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第十講 自動書記現象の検討

 二 ステイントン・モーゼスの自動書記

近代自動書記の産物中横綱格の『スピリット・ティチングス。』――自己の潜在意識の混入の防止に死力を尽したモーゼス。

 さてしからば近代の自動書記の産物中、どれが一番傑出してるかと申しますと、真先まっさきにかのステントン・モーゼスの手に成れる『スピリット・ティチングス』 Spirit Teachings. を推すことにつきては恐らく何人も異議を挿まないであろうと信じます。到る所に純真高潔なる宗教的感情が流露していることといい、又その措辞そじ用語がいかにも整っていて、全体にどっしりした貫禄が備わってることといい、たしかに他の追随を許さぬ所があります。モーゼスの人物性行経歴等につきては相当くわしく第二講第四章に紹介してありますからここに繰り返す必要はないでしょう。で、私は不取敢とりあえず自動書記に関するモーゼス自身の苦心談を紹介することに致しましょう。ほとんど聖者と言っても差支さしつかえなき立派な人格者の詐らざる告白でありますから、真面目な研究者に取りて無二の参考資料たるを失いません。――

(モーゼスの自動書記苦心談)――私の『スピリット・ティチングス』中に採録されてるものの大部分は所謂いわゆる『自動書記』の形式で出来上ったものである。自動書記と直接書記とは全然区別せねばならぬ。前者にありては、霊媒自身ペン又は鉛筆を握るか又はプランセットに手を載せるかするのである。そうすると何等の意識的努力なしに通信が書かれる。これに反して、後者にありては、何等霊媒自身の手を使用することなく、文字が直接紙の上に現われる現象で、時とすればペン又は鉛筆が全然使用されずに出来上る。

 さて自動書記というものは普通他界との交通法の一種で、その発信人はわれわれの所謂いわゆる霊魂と称するところのものなのである。先方でも自ら霊魂であると名告なのってる。それがはたして正当であるか否かは問題であるが、しばらくこれを霊魂と呼んで差支さしつかえなかりそうである。

 私の受けた自動書記式通信は一八七三年三月三十日から始まり、それが今日に至るまで引きつづき、前後正に十ヶ年に及んでる。実をいうと私はその以前からも霊界の居住者と交通を試みてたのであるが、ドウも自動書記の方が他の方法よりも便利であり、つ保存にも適してるので、専らそれをえらぶことにした。

 自動書記をめには、私はず一冊の手帳を買い求め、平生それを自分のポケットに収めて置くことにした。私の経験によれば霊気の浸み込んでいる帳面の方が遙かに仕事がり易い。丁度卓子テーブル浮揚現象を行うに当り、いつも用い慣れた卓子を用い、又いつも使いつけの室を使った方が、良好の成績を挙げるのと同一筆法であるらしい。

 最初自動書記で現われた文字はいかにも細かくつ不規則であった。しも私が手元を注意して居ないと、間もなく通信が支離滅裂になってしまうのであった。――が、間もなくそうした用心が不必要になって来た。文字は次第次第に小さくなり、同時に非常に規則正しく、非常に美しくなった。その一部などは正に書法のお手本として恥かしからぬものである。私は通例質問すべき事項を頁の上端に書いて置く。すると右に対する答がその下部に現われるのであるが、立派に章が分けられ、そのまま印刷に附してすこし差支さしつかえがない。神という文字などはいつも頭文字で現われ、それを書くのにも敬意をもってゆっくり書く。内容は常に高尚なものばかり、その中にかりそめにも駄洒落、冗談、野卑、不合理、誤謬ごびゅう等の分子を発見し得ない。皆ことごとく取ってもって自分自身の指導啓発に資すべきものばかりで、いかに厳密に判断してもそれが優秀高邁なる霊魂の教書たるに相違ないことが頷かれる。うした通信は連続的に一八八〇年までつづいた。

 初期の通信には『師ドクトル』 Doctor the Teacher と署名してあった。筆蹟は皆細字で美事に揃ってて、徹頭徹尾その筆法が崩れない。文体もまた同様、あくまで個性を持続してた。彼は私に取って特殊の性行を有った、立派な人格の所有者であり、日頃私が接触しつつあるいかなる人間に比べても決して劣らない、鮮明な輪廓の所有者なのであった。

 しばらくの後には、他の霊魂からの通信も開始されたが、いずれもそれぞれの文体、それぞれの筆蹟をってるもので、決してごッちゃになるようなことがない。従ってその筆蹟をただ一と目見た丈で、私にはそれが何人の通信であるということがすぐ判断することができた。

 数ある霊魂の中には直接私の手を司配しはいすることができないのもあった。それ等は皆『レクトル』と名告なのる霊魂の援助を求める。自動書記という仕事に慣れていない霊魂であると、その通信はしばしば纏まりがるく、そして私の体力を弱めることもまた一と通りでない。これに反して斯道しどうの専門霊がかかってくれれば、体力の消耗も少なく、又その文体筆蹟も流暢平易である。んな次第で、自然『レクトル』と名告なのる霊魂がいつも代理を勤めることになり、他の霊魂は、最初憑る場合とか、又は特に注意を与える場合とかに限り、自身出現して筆を動かすのであった。

 ただ此等これら一切の通信はことごとく一個の中心から出発し、決して無連絡不統一のものではないのであった。即ち『イムペレエトル』と称する霊魂がすべての元締であり、『レクトル』は単にその代理として執筆の役目を引受けてるのであった。他の一群の霊魂が単独行動を執り出したのは主に最近五年来の事に過ぎない。

 私が通信を受ける時の状況は決して一様でない。通例私はただ一人で特定の一室に籠り、そしてできる丈自分の精神を受身にする。そうした方が仕事が楽にできる。が、いつもそうした場合のみ求むることは不可能で、なり雑多な事情の下に此等これらの通信を受なければならなかった。最初は困難を感じたが、それでも次第に慣れるに連れてさほどでもなくなって来た……。

 うして現われた通信中に私自身の思想観念が混入してるか、居ないかははなはだ興味ある問題であると思う。私としては無論そんな事のないように絶大の努力を払った。最初不慣ふなれであった時代には、字くばりを見つめてる必要があったが、そうした場合にもたしかに私の思想はまじって居なかった。間もなく私の思想とは全然正反対の思想が通信に現われるようになって来た。それでも私はまだ安心ができず、自動書記をりつつある間に、全然他の問題に精神を屈托させる方法を講じ、そんな際には難解の書物をひもといて耽読たんどくするを常とした。それにも係らず通信はすこしの渋滞なしに依然進行をつづけ、往々そうした場合に却って光焔万丈、行文の妙を発揮するものがあった。

 しかしながら、私は私自身の精神が少しもこれに利用されなかったとか、又私自身の素養が少しもその文体に影響を及ぼさなかったとかと、主張するものではない。私の知れる限りにおいて、霊媒の影響はこの種の通信の上にあきらかに認められると思う。ただ私の主張するのは通信に現われた思想が全然私自身の思想と無関係であるということである。換言すれば通信に現われた主張が往々にして私の平生の持論と氷炭相容れず、加之しかのみならず、ある場合には私自身がごうも関知せざる報道などを含んでるので、私の思想とは全然別物であるというのである。

 此等これらの通信に対して私には何等の命令権がなく、普通私の求めない時にそれが現われた。発作的の衝動――それはうして来るのか判らないが、兎に角それが来た時に私はいつも席に就いて筆記の用意をした。通信が毎日日課として現われるような場合には、私は毎朝一時間づつ専用の一室に籠りて黙座祈祷した。通信はしばしばそうした際に現われたが、しかし必ずしもそうのみには限らず、意外にも他の種類の心霊現象が起ることなどもあった……。

『イムペレエトル』から通信を受取ったことは、私に取りて実に劃期かっき的の重要事であった。私はこれによりて精神的に再生したと言ってよい。その後とても私はしばしば懐疑的空想に襲わるることは免れないが、しかし昔のように絶望の淵に沈むような事はなくなった……。

 右は真剣無比の霊的体験を重ね来れる苦労人の詐らざる告白として、はなはだ貴重なる教訓を蔵してると考えられます。就中なかんずく彼が自我意識の混入を防ぐべく惨憺たる工夫を凝らした点などは、大に学ぶべき点であらねばなりませぬ。

 これから私は標本として『スピリット・ティチングス』の中の一節を抄出して翻訳を試みて見ましょう。拙き翻訳、しかもその断片丈で到底充分の面影を伝え兼ねますが、これは辛抱して戴かねばなりません、モーゼス自身の苦心談にも述べてある通り、すべて彼の発した問に対して霊界からその答が出る仕掛で、これは同書の全体を通じて一貫してります。


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