霊訓

第一章 幽明の交通とその目途


問 『現代はいかなる時か?』

 新時代の黎明――格別の努力が、今や真理の普及に向かって払われつつある。が、一方に神の使徒達の努力が加わると同時に、今も昔と同じく、他方においてこれに反抗する魔群がある。世界の歴史は畢竟ひっきょう、善と悪との抗争の物語である。一方は光、他方は闇、この戦は精神的、並に肉体的の、あらゆる方面に向って行われる。無論両者の争闘そうとうは、時代によりて消長しょうちょうを免れないが、現在はその最も激しい時代である。神の使徒は、今やその威力を集結して戦に臨んでいるので、人間社会はこれがめに影響せられ、心霊知識、その他の普及となりつつある。道に反く者、心の弱き者、定見なき者又単なる好奇心で動く者は、わざわいなるかなである。真理を求むる者のみが、大盤石だいばんじゃくの上に立って居る。

問 『いかにして真理を掴むか。』

 心の準備――真に求むる者にして、最後に真理を掴まぬものはない。但しそれには多大の歳月を要する。時とすれば、その目的が地上生活中には達せられぬかも知れない。神は一切を試練する、そして資格のある者にのみ智慧ちえを授ける。前進の前には常に準備が要る。これは不変の鉄則である。資格が備わりてからの進歩である。忍耐が大切な所以ゆえんである。

問 『心の迷、実証の困難、僻見へきけん跋扈ばっこ等をいかにすべきか? 果してこれ等の故障に打勝ち得るか?』

 最後の必勝――人力は有限であるが、神力は無限である、故障とな! そうしたものは絶対に存在せぬ。われ等が過去においめたところに比ぶれば、現代の苦難のごときは抑々よくよく物の数ではない。われ等の生活せるローマ帝政時代の末期――精神的、霊的のものはことごとく影を潜めて、所得顔ところえがお跋扈ばっこするは、ただ酒色と、荒淫と、悪徳と、劣情……なんじにしてその実情に接触せんか、初めて闇の魔群の、いかに戦慄すべき害毒を人間界に流し得るかを会得したであろう。身を切るごとき絶望の冷たさ、咫尺しせきを弁ぜぬ心の闇、すべてはただ人肉のうめきと、争いとであった。さすがに霊界の天使達も、一時手を降すのすべなく、おぼえず眼をおおいて、この醜怪なる鬼畜の舞踊から遠ざかった。それは実に無信仰以上の堕落であった。すべてが道徳を笑い、天帝をあざけり、永生をののしり、ひたすら汚泥の中に食い、飲み、又溺れることをもって人生の快事とした。その形態はまさに人間であるが、その心情は、はるかに動物以下であった。それでも神は、最後に人類をこの悪魔の手から救い出したではないか! これに比すれば、現代の堕落のごときは、まだまだ言うに足りない。神と天使の光が加わるに連れて、世界の闇は次第に薄らいで行くであろう。

問 『人類の無智と頑陋がんろうとのめに、啓蒙事業は幾回か失敗の歴史を遺して居る。今回も又そのわだちをふまぬか?』

 真人の出現――神の恩沢おんたくは汝の想像以上である。今や世界の随所に真理の中心が創設せられ、求むる者に慰安を与え、探る者に手懸りを与えつつある。現代とても在来の経典をもって満足し、更に一歩を進めて真理の追窮ついきゅうに当ろうとする、気魄きはくのとぼしき者は多いであろう。それ等に対してわれ等は頓着とんじゃくせぬ。が、過去の示教しきょうに満足し得ず、更に奥へ奥へと智識の渇望をいやせんとする好学の士も、また決してすくなくない。われ等は神命によりて、それ等を指導せんとするものである。かくて真理は甲から乙へ、乙から丙へと、次第次第に四方に伝播でんぱし、やがて高山の頂巓ちょうてんから、世界に向って呼びかけねばならぬ時代も到着する。見よ、その時、この隠れたる神の児達こらが、大地の下層より蹶起けっきして、自己の体得し、又体験せるところを、堂々と証言するであろう。最初は細き谷川の水も、やがて相合して、ここに神の真理の大河となり、洋々として大地を洗い、その不可抗の威力の前には、現在汝等なんじらを悩ます痴愚ちぐも、不信も、罪悪も、虚偽もみな跡方もなく一掃せられてしまうであろう。

問 『近代の天啓と古代の天啓とは同一か?』

 天啓は皆同根――天啓はみな神から出る。る時代に現れた啓示と、他の時代に現れた啓示との間に、矛盾衝突のある筈はない。すべてはみな真理の啓発を期図きとしたものに外ならぬ。が、人間の要望と、能力とには多大の相違があるので、真理を盛れる形式は、必ずしも同一ということはできぬ。両者が矛盾するがごとく見ゆるのは、少しも神の言葉にあるにあらずして、みな人間の心にあるのである。神の言葉は常に単純である。人間はこれに満足することができず、あるいは注釈をもってこれに混ぜ、あるいは推理推論をもっこれを包んだ。かくて歳月の経過と共に、神よりでしものが、いつしかその本来の面目を失い、矛盾、撞着どうちゃく、虚妄、愚劣の不純分子をもって充たさるるに至った。かるが故に、新たなる啓示が出現した時には、もって、ふるい啓示の上に築き上げられた迷信の大部分を掃蕩そうとうするの必要に迫られる。もって破壊した後でなければ、新しき真理の建設が不可能ということになる。天啓そのものに撞着どうちゃくはない。ただ真理を包める人為的じんいてき附加物ふかぶつは、これを除去せねばならぬのである。そのさい人間は、あくまで己れに内在する理性の光りで、是非の判断を下さねばならぬ。理性こそ最高の標準である。愚なる者、僻見へきけんに富める者が、いかに排斥するとも、向上心にとめる魂は、よく真理を掴み得る。神は決して何人にも真理を強いない。従って準備的黎明期れいめいきおいては、必然的に特殊の人間に対する、特殊の啓示を出すことになる。昔においてもそうであったが、現代においてもそうである。聖者モーゼスは、果して自国民族からさえも一般的承認をたか? 昔の預言者達は、果して世にれられたか? イエスはうか? ポーロはうか?  いかなる時代のいかなる改革者が、大衆の喝采を博したか? 神は変らない。神は常に与える。が、しかし決して承認を強要しない。無智なる者、資格なき者はこれを排斥する。それは当然である。異端邪説があればこそ、ここに初めて真人しんじんと、偽人ぎじんとの選り分けができる。それ等はみな不純なる根源から出発し、常に悪霊から後押しされる。魔軍の妨害は常に熾烈しれつであると覚悟せねばならぬ。が、なんじすべからく現代を超越し、目標を遠き未来に置いて、勇往ゆうおう邁進まいしんせねばならぬ。

問 『霊界の指導者はいかに選ばれるか?』

 指導霊の性質――指導霊と、その指導を受くる人物とは、通例ある不可分ふかぶんの因縁関係をもって結ばれている。が、時にその例外がないでもない。る霊は、人間の指導が巧みであるめに特に選抜される。る霊は、特殊の使命を遂行すべく特派される。る霊は、一人物の性格上の欠陥を補充すべく、特にその人にけられる。又る霊は、理想型の人間を造るべく、自から進んで現世にくだることもあるが、これは高級霊にとりて、特に興味ある仕事である。時とすれば又霊界の居住者が、自分自身の修行のめに、求めて手にあまるような難物の指導を引き受け、一歩一歩に向上の進路を切り開くものもある。時とすれば又単なる愛情、又は現世愛の名残で引きつけられる場合もある。総じて、特殊の使命を有する場合の外は、指導すべき人物が進歩するに連れて、指導霊の変更がしばしば行われる。

問 『地上にくだる霊達は、いかなる階級に属するか?』

 普通は下級霊――通信者の大部分は、地上に接近せる下層の三境涯のものである。彼等ははなはだ容易に人間と交通し得る。高級の霊にして、地上と交通するのは、人間界の所謂霊媒に該当する特殊の能力者である。高級霊が交通を開き得る、優れた霊媒の数は極めて少ない。地上と通信を欲する高級霊は少くないが、容易に適当の霊媒を見出し難いので、何れも躊躇ちゅうちょするのである。かるがゆえに、霊界通信には玉石ぎょくせき混淆こんこうの感がある。かの事実と符合せざる虚偽の通信といえども、必ずしも故意にしかるにあらずして、しばしば力量の不足に基因きいんする。時が経つにつれて、幽明交通に関する智識は、次第にわれ等の掌裡しょうりに握られて行くであろう。

問 『所謂魔群とは、いかなる種類のものか?』

 神と人との敵――我等の使命に対して、絶えず反抗的態度をりつつある、有力なる悪霊の集団がそれである。彼等は狡知こうち猾才かっさいにとめる邪悪霊を首領と仰ぎ、百方手を尽して、われ等の聖業を阻害せんとしつつあるので、その悪戯は極めて巧妙、その行動ははなはだ敏活、巧みにわれ等の事業を模倣し、ひたすら迷える者の歓心を買うべくつとめるから、その伝播力、感染力は驚くべく強大である。彼等は神の敵であると同時に人類の敵である。善の敵であると同時に、悪の使徒である。われ等は彼等に対して、永遠の戦を交えつつある。

問 『さまで有力なる魔群の存在することは、意外の感にえない。世に悪の存在を否定する論者もあるではなきか?』

 悪霊の存在――善を捨てて悪に走るほど慨嘆がいたんすべきものはない。なんじは優勢なる魔群の存在を不思議に思うらしいが、事実はその通りであり、かもそはごうも怪むに足らぬ。魂は地上生活そのままの姿で、彼岸に歩み入るのである。その趣味、好尚こうしょう、習慣、反感等、生前死後を通じて、ごうも変るところがない。変る所はただ肉体の有無のみである。地上にあって趣味低く、素行修まらざるものは、地の世界をのがれたとて、依然として旧態を守り、これと同様に、地上にありて品性の高潔なるもの、志操しそうの確実なるもの、向上心の強きものは、死後において、決して悪魔の徒弟とはならない。なんじがこれしきの真理を会得せぬこそ、むしろ意外である。すべては儼然げんぜんたる因果の理法の現れで、金はあくまで金、鉛は最後まで鉛である。魂の品質は、決して一朝一夕の所産でない。そは霊性の中に織り込まれたる綾であり、模様であり、両者を切り離すことは、到底不可能である。就中なかんずくおそるべきは習癖しゅうへきの惰力である。習癖しゅうへきは深く魂の中に喰い入りて、しばしば個性の主要部となるに至るもので、一たん肉感肉慾の誘惑にかかった魂は、終にその奴隷とならずんば止まぬ。彼は到底清純無垢の境地に安住し得ない。彼の望むところは、お馴染の魔窟であり、悪習慣である。友は友を呼び、類は類をもって集まるのであるから、ほどこすべがないのである。かるがゆえに、われ等の所謂魔群と称するものは、低級未発達の集団に外ならない。彼等が向上進歩すべき唯一の望みは、ただ悔悟かいごと、高級霊の指導と、又一歩一歩に、罪深き悪習慣から脱却すべき永遠の努力とより以外には絶対にない。そう言った未発達の霊魂の数は実に多い。従ってその威力は決して侮るべきでない。かの悪の存在を否定し、有力なる魔群の存在を否定するがごとき思想は、実に人類を誘惑せんがめに、構造されたる、悪魔の甘言と思考すべきである。

問 『魔群にも一人の司配者があるか?』

 すべては神界の統治下――魔群の頭領の数は多い。が、神学者の唱道しょうどうするがごとき、大魔王と言ったものは存在せぬ。すべての魂は、その善霊たると悪霊たるとを問わずことごとく神界の統治下に置かれて居る。


(評釈) 本章説く所は、大体平明で、穏健であるから、さして評釈の必要もないと思うが、初学者のめに、念のめに二三の注意を試みることにする。

『真人の出現』の条下において、数十年前に預言されたことが、現在においていよいよ地上に出現しつつあることは驚嘆すべきである。今や世界全土にわたりて普及しつつある神霊運動の前には何物も抵抗すべくもない。世界で一番後廻しになった日本国でも、最早もはやその傾向が顕著になった。よくにはここ両三年の努力で、日本をして、この運動のトップを切らせたいものである。

『指導霊の性質』の条下には、指導霊とその指導を受くる人間との、深い因縁を説いているが、今日われわれが心霊実験を行えば行うほど、それが真理であることを発見する。与うる者と、与えられる者とは、常にぴったり心の波長が合ったものである。かるがゆえに人間を観れば、大体その背後のものが判る。下らない人格の所有者に、立派な神霊の感応するようなことは絶対にない。世人せじん断じて山師的宗教家の口車などに乗って、迷信家の仲間入りをしてはならない。

『悪霊の存在』の条下に、『魔群と称するものは、低級未発達の魂の集団である』と、のべてあるのは至言である。『悪』とはつまり『不完全』、又は『未発達』の代名詞で、純粋の悪霊そのものは存在せぬ。どんな悪霊でも、最後にはみな浄化し、美化し、善化する。従ってどんな悪霊でもことごとく神の子であり、神界の統治下にあるのである。抽象的の善玉、悪玉の永遠の争闘そうとうの如き思想は、一時も早く排斥すべきである。同時に霊界を一の清浄無垢の理想境と考える事も、また飛んでもない迷妄である。霊界は現界と同じく、玉石ぎょくせき混淆こんこうの差別の世界で、寸刻すんこくの油断もできない。これを知らずに幽明交通をするから、そこに多大の弊害が起るのである。初学の士は最初るべく学識経験の積んだ指導者にきて、這裏の消息に通ずべく心懸けるのが安全であろう。


解説

目  次

第二章


心霊図書館: 連絡先