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第一講 肉体と霊魂

 附録 人体は幽霊の宿

本篇は『評論之評論』主筆故ウイリアム・テイ・ステッドの著『まことの幽霊譚』から抄訳せるもので肉体と霊魂との関係を判り易く、面白く描いてあります。たしかに読んで損なものでないと思います。

 あなた方は一度も御覧になられたことがないかも知れません。が、それだから幽霊は無いという結論には少しもなりません。数ある人間の中で人間を害傷いためるところの微生物を目撃したものが幾人あるでしょう? 微生物を実験するものは動植物学者であります。幽霊を実験するものは心霊学者であります。動植物学者と心霊研究者とはどちらが多数か? 事によると後者の数の方が多いかもしれません。で、兎に角、幽霊も微生物も、どちらも目撃したことのない一般人士としては他人の証明にたよるほか仕方がありません。学問の研究においては、すべてが正確なる証明の有無の問題であって、個々の体験の有無の問題ではないのです。

 イギリス、フランス、その他の国々の催眠心理学者ならびに心霊学者達の説によれば、いかなる人間でも自身の内部に一個又は数個の幽霊を宿して居ないものはない、というのでありますが、こいつは実に聞き棄てならぬ天下の大問題だと考えます。一つや二つの幽霊が何所どこかへニョロニョロあらわるといったような、キマグレ問題とは訳が違って、こいつはわれわれ人間全体の身の上に係る問題なのですから大変であります。彼等は説きます。――人間には、肉体並にこれに附属する意識的人格の外に霊魂と称する無意識的人格があってこれと同居してる‥‥‥。随分迷信臭い囈語うわごとのように聞えますが、これが最近の、もっとも進化した科学者達の主張だというのですから誰だって一旦は驚きつ呆れます。

 平生われわれは一向澄ました顔をして『私』という言葉を用います。が、一体私とはそも何者でしょう? 五感を通じて外界の印象を受けるるところの、われわれ平生の意識的人格のみが肉体唯一の居住者なのでしょうか? それとも他に一つしくは多数の人格――つまりわれわれが覚めて活動してる間は黙っていても、ねむった時、しくは催眠式の恍惚状態に入った時に、半意識的又は完全な意識的活動を起し兼ねない、他の独立せる人格が同居しては居ないであろうか? これを一言にして尽せば『私』というものはただ一つの人格か? それとも二つか? 丁度人間に随意筋と不随意筋とがあるように、自分の内部には二つの精神又は性質が具わってるのではあるまいか?

 生れて初めてこの問題に逢着したものは、余ほどの気まぐれ式奇問のようにこれを考えるでありましょうが、不思議な、しかし疑う余地のない諸種の催眠現象に接した人達は、右の疑問を至極もっともなものと思考さるるに相違ありません。死と罪とがつきものの人の肉体と、きよき、尊き希望に燃ゆる人の霊魂との間に行わるる不断の争闘の物語は古来神学者の好んで取扱った題材ですが、心霊研究者が探り得たところは更に一歩も二歩も深刻なもので、すべての人の体内にはすくなくとも二つの独立した人格が宿っている。そして両者の関係は東洋流の男尊女卑式夫婦生活に酷似してるというのであります。

 何誰どなたでも恐らく記憶喪失の場合を経験せぬものはありますまい。人間は疾病、暴行、又は激情等のめにしばしば正気を失い、やがてそれから回復した時にはわれわれの記憶に空隙くうげきを生じます。イヤわれわれは毎夜睡眠中にも意識を失い、睡ってる間に考えたことは覚めてからほとんど記憶してりません。ただ極めて稀に、睡眠中の出来事をはっきり記憶している例外の人も無いではありません。中には前夜夢のつづきを翌晩に持ち越す人さえあります。しかし、んなのはうたがいもなく極端な例外で、夢を見る方の心と覚めて居る方の心との間には通例連絡がうまく取れて居りません

 故マイヤーズ氏はその大著『人格論ヒューマン・パーソナリティ』の中に二重人格しくは多数人格現象につきて精緻な研究を発表してります。真面目な研究者は是非それを精読さるることを望みますが、私は成るべくそれを平たく砕いて、両者の関係は何よりも一ばんよく夫婦同棲のそれに似てると主張するものであります。即ちわれわれの意識的人格は良人の役割を演じ、元気で、活発で、積極的で、一切の交通機関、生産機関を独占します。その意識観念たるや実に強烈をきわめ、自分の宿の妻たる無意識的人格を単なる自己の附属物、せいぜい重宝な自己の日用品位にしか考えません。これに引きかえて、奥に控えている無意識的人格はあたかも従順な家婦の如く、箪笥と行李の番をしたり、意識的人格から送りまるる無数の印象を保管したりすることに満足し、主人公がねむるか恍惚状態に入るかせねば、ゆめにも五感や手足を使おうとはしません。又意識的人格が、ある習慣又は能力を獲得した時にこれを保管するのも同じく無意識的人格の任務で、そうなると意識的人格の方では安心して一切を任せ切りにしてしまいます。――が、婦人の権利がすッかり蹂躙じゅうりんされてる場合に相当その抜道があると同じく、無意識的人格は結構普通の感覚器官に依らずして、秘密に他と交通する適当の手段方法を講ずることを忘れません。

 無意識的人格の有する秘密の器官がどの点まで偉大有力であるかははッきりとは判りません。兎に角神の啓示などが人間界に達するのは常にこの秘密の機関によるので、更にかの神秘家の観る幻像ヴィジョン、かの聖者の説く予言、かの巫女のつ霊感――それ等のものは皆この器官を通して来ます。われわれが行うところの思想伝達現象などもつまりはこの抑圧されたる宿の妻のこッそり行う隠し芸に過ぎません。実にこの無意識人格こそは大洋の真中で坐礁せる難破船の所在をつきとめ、千里の外の職場でもよおさるるところの密議をぎつけ、又世界の末端に起るところの悲劇の実況を手に取る如く目撃するところの当面の役者であります。

 かの物質主義が勢力を張る時代というのは、つまりは活動的で積極的な意識的人格がこの従順なる無意識人格を抑圧し、その結果万有の底にひそめる神性に対して盲目なる時代に外ならない。ですからいずれの宗教においても先ず第一着手段として、かの大威張りで五感を独占し、無声の忠言に耳を貸すことを知らざる肉体の暴ばれ亭主を抑圧して、貞淑なる糟糠の妻を神の御前に引き出すことを講ずるのであります。静坐、瞑想、祈祷、断食――これ等はインドの瑜珈ヨガ僧でも、トラピストの修道僧でも、クェーカー教徒でもようやく愛用するところのもので、つまりは受身の沈黙状態において高所より下るところのインスピレーションを静かに待つ準備にほかなりません。意識的人格は現象の世界を横領しました。しかし眼に見えざる無限の世界は実に無意識的人格の勢力範園であります。現世の生命を棄ててこそ永遠の生命は初めて得らるるのであります。

 両者の夫婦関係はこれを押しすすめて考えれば考えるほどますます痛切味を加えます。意識的人格が蓄えたいろいろの記憶、さまざまの印象は、ややもすれば必要の場合に容易に出て来ぬことがあります。丁度われわれが手帳の置場を忘れてしまッたようなものであります。が、やがて夜の幕が下ります。するとわれわれの意識的人格は眠りにつき、これに代りてわれわれの無意識の世話女房が眼を覚まし、貯蔵品の中を捜しまわして、とうとう見失った記憶の手帳を引き出し、それを目覚めた良人の手に渡します。

 お日頃良人の陰に隠るるこの世話女房は、時とすれば良人の睡眠中の隙をうかがってからだや手足を使うことがあります。夢遊病者などというのがそれであります。が、彼女が横暴なる良人の手から理想的に解放さるるのは催眠式の恍惚状態に入った時で、その時こそはわが者顔にからだ全体をこき使いますが、しかし御殿の奥から遁れ出でたる上臈じょうろうが、やがて又山賊などの手籠にされるようなもので彼女は間もなく他の横暴な不躾者の捕虜になります。即ち自分自身の意識的人格が以前の彼女の牛耳を取ッたように、今度は他人の意識的人格が彼女の牛耳を取るのであります。

 く述べたところで、むろん此等これら二つの人格の間には普通の意味の性的関係が存在する訳ではありません。が、催眠術者の意識が被催眠者の潜在意識と結合する状態は、いかにも姦夫姦婦の道ならぬ性的関係に酷似してるではありませんか! うなっては無意識的人格は最早もはや自分の本来の良人の命令ばかりはきかず、あだし男の意識的人格の奴隷となって甘んずるかたむきがあります。そして本来の良人と、無理に闖入ちんにゅうした間男との間には、しばしば猛烈なる暗闘が行われます。

 人間の意識的人格と無意識的人格、換言すれば人間意識と霊魂意識との間にいかに顕著なる性質の相違があるかは、フランスのジュール・ジアネーが試みたるぎの単純な実験の記録を見てもその一端をうかがわれます。――

(片脚の疲れた患者)――私はある時片脚の痺れている一人の患者を催眠状態に導いてく命じました。――『私の問に対してしかりと答える時には指を挙げ、否と答える時には指を降せ。』やがて私は患者を催眠から解き、痺れている脚を数ヶ所針で突いて痛いか痛くないかを訊ねました。すると彼の覚めてる意識的人格は口で『否』と答えましたが、催眠状態において懇意になった彼の無意識的人格は指を挙げて『しかり』と答えました。しかも痺れた脚が針で突かれた回数まで正しく指示したのであります……。


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