第六感と精神統一法

(四) 人間の環境と人間の隣人

 すでに人間が物質的肉体以外に各種のエーテル体を有し、そして人間が現世的慾望以外に各種の高級意識を運用する所の生物である以上、この人間の勢力範囲が単に物質界に限られてる筈はないのであります。要するに人間が働くべきさまざまの環境があるから、これに適当なるさまざまの機関が人間に備わっている訳で、すべては振動の原理で説明ができます。

 果せるかな近代物質科学はいち早くエーテル界の存在を認め、エーテルが物質の内面及び空間全体に遍満へんまんしている事を説てります。しかし物質学者の説く所は今の所ではお概念的で、不可知の世界を単に概括的にエーテル界と呼ぶ丈で、エーテルに階段があるか、無いか、又エーテルの世界に居住者がいるか、いないか、等の諸問題にはほとんど少しも手をつけてりません。之は現在の物理、化学、機械学等の力が足りないせいで、丁度昔の人間が諸外国をひっくるめて、一山百文式に唐とか、天竺とか唱えていたに酷似してります。この大いなる欠陥を学術的に補充せんと大胆にも喰ってかかったのが、取りも直さず最新科学中の最新科学たる心霊科学であります。保守的の連中からかれこれと、難癖をつけられる筈で、昔ならてっきり手錠位はめられるところでしょう。

 しからば心霊科学はいかなる道具を使ってこの難問題の解決に当っているかというと、それは前にも申したとおり霊媒と称する活きた人間の道具を使っているのです。これは生き物だけにすこぶる厄介な道具で、へたに使えば手を噛まれますが、しかしその優れたのに当るとまことに鋭利雋敏しゅんびん所謂いわゆる無声にきき、無形に視ると言った慨があります。現在のところ超物質的エーテル界を探るのには、この道具以外には絶無であります。

 従来はまだ心霊科学の基礎工事時代に属し、従ってもちろん研究の余地は無限に存在しますが、しかし人間が交渉を有する各種の世界、又それ等の世界の居住者等にきてはすでに大体の見当がつき、世界の心霊学者の間にはほぼ一致点が見出されているのであります。私は今ここであらゆる種類の霊界通信の比較研究を行ったり、各種の報告を紹介したり、している余裕がないので、止むことを得ず、結論のみを左に申上げて置くことにします。

 われわれ人間が日夕交渉を有する世界は大要左の通りでございます。

 (一) 第一は現界で、これは言うまでもなくわれわれの五感をもって接触する物質界である。

 (二) 第二は幽界(第一エーテル界)で、これは肉体並に慾望から離脱し、専ら純情で生きる死の直後の世界である。

 (三) 第三は霊界(第二エーテル界)で、これは更に進んで感情からも解脱した純理の世界である。

 (四)第四は神界(第三エーテル界)で、これは一切の不自由、一切の束縛から解放された叡智、直覚の浄瑠璃の世界であります。

 (五) 以上の四大界は勿論むろん地球の所属である。(地球以外の他の諸天体にもそれぞれ付属の世界があるであろうが、当分人間の力はそこまで届かない。)

 (六) これらの四大界は互に滲透的に重なり合っている。即ち現界の内面に幽界があり、幽界の内面に霊界、霊界の内面に神界があり、すべてが一の連動装置を為している。

 (七) 人間は生時においても、此等これらの四大界と密接な関係を有し、死んでから初めて幽界その他に接触するのではない。即ち人間はその肉体をもって現界に通じ、その幽体をもって幽界、更に又その霊体、本体等を以って霊界、神界等に通ずる可能性を有っている。

 (八) 幽界以上は感官的には不可視、不可量的の世界であるから、地上の人類は適当なる調節法――精神統一を修することによってのみこれ等と完全に交通ができる。

 以上はほんの大要を掻いつまんだものでありますが、われわれ人間が取引すべき世界のいかに奥が深いものであるかは、これでほぼ正しき見当がついたことと存じます。ちょっとした座禅や静座を行った位で、すぐに悟ったような顔をするほど浅墓な自己陶酔はありません。かの『評論之評論』の創立者であり、主筆であったステッドは生前から熱心な心霊学徒として有名でしたが、死後ドウソン・スコット夫人を通じてんな通信を寄越してります。――

『人間の地上生活は言わば一つの駅場、われわれの進化の最初の駅場に過ぎない。現在の私の幽界生活は第二の駅場である。われ等はまだ不完全である。われ等はまだ希望慾念を脱却し得ない。われ等は依然として神に遠い。要するに宇宙は私の想像していたより遥かに広大無辺であり、その秩序整然たる万象の進展は真に驚歎に値するものがある……。』

 これなどは正直な人間の告白であると信じます。

 ぎに私は人間と交渉を有する超物質的エーテル界の居住者につきて、近代心霊科学が突きとめ得た点をできる丈簡明に申上げます。現代人の大多数は言わば一の精神的鎖国主義者とでもいうべきもので、中で一番気のきいたところで辛うじて理想体としての宇宙神を認むる程度であります。それではまだダメです。そんな程度ではややもすれば、『神は内に在る』だの、『吾は神なり』だの、『大悟徹底』だのと言いたがって仕方がない。うした時に当りて近代心霊科学が霊媒という生きた道具に着眼し、その道具を徹底的に精練することによって、所期の研究をすすめたのは全く破天荒の仕事でした。御蔭様で今日は、まだもちろん充分とも行かないが、どうやら他界の住人の真相が判って来ました。大別すれば、他界の居住者はこれを左の二種類に別けることができます。即ち――

 (一) 帰幽霊

 (二) 自然霊

であります。『帰幽霊』と申すのは、かつて肉体を持って地上生活を送った者が、やがて右の肉体をすてて『死』の関門を通過した連中であります。孔子は、吾未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん、と言ったが、今日ではもうすこし判ってります。『死とは本人の自我意識が物質的肉体を離れて超物質的エーテル体に移動する現象である。』――私どもはそう定義を下すのであります。

 無論帰幽霊というのは非常に広義のもので、独り人霊のみならず、動物霊その他一切を含んでいますから、その員数並に種類はよほど沢山、とても現在ではまだ幽界以上の国勢調査はできてりません。われわれ地上生活者としては人間生活と比較的密接の関係ある帰幽霊の調査で満足せねばなりません。

 心霊実験の結果からいうと、われわれ人間の生活と不離の関係を有する帰幽霊としては第一に

  各自の祖先霊

を挙げねばなりません。近きは各自の近親、遠きは十代二十代以前の先祖の霊魂で、要するに情念のつながりがある限り、彼我の連絡は容易に断絶するものではありません。此等これらの祖霊中には現世的の執着のめに未だに浮べないもの、所謂いわゆる地縛の霊として苦悩しているのもあり、それ等はその子孫に感応憑依しますから棄て置くことはできません。何とかしてこれを解除することが自他の幸福であります。

 第二に挙げねばならぬのは、

  各自の守護霊又は司配霊

であります。ごく広義にいえば、これ等もつまり遠い祖霊で、沢山の中から特に選ばれて各自の人格の指導に当る人霊です。実験の結果からいえば普通二三百年乃至五六百年前の人霊が多い。

 第三に挙ぐべきは、

  各種の動物霊

であります。種順からいえば狐、狸、蛇其他そのほかさまざまで、しばしば人体に感応し、あるいは人間を利し、あるいは人間を害します。概してかのインチキ宗教団体等で行わるる無批判的神懸現象は、その裏面を調べると、これ等の動物霊の憑依が最も多い。又各種の疾病災厄の少なからざる部分も此等これらの動物霊の裏面の策動に基因するから油断がならない。

 ぎに『自然霊』につきて述べますが、これは最初から超現象世界に生き通しの霊、換言すればただの一度も肉体に包まれて、物質界に降った閲歴えつれきのない、他界の居住者であります。従ってこれをつきとめる事は、帰幽霊に比して一層困難であり、ごく最近までは人間の頭脳に描かれた一つの仮相、幻影位に考えられる傾向がありました。天神、地祇、天使、如来、菩薩、龍神、仙人、天狗、妖魅、悪魔、鬼神……誰だってそんなものは単に宗教畑又詩歌伝説畑のもの位に考えて、腹の底に七分の疑惑を残してりました。

 ところが近代心霊科学の精鋭の武器を提げて綿密に調査をすすめて見ると、それ等が立派な科学的存在であり、しかもわれわれ地上の人類と密接不離の交渉を有っているものであることが立証されて来たのであります。人間も全く意外な取引先を有ってた訳で、これまでのようにウロウロ地球の表面にのみ眼をくばっていては追付かないことになってしまいました。

 各種の自然霊の中で何が真先まっさきに心霊家の調査網に掛ったかというに、それは

  妖精

であります。何にしろ今日では妖精の写真がドシドシ撮れ出したのだから、こればかりはいかなる懐疑論者でも歯ぶしが立ちません。

 事の起りは今から約十八年前、くわしくいえば一九一七年七月のある快晴の夏のこと、英国ヨークシヤーの田舎のさる電気屋さんの二少女(エルシイとフランシス)が初めて妖精の撮影に成功したのでした。心霊家のガーネット氏が、わざわざヨークシャーまで出張しての実験記事を紹介しましょう。――

『エルシイの父親のライト君は、こんな問題には全然無関心の電気屋さんである。で、少女達から、日頃懇意にしている妖精達の写真を撮りたいから、写真器械を貸してくれと請求された時に、最初は一笑に附していたが、再三の懇望もだし難く、とうとう自家用のカメラに一枚の種板を入れて貸してやったのである。そうして出来上ったものが四人の妖精の踊っている写真である。その時の撮影者はエルシイで、距離は約四尺位であったという。父親が現像にかかった時にエルシイは待ち切れないで、暗室に入り、妖精の姿が乾板上に出現したのを見ると、雀躍すずめおどりしてよろこび、出た出た! 妖精が乾板に写っている! と室外に待っているフランシスに呼びかけた……。』

 右の写真の外二少女によりて写された妖精達の鮮明な写真は何枚もあります。妖精の種類は実に多く、輪を造って遊戯に耽る、美しい花の精、美しい髪を指先きで弄ぶ、全裸体の水の精、肉襦袢のようなものを着ているグロテスクな木の精……とても一々御紹介はできません。

 日本にも妖精を目撃する霊視能力者は沢山り、彼等の性質、気分等もる程度判って来ました。人間も飛んだ可愛らしい隣人を有っているではありませんか!

 が、東洋方面では、この妖精よりもむし

  天狗並に仙人

に関する研究がる程度試みられ、現に平田篤胤の『寅吉物語』、柳田泰治の『才一郎物語』等があります。私も霊媒を用いて此等これらの不思議な存在をいろいろ調べて見た結果、今日ではその正体がよほど確実に握られました。その大要をつまむと大体うです。――

『天狗並に仙人は自然霊の一種で、決して変り種の人間ではない。彼等はる特殊な能力の所有者であるが、人間の如く智情意の円満なる発達を遂げていない。彼等は概して気まぐれで持続性にとぼしく、又概して責任感に欠けるが、しかし人間をあっとびっくりさせるような奇抜な仕事には妙を得ている。彼等は昔の英雄、傑士又は神仏の名称を詐称したがり、又しばしばそれ等の姿に変化るが、しかし彼等の本来の姿は人間よりもむしろ鳥獣に類し、全身毛だらけなのが多い。彼等の中の高級なものは充分の修行を積み、神仏の使徒として大に人間の為に尽してくれるが、彼等の中の下級低劣なものは矢鱈に人間に感応してイタズラを行り兼ねない……。』

 ざっとんな所でほぼ御推察を願いたい。

 ぎに人間として特筆大書せねばならないのは、

  龍神

であります。何となれば龍神こそはわれわれの『自我の本体』、換言すればわれわれ人類の遠祖と思考せらるるからであります。

 私は今ここで龍神にきて詳説していとまがありません。止むなく私は東西の霊界通信の指示と霊視能力者の調査とに基きてその要点を略述します。

『龍神の固有の姿は所謂いわゆるかの威容の結晶ともいうべき恐ろしい龍体である。下級のものは黒色であるが浄化するに連れて蒼灰色となり、最後に白色となる。男性には角があるが、女性には角がない。が、龍神は普通は理想化した神姿をもって現われ、めったにその本来の龍姿を人間には示さない。これがめに人間界では多年にわたりて思想の混線を来してた。神、天人、天女、天使、如来、菩薩、神仙、権現……いずれも皆龍神とは別個の存在らしいが実は同一である。龍神は発達の程度に応じて幽界、霊界、神界の各界に実在し、而も今もおその数が殖えつつある。地球がお未だ人類の発生に適しなかった数百万年前の大古にあっては、龍神がこの世界の代表的存在であったが、やがてる時期をもって龍神はその分霊を派出して、自己の地上の代表者たる人類を創造した。日本の古諺の所謂いわゆる『人は祖に基き、祖は神に基く』というのはこの事実を指したものらしい。心霊科学的に右の手続きを表現すれば、龍神によりて行われた意念の物質化現象と称すべきものであろう。従って地上の人類は飽まで龍神界の統制下にあり、常に不可抗の天然力的威力をもってその意志の通りに動かされる。個人には個人の守護の龍神(自我の本体)があり、民族には民族の守護の龍神があり、地球には地球の守護の龍神があり、太陽系には太陽系の守護の龍神がある。この太陽神が地上の人類にとりて取りも直さず事実上の宇宙神である……。』

 乱暴でお粗末な叙述ではあるが、注意してお読みくださらば私の趣旨の存するところは大体お掴みになれるでしょう。これは主観の遊戯でも何でもなく、精神統一の実修によって第六感的の高級能力が発露するようになれば、何人も直面しなければならぬ問題ですから、何卒鼻の先であしらわないで下さい。くれぐれも断って置くが、右は決して私一個の私見ではなく、東西の研究の結果を綜合して出来上ったものであるから容易に動きません。私はこれが遠からずして一般の常識となる日が、そう遠くはあるまいと信じてるものであります。


(三) 心霊から観たる人間

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(五) 精神統一の
準備的工作


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