心霊読本

第四篇 人間とその環境

二、人体の構成要素

 以上のべた通り、物質科学の方面から考えても、人間の肉体の内面には、よほど微妙複雑なるエーテル的機構が存在して居るらしいことは推定できますが、更に心霊科学の方面から調査考究を重ねて見ると、その点は一層明瞭となり、人類発生以来の千古の疑問が、初めて釈然として解決されるに至ったかの感があるのであります。私はこれからできる限り簡潔に、手がかりとなるべき、有力な資料を紹介することに致します。便宜のめに私はこれを推理的、器械的、並に心霊的の三種順に分類して説きたいと考えます。

 推理的方面から述べますと――

(一)人体を組織する細胞意識と、人体を通じて発揮さるる精神力との間には、あまりにも多大の懸隔がある。

 御承知の通り、人間の肉体は無数の細胞から成って居ますが、一つ一つの細胞意識は極めて微弱低級であり、主として蠢爾しゅんじたる動物的本能によりて左右せらるることは、細胞同士が共喰いをあえてするのを見ても明瞭であります。しかるにこんな低級無智なる細胞の集合体であるところの人体を通じて、時として飛んでもない大思想が生れたり、大発明が湧き出でたりします。して見ると、人間の物質的肉体の内面には、ある他のくしびな何物かが宿って居ると解釈するのが正当ではあるまいか。

(二)人間の肉体は短期間に変化するが、人間の個性は一生涯を通じて変らない。

 生理学者に言わせると、人間の肉体は間断なく変化を遂げ、約七年過ぎると、元の組織は全然新規なものに変ってしまうということです。しかるに人間の個性、すくなくともその中枢は少しも変らない。仮令たとえ変ってもはなはだ軽微で、所謂いわゆる三ッ子の魂百までのことわざそのままである。して見ると、人間の自我は決して肉体と同格でないばかりか、肉体は自我の専用の機関でさえもないらしい。

(三)肉体の活動と精神の活動とは必ずしも伴わない。

 健全なる精神は健全なる肉体に宿るという諺は、同一人物の場合には大慨当てはまるが、それさえも例外がある。で、他方、人の死せんとするや、その言やよし、などという諺にも存在価値がある。いわんや他人同志の場合には、肉体の強弱如何をもって、精神力の強弱如何を推定したら、飛んでもない間違を惹き起します。優れた文学者、芸術家、又哲学者の中には、肉体的には極めて貧弱な人も多いのであります。して見ると人間の肉体には、これと全然独立して威力を発揮するところの別個の存在があるらしい。

 次に器械的の方法で人体をしらべて見ますと――

(一)人体から三層のオーラが放射されて居る。

 オーラ(放射体、後光)の存在は古代の埃及エジプト印度インドの霊能者によりて認められていますが、十八世紀中葉から、オーラは次第に学界の問題となり、かくて近年英国のキルナア博士が、一種のスクリーンを発明するに及び、その存在並に性質がいよいよ明瞭になりました。右のスクリーンはディシャニンと称する一種の染料のアルコール溶液を作り、これをガラス器に盛ったもので、実験者は少時の間右のスクリーンを通して日光を凝視することによりて、その眼を短波長に慣らします。それから一たん瞑目して、改めて右のスクリーンを通して、薄暗くした実験室内の裸体の人間をのぞくと、はっきりオーラを認めるというのであります。最近の報告によれば、三百十二人の実験者中二百五十八人が、首尾よくオーラを目撃したとあります。これは約八割に当ります。

 なおキルナア博士の報告によれば、オーラは三層に分れて居るとの事です。第一は内層、これは肉体をとりまく灰色がかった太い線で、幅は広さ四分の一インチ位、第二は中層、これは光輝性の霧状を呈したもので、幅は二三インチ乃至五六インチ、その色彩は当人の健康状態、精神状態によりていろいろに変化する。第三は外層で、これは中層から、更にすくなくとも五六インチははみ出して居り、末は朦朧もうろうと外界にぼけてしまう。

 なおここに看過してならないことは、精神力の減退が、オーラの大きさと色とに影響を及ぼすことで、神経衰弱症患者のオーラは概して皆弱く、瀕死の病人にありては著しく萎縮して居り、そして屍体には全然オーラが認められないのであります。

 意念の働きと、オーラの色彩との関係も、大へんに興味ある問題で、霊智学者セオソフィストのレッドビータア氏が発表するところによれば、褐色は物慾、黒色は憎悪、赤色は忿怒、灰色は憂欝ゆううつ、淡紅色は愛情、橙色は自負心、黄金色は智慧、緑色は融和性、青色は宗教心を表現するとあります。又近頃はオーラの色によりて病気の診断を行おうとするくわだても、ぽつぽつ現れつつあります。

 オーラの性質及び内容は、まだ充分に判ったとは言われませんが、しかし右の実験が、肉体の内部に三層の超物質的エーテルの存在を暗示して居ることは確かであると考えられます。

(二)死の瞬間に人間の体量が減る。

 最初にこの実験を行ったのは和蘭のマルタ博士で、死の瞬間に失わるる人間の平均体重が、約二・五オンスであると発表しました。この事実は更にハアヴアド大学の心理学教授マクドゥガル博士によりて裏書きされました。同博士は六人の瀕死の患者を捕えて実験したが、六人の中四人には、あきらかに二オンスの減量を認めたのでした。

 死の瞬間に失わるる約二オンスの減量――事実はただそれ切りですが、しかしこの一事は何物かを有力に暗示せずには置きませぬ。事によると、このたった二オンスの減量の中に、人生の大きな謎が秘められていないとは何人が言い得ましょう。われわれは心ある学者が、更に一歩をすすめて、その内容の科学的検討に当られんことを切望に堪えませぬ。

(三)幽霊の姿が写真に撮れる。

 これはごく最近の出来事であります。右の実験は北米の『ウイルソン・エキスパンション・チェムバア』(有名なイオン研究所)で行われたもので、バッタ、蛙、鼠等の幽霊、即ち肉体を離れたばかりのエーテル体の写真撮影に、驚くべき成績を挙げたのであります。この実験の価値は普通の心霊写真と異り、霊媒を使わず、全然物理的に行われたことであります。右の研究所の着眼点はうなのです。一体人体を構成する原子の数は極めて少数で、人体の大部分は空間から成立して居るが、事によると、この空間は単なる空間でなく、其処そこに何物かが存在するのではあるまいか。すでにイオンの如き無限小のものさえ見出されて居る以上、若しも適当なる条件の下に実験を行ったら、あるいは生命を構成する何物かの非物質的存在――例えば内在原子体と言ったものが原子と原子との隙間に存在するかも知れない……。

 そこで彼等は特殊の光線下において写真を撮ったが、最初の実験材料に供せられたのはバッタであった。五十疋のバッタがエーテルで殺され、ぎと撮影されたところ、五十枚の乾板中の十四枚丈には、バッタの物質的肉体の外に、肉体を脱出したバッタの幽霊(エーテル体)がはっきりと写ったのであります。この実験において最も困難を感じたのは、死の瞬間を捕えることで、早きに失すればエーテル体は肉体内に残り、又遅きに失すればエーテル体は肉体の傍を離れ過ぎるし、これにははなはだ弱らされたということです。お幽霊が写らなかったバッタの大部分は、後で蘇生したということで、これもはなはだ興味ある点だと思考されます。

 言うまでもなく右の事実は、物質的肉眼の内部に、超物質的エーテル体が存在し、そして死とは両者の分離を意味するものであることを、はなはだ有力に物語るものであります。しかもこの実験が心霊学者にあらざる普通の物理学者の手で、純機械的方法で行われたことは、一層その意義を深めるものがあります。

 最後に心霊的の方法で調査されたところを申上げますが、これは余りにも資料が豊富なので、ここにはそれ等の中で最も代表的なものを選出するにとどめます。――

(一)物質化した幽霊のパラフィン手型並に指紋の作製が出来る。

 第一にパラフィン手型から述べます。方法はすこぶる簡単で、ずパラフィンの溶液を作り置き、幽霊に頼んで物質化せる手首を、右の溶液に漬けさせます。引き出した手首には、勿論むろんパラフィンの薄い膜が附きます。人間の手首なら、その膜を完全に 抜き去る工夫はありませんが、幽霊はその手首を崩壊せしめるので、仕事ははなはだ容易に行われ、後にパラフィンの薄い手袋丈を残します。この実験は十九世紀の英国の名霊媒エグリントンによりても試みられたが、近くは一九二〇年から二二年にかけて、仏国の諸学者ジェレー博士、リシエ博士等が、ポーランドの名霊媒クルスキイを用いて、さかんに手型作製を行いました。ポーロースキイ博士の報告によれば、ある一つのパラフィン手型に、幽霊の指の毛が抜けて附着して居たということです。これは幽霊のエーテル体がその生前の肉体と全然同一機質を有することを、有力に物語るものであります。

 次に幽霊の指紋――これは一九二六年来、ボストンの名霊媒クランドン博士夫人(マアジァリイ)の実験会で作り始めたもので、同夫人の亡兄ウォルタアと名告なのる幽霊が、その物質化せる手を使って、歯科医用の蝋塊に拇指の指紋を押捺してくれるのです。私自身もウォルタアに頼んで作製したものを三箇所持して居ります。ウォルタアの場合にあって、特に仕合せであったのは、彼の生前の指紋がその愛用の剃刀の柄に残っていたことで、比べて見ると生前死後の指紋が一致して居るのです。この事実が何を物語るかははなはだ明白であります。ドウあっても人間には死後に残存する所のエーテル体があり、そしてそれは当人の肉体と全然一致する、ということであります。

(二)自動書記で死者生前の筆蹟が現れる。

 自動書記と云うのは、日本で往々お筆先などと唱えられる一の心霊現象で、入神中の霊媒の手が自動的に動いて、死者からの通信を書くのですが、時として死者の筆蹟が、そっくりそのまま現れることがあります。かって前記のクランドン博士夫人に、孔子の弟子と称する支那人の霊がかかって、沢山の漢字を書きましたが、読んで見ると、それは論語の文句でした。勿論むろんクランドン夫人には、全然漢字の智識などは絶無で、書くは書いても読むことができず、結局東洋語学者のワイマント博士だの、私だのが読んでやりました。又一九二三年英国の霊媒ヘスクア・トラヴァース・スミス夫人に、故オスカア・ワイルドの霊魂と名告なのるものが懸って、沢山通信を寄越しましたが、その書体は生前のオスカア・ワイルドの書体に寸分の相違を認めませんでした。この種の実例は他にも無数にあります。これはあきらかに本人の個性が死後に存続し、そして肉体そっくりのエーテル体を使って通信して居ることを有力に証明するものと思考されます。

(三)死者並に生者の姿が心霊写真で撮れる。

 普通の写真と心霊写真との相違は、後者の撮影者が、常にる特殊の能力者たるを要することで、つまりそれが所謂写真霊媒であります。近代の写真霊媒としては、英国クルューのホープ氏が優れて居り、その手で撮影された死者の写真は万をもって数えます。同時にそこでは時々遠方の生者の写真が撮影され、現に一九二八年夏、私と同行した久米博士の令嬢の姿が、分明に乾板上に現れました。当時令嬢は実に英国と対蹠的関係にある日本の内地に健在なのでした。うした実例は他にもいろいろあります。これはそもそも何事を意味するか? というに、生死如何いかに係らず、人間には肉体そっくりのエーテル体が存在することを、有力に物語るものと思考されるのであります。

(四)生者のエーテル体がしばしば肉体から遊離する。

 右はしばしば変態性の人間におこる現象で、本人のエーテル体が肉体から離れ、遠方の知人又は交霊会の席上等に出現した記録が沢山あります。又霊媒中にもこの現象を起す人がすくなくない。即ち英国のワアド氏、レナルド夫人等がそれであります。又現在これを実験的に研究して居るのは北米の心霊学者カアリングトン博士で、これに使われて居るのはマルドーンという霊媒で、右の実験記事は『幽体の遊離ゼ、プロジェクション、オブ、ゼ、アストラル、ボディ』と題せる一書にまとめられて居ります。

(五)霊界通信の全部が各種のエーテル体の存在を物語る。

 ここに霊界通信というのは概称で、自動書記、霊言、直接談話等の各種に分れますが、それ等の全部を通じて一致して居ることは、人間に超物質的エーテル体が内在すること、又そのエーテル体が幾種類かに分れて居ることであります。分類法は説く者の立場立場で煩簡精粗の別があり、必ずしも一致しません。最も簡単なのは肉体を併せて三種類とします。即ちボディソールスピリットの三つであります。最も煩瑣なのは七種類とします。霊智学徒などがその代表で、即ち肉体ボディ複体ダブル気体プラーナ幽体カアマ霊体マナス精体ブッデイ大我アートマの七つであります。が、私の観る所によれば、肉体を併せて四種類に分類することが穏当で、最も実際に即して居るように考えられます。最近トラヴァース・スミス夫人を通じて、ヨハネスと称する一古代霊が、自動書記で送った通信などがその好代表であります。その要旨を紹介すると、『肉体とソールとは、勿論むろん両者の間に連絡はあれど、見ようによりてはこれを別箇の独立的存在と考えてよい。右のソールには三通のエーテル体がある。即ち肉体の内面にず第一エーテル体が宿り、次に第二エーテル体、第三エーテル体が宿っているのである。之等これらの中最初の二つのエーテル体は、その形状が大体肉体と同一であるが、ただその有する振動数はそれぞれ相違する。第三エーテル体は、魂が一切の形態を離れる直前に使用するもので、これが魂の有する最高機関である。その形は前二者よりも小さい。すべては肉体の発達につれて発達すれど、第二、第三の高級エーテル体は、人間の地上生活中には通例未だ萌芽状態を脱しない……。』

 以上推理的、器械的、心霊的の三種類の資料に基き、私は人間の構成要素並にその分担を、左の如く推定せんとするものであります。叙述の簡単を期すべく、要点を箇条書にします。――

一、人間は自我表現の媒体として物質的肉体の外に、超物質的エーテル体を有する。

二、超物質的エーテル体とは概括的総称で、これを幽体アストラル、ボディ霊体メンタル、ボディ本体スピリット、ボディの三つに分けることができる。

三、之等これら合計四つの媒体は互に滲透的に重なり合って居る。

四、之等これら四種類の媒体は、それぞれ異なれる意識の四階段――慾望、感情、理性、叡智、を分担する。

五、人間の四つの媒体が互に重なり合って働くと同じく、人間の四つの意識も互に重なり合って働き、その結果複雑なる心理作用を起す。

六、エーテル体は感官的には、ほとんど皆不可視的又不可量的存在であり、又時空の束縛を超越しているらしい。

七、人間の意識とその媒体との関係は、あくまで不可分的である。換言すれば心ヌキの媒体、媒体ヌキの心は絶対に存在しない。

 以上七ヶ条――私はこれが最後の断案であるとは申しませぬ。が、私の列挙した各種の資料並に推論を学術的に覆す丈の研究が現れない限り、容易にこれを撤廃する訳にも行くまいと考えて居ります。


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