の人間が想像する以上に、奥へ奥へ奥へと、生命の階段を昇るべく努力しつつある。従ってわれ等は、まだ黙想の生活につきては何事をも知らない。が、恐らく向上進歩の最極限に到達した、遠い遠い無限の未来において、われ等が過去世の一切から離れ去り、天帝の真光に浴しつつ静かに黙想の生活に入る時が、ないではあるまいかと思う。それにつきては、われわれは何事も言えない。それは余りにも高きに過ぎる。地上の人間として、そこまで考えようとするのは、けだし早きに失する。地上人として関心を有するのは、無限の生命のホンの入口――死及び死後の生命の問題で、奥の院の問題ではない。

問 『あなたは地上に居た時よりも、神にきて多くを知るか?』

 神の働き――われ等は、地上生活中にけるよりも、遥かに多く神の働きにつきて知ることができた。死後の世界において、一つ一つ階段を登るにつれて、より多く神の愛、神の智慧の無量むりょう無辺際むへんさいであることが判って来たのである。が、われ等の神につきての知識は、それ以上にはでない。今後においても、最後の黙想の生活に入るまでは依然としてこの状態にとどまるであろう。要するに、神はその働きによりてのみ知られるに過ぎない。

問 『善と悪との戦、その他につきて教を受けたい。』

 非命の死と罪悪――地の世界には、週期的に争闘が起るものであるが、霊的眼光をもってこれを考察すれば、畢竟ひっきょうそれは善悪の霊と霊との争闘である。すべて世の乱れるのは、未発達なる霊魂の数が不釣合に多くなった時で、従って大きな戦争の直後は、人心の悪化が、特に目立ちて強烈である。他なし、多くの霊魂が無理に肉体から引き離されて帰幽するからで、つまり資格のない未熟の霊魂が、幽界に充満する訳なのである。しかもそれ等の霊魂は、死の瞬間におい忿怒ふんぬに充ち、残忍性に充ち、まるで悪鬼あっき夜叉やしゃの状態に置かれて居る。そんなのが、死後の世界から人間世界に働きかけて、いつまでも禍乱からんの種子を蒔く。

 一体霊魂が、無理矢理にその肉体から引き離され、激情と憎念とに充ちたままで、幽界生活に突入するほど危険なことはない。天寿を全うすることは、大自然の原則である。玉の緒は、決して人力をもって断ち切ってはならないのである。故に死刑ほど愚なる、そして野蛮なるものはない。死後の生活状態、死後の向上進歩を無視するのは野蛮である。未発達の怒れる魂を、肉体の檻から引き出して、自由自在に暴ばれさせるは愚である。すべて地上の人達は、いかに犯罪人を取扱うべきかを、まだ少しも心得ていない。犯罪者をして、いつも一層堕落せしむるようにばかり仕向けて居る。犯罪者はすべからく悪の影響から隔離され、高潔なる空気に浴しつつ、善霊の感化を充分に受け得られるように、工夫してやるべきである。しかるに地上の獄舎制度は、その正反対をやっている。あんな悪漢と、悪霊との巣窟に犯人を収容して、いかにして、その改善を期待することがきよう! 犯罪人とて、必ずしも悪人とは限らない。その少なからざる部分は、単に無智から罪を犯したのである。しかるにそれ等が、一たん獄舎の空気に浸ったが最後、多くは真の悪漢と化して行くのである。他なし、そこで悪霊を背負い込むからである。そして最後に、犯人を極刑に処するに至りて、その愚や真に及ぶべからずである。肉体に包まれている間は、霊魂の働きに限りがあれど、一たび肉体を離れたとなれば、縦横じゅうおう無碍むげに、ありとあらゆる悪魔的行為に耽ることができる。

 嗚呼ああ盲目なるかな地上の人類、汝等なんじらは神の名においあやまちを犯せる人の子の生命を断ちつつある。思え! 殺された者の霊魂が、汝等なんじらに対して、復讐の念を燃やさずに居ると思うか! 汝等なんじらがかかる非行を演ずるは、畢竟ひっきょう神の何者たるかを知らぬからである。汝等なんじらの所謂神とは、汝等の本能が造り出したる人造の神である。大威張りで、高い所に坐り込んで、最高の名誉と最大の権力を享有し、お気にめさぬものがあれば、片 っ端からこれを傷け、殺し、又苦しめる大暴君、大悪魔、それが汝等なんじらの所謂神である。

 まことの神は、断じてそんなものではない。そんな神は宇宙間の何所どこにも居ない。それはただ人間の浅墓あさはかな心にのみ存在する。

 しかり、友よ、地上の獄舎制度、並に死刑制度は、全然誤謬ごびゅうと無智との産物である。

 しそれ戦争、かの大量生産式の殺戮に至りては、一層戦慄すべきものである。われわれ霊界の居住者から観れば、戦とは激情に駆られたる霊魂達から成れる、二つの集団間の抗争である。それ等の霊魂達は、悪鬼の如く荒れ狂いながら、陸続りくぞくとして肉体から離れて幽界へなだれ込む。すると其所そこには、残忍性にとめる在来の堕落霊どもが、雲霞うんかの如く待ち構えていて、両者がグルになって、地上の堕落せる人間に働きかけるから、人間の世界は層一層そういっそう罪と、汚れの地獄と化して行く……。そしてかかる惨劇の起る動機はと問えば、多くは地上の権力者のただ一片の野心、ただ一場いちじょうの出来心に過ぎないのである。

 嗚呼ああ友よ! 地上の人類は、まだまだ学ぶべき多くのものがある。彼等は何よりもず、まことの神と、まことの神の めに働きつつある霊界の指導者と、を知らねばならぬ。真の進歩はそれからである。地上の無智なる者は、あるいはわれ等の示教に対して、侮蔑の眼を向くるであろうが、それ等はしばらく後廻しとし、智慧の教を受け入ることを好む進歩的頭脳の所有者に、われ等の霊界通信を提示して貰いたい。必ずや何等なんらかの効果があるに相違ない。お盲目者流の めにも、彼等の心の眼が、他日立派に開く よう、心から善意の祈願をささげて貰いたい。


(評釈) 極度に切りつめた抄訳ではあるが、意義だけはほぼ通じることと思う。『永遠の生命』の一節は、説くところすこぶる簡潔であるが、生命を『向上』と、『黙想』との二段階に分け、われ等の当面の急務として、向上に力点を置くべきを説けるは至極賛成である。かの印度思想にかぶれた者は、ややもすれば、途中の大切な階段を無視して、一躍最後の理想境を求めんとするが、これは百弊ひゃくへいありて一利なしである。何の得る所なき自己陶酔、キザな神様気取りの、聖者気取りの穀潰ごくつぶしが、一人出来上るだけである。日本国民は、一時も早くそんな陋態ろうたいから蝉脱せんだつして、一歩一歩向上の生きた仕事に従 わねばならぬ。

 次に『非命の死と罪悪』の一節は、正に本章の圧巻で、再思三考に値する。人心の悪化、労資の軋轢、世界現状の行詰等を歎息たんそくするものは世間に多いが、それ等の中の幾人かが、かかる世相のって来る所を、奥深く洞察して世界平和の大計を講ずる資格があるであろうか。霊界の先覚から、『盲目なるかな地上の人類』と一喝されても、まことに致方がないように思われる。二十世紀の現代には、改善すべきものがお無数にある。獄舎制度も面白くないが、教育制度もはなはだ面白くない。まるきり心霊の知識を欠ける人類は半盲人である。到底ろくな考えの浮ぶ筈がない。私は衷心ちゅうしんから、日本国民よ、何所どこに行くと叫びたい。


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