心霊読本

第四篇 人間とその環境

三、日本神道の四魂説

 私は叙述のついでに、ここで日本古典の所謂いわゆる四魂説に就きて卑見を申上げて置きたいと存じます。何となれば従来日本の学界で、単なる揣摩臆測しまおくそくの材料でしかなかった四魂説が、心霊科学の見地から解釈を下した時に、初めて新生命が湧き出るかと思考せらるるからであります。

 言うまでもなく所謂いわゆる四魂とは、荒魂あらみたま和魂にぎみたま幸魂さちみたま奇魂くしみたまの四つであります。副島種臣伯の著『道之大原』なども四魂説に触れて居り、荒魂は勇、和魂は親、幸魂は愛、奇魂は智を受持つと説いてありますが、何故にそうであるかの学術的説明もなく、又勇、親、愛、智の分類法も、いささか粗笨そほん不徹底で、到底近代人士の満足を買うことはできないのであります。その他いろいろの説が出ていますが、高き批評眼から観て首肯し得る解釈は、ただの一つも見出されない。就中一部の論者が和魂の和と、大和魂の和とを混同して、和魂第一主義に走る傾向のあるのははなはだしき滑稽事であります。

 私の観る所にしてあやまらずんば、日本古典の四魂とは、取りも直さず人間意識の四階段、並にその四魂体を指すものであると思考されます。簡単にいうと、荒魂とは肉体意識のことで、即ち慾望を指し、和魂とは幽体意識のことで、即ち情念を指し、幸魂とは霊体意識のことで、即ち理念を指し、又奇魂とは本体意識のことで、即ち叡智を指すのであります。すくなくも日本古典の四魂説はかく解釈を下すことによりて、初めて現代に生きるかと確信されます。

 念のめに左に四魂を表すに用いられたるそれぞれの文字の意義に略解を加えて、識者の高教を乞うことに致します、卑見によれば「あら」は「あら」又は「あら」と語源を同うし、あきらかに媒体中の最下段に属する肉体の意識を表現するに、最も適当な文字であります。次に「にぎ」は「にぎわい」「にごり」「にぎり」等と同一義を有し、畢竟ひっきょう人類の共同生活に、何より大切なる親和性、協調性、提携性を指すに絶好の文字であります。水清ければ大魚なしの譬の通り、人類の共同生活にはる程度まで和魂の濁りの要素、不透明の要素が必要なのであります。次に幸魂の「さち」――これは山幸やまさち海幸うみさち等の古語が示す通り、各自の天分、持って生れた器量才覚を指すものに相違ない。つまり各自はこの天賦の「さち」によりてそれぞれの使命、それぞれの職分が決まるのであります。最後に奇魂の「くし」――これはあきらかに摩訶不思議の神智霊覚、つまり第六感的直覚能力を指すところの最高級の文字で、「くわし」「くわし」などと語原をおなじうするものと思考されます。

 私はここでただ四魂の説明を試みて置くにとどめ、日本精神の全般的考察は、きへ行ってから改めて詳述したいと考えます。


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