心霊読本

第四篇 人間とその環境

一、物理学者の物質観

 近代心霊研究に関する序曲的説明は、一とず前三篇をもって切り上げることとして、さてわれわれとして大切なのは、人間それ自身、並に人間が置かるるところの環境に就きての科学的検討であります。ギリシアの先哲も『なんじ自身を知れ』と喝破して居りますが、これは全く至言で、肝腎の自分自身の正体が判らずに、何の碌な仕事ができるものでない。従来、平凡な心霊現象がいたずらに不可能視せられ、又不可思議せられたのも、詮じつむれば、自分自身に関する人間の認識があまりにも貧弱であった結果だとも、言えば言われぬこともないようです。これにつきては、後でまだ重ねて述べることにしますが、読者の考えを成るべく早く正しい軌道レールの上に載せるべく、私は多少の無理を忍んで、ここで人間とその環境とに関する近代心霊科学的結論を紹介して置くことにします。

 それにしても、私は最近の物理化学が、物質に対してどんな解釈を下して居るかを、ず瞥見して置きたいと考えます。御承知の通り、物質科学は近年に及びて途方もない大飛躍を遂げ、物質科学の最奥と、心霊科学の入口とは、ぴったり一致してしまった観があり、前者から後者へ移るのに、最早すこしの無理を感じないのであります。かの科学と宗教との争いなどというものは、あれは未発達の十九世紀の科学と、又ドグマだらけの既成宗教との問題であって、今日では科学と宗教とは、非常に仲よく提携ができるのであります。私はオリバー・ロッジの著『エーテルと実在』中からわれわれの参考資料として有用と思わる二三の箇所を、左に摘出することに致します。

 物質の窮極きゅうきょくの構成要素たる電子及び陽核に就きては、同書はう説いて居ります。

『電子と陽核とは、実に物質を構成する所の建築材料である。何となればすべての原子は、常に之等これら二つの要素から成立し、そしてすべての物質は皆原子から成立するから……。電子がエーテルから成立して居ることはすでに明瞭である。電子の質量は電気場のエネルギイをもって示し得る。これはエーテル的現象であり、電気場以外にあって電子は存在しない。換言すれば、電子は電荷以外の何物でもない。次に陽核はどうかというに、その説明は電子に比して遙かに困難である。陽核が何故あんなにも多くの質量をつかはまだよく判らない。われわれはただ推定を下し得る丈に過ぎない。推定の一つは、電子の内部が水泡の如く空虚であるに反して、陽核の内部が空虚でなく、電子から移動して来た余分のエーテルで、ぎっしりと充満して居るのだとするのである。陽核は電子に比して千八百四十倍の質量を有して居る。故に原子量なるものは、畢竟ひっきょう原子の包含する陽核の重さであると考えてよい。水素原子にはたった一個の陽核しかなく、ヘリユムには四個、リシユムには七個、酸素には十六個、等、等、最も重きウラニュームには二百三十八個の陽核が含まれて居る。この数字は化学において実験的に突きとめられて居る原子量と一致する。原子量は正確なる計算である。又ある特殊の原子内の陽核の数も、ず正確な計算である。不明なのは、ただ電子と陽核の重量の相違が、何故にかく多大であるかである。あらゆる他の諸点においては、之等これら二つの荷電体は同等であり、相対的である。換言すれば、電気的には同等であり、相対的であるが、物質的には同等でなく、しかもその相違が一と千八百四十の割合になる。で、われわれは次の如く断言する、――物質の重量は陽核によりて決し、これが原子の中核を形成する。これに反して原子の化学的性質は、陽核の周囲をめぐる所の電子によりて決するのであると。之等これら遊星の如き電子は非常に活溌で、原子に特殊のスペクトラムを附与し、又原子に特殊の化学的成分を附与するが、ただ原子の重量とはほとんど没交渉である。これはいかにも奇妙な事柄であるが、実験実証の結果であるから否定することはできない……。』

 物質の不連続性、換言すれば電子と陽核との隔離状態につきては、同書はく説いて居ります。――

『物質は不連続性を帯びて居り、中間には多くの間隙をって居る。その最も顕著なる実例は、天体においこれを見ることができる。天体と天体とがぴったり密接して居ることは絶対にない。がこれは独り天体に限らない。一片の岩石でも、一脚の椅子でも。その他のいかなる固体でも皆そうである。物質の不連続性は大規模でも小規模でも同様である。一見そうでなく見ゆるのは、人間の感官が小規模の物体を見るべき装置になっていないからである。顕微鏡はこれに対して多少の補助的作用を営むが、まだ決して充分でない。いかに強度の顕微鏡でも原子を見ることはできない。いわんや原子の内部的機構においておやである。これをしらべるのには、他の間接的方法に拠らねばならない。が、今日においては、それが極めて微細なる陰陽の電荷――電子と陽核とから成立して居ることは、すでに一般的智識となって居る。しかもこれ等の電気的単位は、丁度太陽系の諸天体が離れて居るように離れて居り、原子の内部は大体空間であることが判って居るのである。故に若しもわれわれが一つの固形体を執り、これを充分拡大することができたとすれば、それはあだかも夜間大空を仰ぐと同様の観を呈するに相違ない……。しからば之等これらの構成要素は相互的に何の連絡もないかというに、決してそうでない。各天体は引力と称する一の統一力で結びつけられて、整然たる組織を為して居り、これと同様に固形体内部の各分子間にも、凝力と称する一の力が働き、立派な法則と秩序とを保っているのである。引力といい、凝力といい、名称などはどうでもよいが、兎に角そこに空間を充す所の、る物が存在することは確かである。われ等はこれをエーテルと呼ぶことにする。要するにあらゆる物体は大小に係らず、皆エーテルによりて連結せられ、エーテルの中に活動し、そして恐らくエーテルから成立する……。』

 エーテルの性質に就きて、同書はこんな風に物語ります。――

『空気の圏外には何があるか? そこには極度に冷たい冷たいエーテルがある。地上の温度はこれに比して約華氏五百度ほど高い。このエーテルは物質とは違い、徹底的に空間全体に充ちて居る。物的宇宙においてエーテルほど遍在的なるはなく、エーテルほど有力なるはない。われわれは片時もエーテルなしには生きられない。しかし地上の人類は、これにつきて知る所がはなはだ少ない。はなはだしきはその存在を否定するものすらある。われわれの五感は、勿論むろん直接これを認識することはできない。が、エーテルの中におこるところの諸現象、換言すれば、その変形は容易にこれを認識し得る。実をいうと、人間の五官は空気でさえもが、これを直接に認識する力はない。ただ空気の変形例えば風とか、音響というものになると、初めて明瞭にこれを認識するのである。エーテルにおいても同様で、エーテルの波動とは毎日のようにしたしんで居る。例えば汝の手を、燃ゆる火の前にさし延べて見るがよい。手に感ずるものは熱い空気ではない。空気は決して熱しない。われわれが感ずるのはエーテルの振動なので、それが皮膚の神経を刺戟し、チクチクした一種の感じを与えるのである。日光浴とても同様で、日光はエーテルの振動に外ならない。即ち太陽から起ったエーテル波動が、冷たい冷たい九千二百万マイルの空間をば八分間で突破して、われわれの身辺に達するのである。皮膚の各部はエーテルの振動に感ずるが、しかしほとんどすべての動物には、これに対して特に敏感な箇所がある。外でもない、それは眼である。が、眼は物体を見ることはできても、振動の媒体そのものをる力はない。で、人類は久しい間エーテルの波動の内に生活しながら、その存在に気づかなかった。これにそろそろ気づき出したのは十九世紀の初期からで、その後電気、磁気の実験を行い、これを日常の仕事に応用するに及びて、ますますエーテルを無視することが不可能になった……。』

 これ丈の抜萃では、まだもちろん不充分でありますが、しかし以上をた丈でも、近代の物質科学界において、いかに物質観の大革命が起って居るかは明瞭でありましょう。これによれば所謂いわゆる物質なるものの本質は、畢竟ひっきょうる特殊の状態において振動しつつあるエーテル以外の何物でもないことになります。おもう一つここで看過してならぬことは、エーテルの振動に一定の規則があることであります。すでにそれぞれ特殊の振動がある以上、われわれはこれに内在する心。――宇宙意思と言ったものを推定せねばなりませぬ。物質科学者達は通例これを心とは呼ばないで、法則と呼んで居りますが、それは単なる表現法の相違に過ぎません。心即法則、法則即心、両者を区別することは到底できないのであります。

 んな次第で、最近の物質科学は、一切の現象の窮極せっきょくおいてたった二つの要素、心と物(エーテル)との相対的関係を認めることになった訳であります。即ち物があれば、同時に心があり、心があれば同時に物があり、この二つは到底切り離すことができないということになり、これから奥には、ただ物心を超越した無の境涯――絶対の本体、太極、神、真如、実在を想像するより外に途がないのであります。これは正に東洋思想の粋たる易、又は日本神道の思想と一致し、同時に又近代心霊科学が最後に到達する結論と、全然一致せるものであります。最近の物質科学がここまで進んだとも知らないで、今お唯心論を唱えたり、唯物論に引っかかったりするのは、余ほど時代錯誤の感を免れないと思考されます。


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