心霊読本

第五篇 精神統一の理論と方法

一、精神統一の要諦

 精神統一と心霊現象とは、密接不離の関係を有して居ります。しかしながら精神統一をもって、心霊現象作製のめの単なる一手段と見做みなすことは正当でないと思います。私としてはずっと広義にこれを解釈し、むしこれを精神修養のめの最も重要なる一項目に数えたいのであります。

 ところで、私がずお断りして置きたいのは、私の所謂いわゆる精神統一法が在来の諸修法、例えば坐禅、鎮魂、祈祷、催眠術、等から全然超越して居ることであります。此等これらの諸修法にも、もちろんそれぞれ棄て難き長所はありますが、悲しい哉、それ等が皆心霊科学以前の産物であるめ、その理論は兎角明晰を欠き、又その目標はしばしば正鵠を誤り、うっかりこれを修すれば、却って取りかえしのつかぬ損害を招く憂がなきにしもあらずであります。二十世紀の新人が相率いてようやくそれ等の修法から遠ざからんとする傾向を有する所以でありましょう。無論われ等は過去の修法の長所を採るにやぶさかであってはならない。しかしながらわれ等は断じて、過去の因習にこびりついて居るべきではない。その点くれぐれも読者諸氏の甚深なる考慮に待ちたい。精神統一に対するわれ等の態度は、どこまでも自在無碍じざいむげ、一意ただ近代科学、就中なかんずく心霊科学の厳正なる指示に従わんとするものなのでなければならない。

 が、御承知の通り精神統一の実修は、人間の精魂を賭しての真剣勝負でありますから、口や筆では、到底その真意を尽し難き箇所があります。私としてはこの困難に打勝つべく最善を尽して見ますが、若しそれでも諸君に充分の満足を与えることができなかったら、成るべく直接お目にかかって、卑見を申述べる機会を造ることに致しましょう。面倒でも、そうでもするより外に致方いたしかたがないようであります。

 不取敢とりあえず私はここで精神統一の要諦、つまりその根本のねらい所に就きて申述べることにしましょう。私の観る所によれば、それは畢竟ひっきょう二ヶ条にまとめられると思います。

 精神統一の第一の要領は、あたる丈肉体意識と絶縁して、人間に潜在する高級のエーテル意識の活動を促すことであります。すでに第四篇において講述せる通り、われわれ人間の運用機関は肉体、幽体、霊体、本体の四つに分れ、従って人間にそなわる意識は慾望、感情、理性、叡智の四階段に分れて居ります。右の中で地上生活を営む人間が、平生最も親しんで居るのは、言うまでもなく肉体意識であり、いかなる人間でも、飲食慾、所有慾、性慾、その他の慾望から全然離脱することは到底不可能であります。それは実に肉体を有する現世人の免れ難き約束であり、宿命であります。人間の中で最も肉体の覊絆から脱出すべく心懸けて居るのは、恐らくヨーガ行者、仙道修行者の類でありましょうが、しかし彼等がいかに気張って見たところで、空気の断食まではできないのであります。さればと言って、人間が単に肉体のみの所有者でなく、その内に各種のエーテル体を包蔵して居る以上、人間は単に動物的本能の満足に始終すべきものでもない。人によりてエーテル体の発達程度は、勿論むろん同一でないとしても、しかし心懸次第で何人も感情の世界、理性の世界までは、ほとんど例外なしに突入し得るのであります。精神統一のねらい所も、つまりここにあります。即ち精神統一とは、成るべく肉体意識を抑えつけることによりて、内面に潜在する高等意識の活動を促し、更に進んで、若しもできることなら、その本体が受持つところの、甚深微妙なる叡智直覚までも働かせようとするのであります。これは理論上、どこにも無理がないばかりでなく、実験的にも立派にその証明が挙げられつつあります。例えば精神統一の実修によりて発揮さるる、かの霊視能力などが立派な生証文であります。肉眼をもってすれば、紙一重も通読し得ない。ところが霊眼の優れたものになると、紙一重の透視は愚か、時とすればほとんど時空を超越するかに見ゆるほどの神通的威力を発揮するのであります。

 精神統一の第二の要領は、できる丈各自の背後に控えている幽的存在――守護霊、司配霊しはいれいとの交渉を密接にする事によりて、十分に各自の天分を発揮することであります。われ等はすでに前篇において各霊媒の背後に守護霊、司配霊しはいれいが控えて居り、それ等が霊媒の最も有力なる後見者、援助者であることをのべました。が、これは単に霊媒のみに限った問題ではないのであります。近代心霊科学が有する精鋭無比の調査能力をもって、綿密なる霊的調査を加えて見ると、全部の人間の背後には、めいめい守護霊、又司配霊しはいれいと言った、他界の居住者達が必ず控えていて、人知れずその人の思想、行動、又人格の上に絶大の感化を及ぼして居ることを発見するのであります。所謂いわゆる知らぬが仏で、多くの人間は、誰人の世話にもならないような顔をして、威張って居ますが、だんだん研究して見ると、それはただ自己の無知識を物語る以外の何物でもないようであります。で、この守護霊、司配霊しはいれいにつきての認識は、独り精神統一の実修者にとりて、必須の要件であるばかりでなく、右につきての正しき認識がなければ、人間として、到底自己本来の面目を、充分に発揮し得る見込はないと考えられますので、私はこの機会に、せめてマイヤースの類魂説でも紹介して置きたいと思います。因みにマイヤースの所謂いわゆる「類魂」とは、一つの自我の本体(自然霊)からわかれたる同一系統の魂の集団を指すので、従って私の所謂いわゆる守護霊も、当然類魂の一つなのであります。マイヤースはう説きます。――

類魂グループ ソールこれを単数と見れば単数、複数と見れば複数でもある。脳の中に幾つかの小中心があると同じく、心霊的生活においても亦、一つの本霊スピリットによりて結びつけられたる幾つかのソールがあり、そして此等これらの魂はその栄養素を、右の本霊から供給されるのである。私が地上生活をしていた時にも、私は勿論むろんる一つの類魂に属し、そして私以外のものは、ことごとく超物質の世界に置かれて居た。若し諸子が心から霊的進化の実相を掴もうとするならば、是非この類魂の原理を研究し、又理解して貰いたい。この類魂説を無視した時に、到底解釈し得ない難問題が続出する。就中最大の難問題の一つは、現世生活の不公平、不平等なことで、それ等は各自の生の出発点において、すでに宿命的に決められて居る。これを合理的に説明し得るものは類魂説である。類魂説によれば、現世生活は自分の生活であると同時に、又自分の生活でない。換言すれば自分の前世とは畢竟ひっきょう自分と同一系統の魂の一つが、かつて地上に送った生涯を指すので、それが当然自分の地上生活を基礎づけることになる。……同一の本霊の内に含まるる魂の数は二十の場合も、百の場合も、又千の場合もあり、その数は決して一定していない。仏教徒の所謂いわゆるごう羯磨カアマ)――あれは自分自身の前世の業ではなく、自分よりもずっと以前に、地上生活の模型を残してくれた、類魂の一つが作った業なのである。われわれは個性の所有者であると同時に、又全体の一員でもある。一部分であると同時に又全部分でもある……。』

 私の所謂いわゆる守護霊の意義は、右の説明で充分に言い尽されて居ると思います。私は読者が是非この一節を充分に咀嚼翫味そしゃくがんみし、不徹底な半面の理窟りくつなどをもって、この重大問題を有耶無耶うやむやに葬り去られぬことを切望して止みませぬ。

 一たん守護霊の存在、並に守護霊と本人との重大関係が判ったとなれば、私が精神統一の実修に当りて、守護霊、並に守護霊を助くる司配霊しはいれいとの交渉に、絶大の重きを置く所以ゆえんただちに首肯しゅこうせらるる筈だと考えます。われわれはどんな理想や希望をいだいてもごう差支さしつかえない。が、その理想、その希望は常に自己の背後に控えている幽的存在――守護霊並に司配霊しはいれいを通じてのみ、実現の可能性があるのであります。これは大自然の機構であり、従って各自の宿命であるから、これに反抗することは絶対に禁物なのであります。

 以上で精神統一の正しきねらい所が、那辺なへんにあるかがほぼ尽されたと考えますので、つづいてもう少し立ち入りて、精神統一の目標につきて検討を加えることにします。


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