心霊図書館 > 「心霊講座」 > 第一講 肉体と霊魂

第一講 肉体と霊魂

 五 生理解剖学と霊魂説

精神の働きはあきらかに脳にのみ限られて居ない。――音楽、計数等の能力は教養によりて発達せしむることもできるが、しかし本来先天的のものである。

『生きてる人間の肉体にはかならず霊魂が宿ってる。』ということは、主として催眠術の実施に伴いて起るところの諸現象、就中なかんずく、思想伝達能力、並に優れたる記憶能力等の諸現象を仔細に調査研究せる結果、最後に帰納的に築き上げたる学術的仮説でありまして、何人が何と言おうが容易に崩壊する気づかいはありませんが、しかし仮説は要するに仮説であります。しも他の方面においてこの仮説と正面衝突をやるところの、たった一個の反対事実でも儼存げんぞんするなら、当然学界に向ってこんな仮説を提唱することを差控えねばなりませぬ。かつてニュートンが初めて引力説を発見した時、月と地球との関係において引力説が当てはまらないのではないかという懸念がありました。所が段々しらべて見ると、それが当時採用されてた緯度の計算法の誤謬ごびゅうに基因せることが発見せられ、それで彼の胸中の最後の疑団が一掃せられ、初めて安心して引力説を世界の学界に発表したということであります。これなどはすべての学者の学ぶべき態度であると思います。

 霊魂説と他の諸方面の学問との関係は兎に角として、霊魂説と生理解剖学との関係だけはすくなくとも一応攻究して置く必要がありましょう。両者がピタリと一致しないまでも、すくなくとも両者の間に黒白相反する個所のないことが証明されねば、霊魂説の提唱は考えものであると謂わねばなりません。

 問題の焦点はずわれわれの精神作用の全部が脳の所産であるか? それとも又脳と関係なしに何等かの働きを発揮し得るものか?――の穿鑿せんさくであらねばならぬと考えます。何となれば一切の精神作用が脳ヌキで到底成立し得ないことが学術的に証明さるれば、人体に霊魂が宿っているという主張ははなはだ不透明なものとならざるを得ませんが、これに反して、しも精神作用のある一部分でもが、脳を通過することなしに成立することが判明すれば、よしそれで直ちに霊魂説の肯定とまでは行かなくとも、すくなくとも唯物説の堅城は見事にその一角を切り崩された形になるからであります。

 ところがこの問題は余り深く穿鑿せんさくしなくても、すでに進歩せる医家の間に立派に決定してる事柄であるのは、われわれ医学の門外漢に取りて至極僥倖と謂わねばなりません。試みに近代医学の泰斗たいとハムモンド博士の発表せる『本能の所在地』と題せる論文の中からその要点を抜萃ばっすいすることに致します。――

(本能の所在地)――人間の脳は他のいかなる動物のそれよりも遥かに発達してるが、ただ人間は本能的の仕事にかけて、ほとんど他のいかなる動物よりも劣っている。

 しも人間の本能が脳の中に存在するなら、うたがいもなく人間は本能の方面においても他動物に比して優秀であるべきである。人間の本能の所在地をしらべる事はしばらく後廻あとまわしにして、試みに下等動物の二三を捕えてしらべて見ると、実験上本能の所在地が正確につきとめられるのである。

本能は必ずしも脳の内部には存在しない。――多くの動物、就中なかんずく爬虫はちゅう動物に属するものの脳を除去してもさしたる不便を彼等に与えないことは周知の事実である。ベロール氏の述ぶる所によれば、脳髄を除去された蝮蛇マムシが少しもあやまたずに、自分の棲みなれた壁孔に戻ったということである。脳髄を失った蝮蛇マムシが物を見ることも、聞くとこも、嗅ぐことも、味うことも、又触知することもきないことは明瞭である。して見ると右の蝮蛇マムシは脳の内部に宿って居ない、ある他の力で、本能的に行動したに相違ない。

 ある種の動物にありては、水中に置かるればすぐに泳ぎ出す本能をってる。私はかつて蛙の脳を除去し、数分時間手術の衝動から回復するのを待った上で水桶の中に放して見た。すると脳の無い蛙が早速泳ぎ出したには驚いた。試みに手を蛙の泳ぎ行く前方に置いて、その進行を妨げてやると、蛙は数秒間前進をつづけようともがいた後で、やがて中止した。手を除けると又泳ぎ出した。

 私はその後諸種の亀及び水蛇をとらえて幾度も同様の実験を行った。私はいつも脳髄全部を除去したのであるが、彼等は決して目標なしにグルグル廻りをやるようなことはなく、河流又は池沼等を指して一直線に進む様子は、ドー見ても逃走の目的で行動してるものとしか思われない。

 この種の実験はあきらかに知覚並に意志が全部脳の内部に存在するものでなく、従って本能と脳との間にかならずしも不離の関係が存在せぬことを証明するものである。

 勿論むろん高等動物を捕えて爬虫類において挙げられるような明確な結果を挙げる訳には行かないがしかし鳩位の動物でも、脳を除いて空中に投げ上げると矢張りバタバタ飛ぼうとするところを見れば、その本能の所在地が脳には無いことが判る。して見ると精神の働きというものはあきらかに脳にのみ限られるものではないと謂わねばならぬ。

 脳の無い奇形児をしらべて見ても、彼等が立派な本能の所有者であることを例示する場合が沢山ある。シム氏は六ヶ月生存した一畸形児につきて報告してる。この小児は非常に微弱であるが、結構乳を吸う能力を具え、その眼はあきらかに光線を感ずるらしく、夜間灯火が消えると泣き出すのであった。死後これを解剖に附して見ると、大脳は全然無く、その代りにある分量の漿液が脳蜘蛛くも膜に含まれてた。小脳並に巴魯里ハーロリトス橋(脳神経繊維の束)は存在してた。オリヴィエ・ダンジェル氏は二十四時間生存した一女児につきて報告してる。それは泣きもすれば又よく乳も吸った。解剖の結果脳は全然無かったが、脊髄や延髄は充分の発達を遂げてた。

 サヴィアルド氏は大脳も小脳も、其他そのほか頭蓋骨内の神経節も少しもっていない一畸形児の例を挙げている。脊髄は赤色の小腫物状を呈して治まってたそうである。それでありながら右の畸形児は眼を開閉したり、泣いたり、乳を吸ったりした。肉汁までも啜ったそうである。寿命は四日間で終った。運動の一部分は反射的であったが、しかし他は立派に本能的で、生の保存に適応してた。

 デュボア氏は大脳、小脳並に延髄までもないくせに十一時間生存した一畸形児のことを報告してる。右の畸形児は泣くこと、呼吸すること、手足を動かすこと等は知ってたが、乳を吸うことは知らなかった。その運動の何の点まで本能的で、何の点までが反射的であるかは不明であった。以上の諸実例によりて本能が脳の中に存在せぬことは疑惑の余地がなくなった。本能は恐らく延髄もしくは脊髄、又は此等これら両器官の中にその中枢を置いてるに相違あるまい。私の取扱った一低能婦人の如きも常にボロ布を両手にかかえてそれを赤児のように可愛がった。けだしその母性本能が知識と全然無関係に発達してたのであろう。又ある低能者は音楽的天才を有し、他のあるものは計算の能力をっていた。此等これらの能力は他の本能と同じく教養によって発達せしむることもできるが、しかし本来先天的のものである。

 此等これらの事実、その他多数の実例から綜合して、私はぎの結論を下すに躊躇ちゅうちょせぬものである。曰く本能は断じて脳の働きに属するものでないと。

 これは単なるハムモンド博士の一家言ではなく、同博士は現代において最も進歩せる医学者の意見を代表的に述べてるに過ぎません。して見ると一部の論者の如く、すべての精神現象を安価な唯物的一元論で処理しようとするのははなはだ無辺な仕事のように考えられます。『精神の働きというものはあきらかに脳にのみ限られてるものではない。』『ある低能者は音楽的天才を有し、他のあるものは計算の能力をっている。此等これらの能力は他の本能と同じく教養によりて発達せしむることもできるが、しかし本来先天的のものである。』――第一流の生理解剖学者たるハムモンド博士がんなことをいうのですから、その及ぼす影響はなかなか甚大であります。これはある種の高等智能が先天的に人に備わってることを論破したもの、換言すれば通常意識(人間意識)が禁制された時に独立して活動をつづくる所の別個の精神、詰まり霊魂意識が人間に備わることを説破したものであります。その所在地がはたして延髄に在るか、それとも又脊髄に在るか等の問題の如きは現在の吾等として強いて穿鑿せんさくの必要はないと考えられます。

 お右の事実からは当然一の重要なる推定が下されると考えられます。即ち人間に取りて何より大切な脳髄を運用機関としないところの能力は何所かに自己本来の働きを充分に発揮すべき適当の場所があるに相違ないということですしもそれが現世において見出し難いとすれば、別の規則に支配される、何所かの別世界、例えば霊界と言った所にそれを見出すに相違ない。おその最高能力が脳の働きの禁止された場合に発揮されるという事実は、つまり肉体が却ってその能力を制限しつつあることを物語るものではあるまいか? 故にしそれが肉の桎梏しっこくから解放された時には真理を直覚し、機微を洞察する力量は恐らく偉大優秀なものがあるに相違ない。むろん私はこの能力を全知全能、時空一切を超越した摩訶不思議なものとは考えません。そんな考はインド思想にかぶれ唯我独尊的自己暗示の捕虜となってる夢幻者流の築きあぐる、はかなき泡沫であると信じます。単なる『死』の関門をもって、直ちに有限から無限に入る境界と考える思想は、学校さえ出れば直ちに致富成功の域に入ったも同様と速断する浅墓千万な思想とよく似てります。そこには進歩もなく希望もなく、万有進化の大法則を無視して、結局人類の福祉を阻害する点において、かの俗悪にして矛盾にとめる唯物思想と相去ること遠からざるものがあります。われわれの実践的理性は何所までも死後の霊魂が、依然として有限であり、同時に有意識であり、階段的に進化の道程を辿りつづくることを要求しますが、それがはたして心霊学上の実験実証と一致するか否かは、本講において追々探窮たんきゅうの歩を進めて行きたいと考えるところであります。が、兎に角若しもわれわれの死後別個の意識的存在がつづくものとすれば、その時は智的にも、道徳的にも、肉体という大々的我侭わがまま者、厄介者を背負って走らねばならぬ現世の人間生活よりも、ほとんど比較にならぬほど都合がよいことを推断するに難くはないと存じます。

 以上本章において述べた所を翫味がんみすると霊魂説は生理解剖学によりてもほぼ裏書せられたに近いと思考してよろしいようであります。


戻る

目 次

次へ


心霊図書館 管理人