心霊図書館 >> 心霊文庫第18篇

諸名家の心霊観(上)

生命と物質

サー・オリバー・ロッジ

(Sir Oliver Lodge)

――一九三一年十月三十日ロンドン同人倶楽部にて講演――


 われわれ人類は、複雑微妙を極めたる、宇宙の内部において、一の物質的肉体と結合して、存在して居るものであります。で、最初ずわれわれの視聴を占領するものは、物質的存在で、それ等はことごとく動いて居り、変化と発達の連続、所謂いわゆる進化の道程を辿りつつあることを感知します。此等これらの物質的存在こそは、われわれの感官に印象を与え、われわれが直接に観測し得る、天地間唯一の存在であります。が、われわれは直接の領会りょうかいたないが、それが物体に与える影響を観て、間接にその存在を推定し得る、超物質的存在が、宇宙に沢山あることを知って居ります。で、最近に至りて、われわれはだんだんう考えるようになりました――直接五感に訴える物質よりも、遥かに沢山の、そして遥かに重要なる、超物質的存在が宇宙間にはあるらしいと。それ等が人間の五感に訴えない理由は、それ等が物質と結合していないからであります。それ等の或物あるものは、物理の世界に属するかも知れないが、しかし物質の世界には属していない。近頃科学界の傾向は、次第次第に抽象体の本質の研究に向いつつあります。例えば時間と空間、エーテルと波、運動量、エネルギーの類、更に進んでは、一見物質と縁のなかりそうな弾性、電磁フィールド、歪み、凝集性、引力、移動力などというものであります。此等これらいずれをも、われわれは充分に理解し得ない。われわれはただ此等これらが、われわれの周囲に働いていることを知る丈である。それ等が進化の法則に従うか否かは、全然不明であるが、ただそれ等の行動から察すれば、物質の世界を率いて、着々として生長発達を遂げしむべく働いているように考えられるのであります。これは間接の結果を研究し、記録する事によりて、ドウあってもそう考えざるを得ないのであります。そう言った理論の開拓は、数学、物理学者に取りて絶好の壇場だんじょうで、彼等はほとんど超人間的の能力を発揮して、それ等の法則や過程をしらべ、驚くべき巧妙さをもって、すべてを数学の式に変え、これに拠りて、必然的に発生すべき結果を求め出すのであります。

 うした筆法をもって研究の結果、彼等のある者は、

 空間と時間とが決して別々の存在でない

という確信に達しました。すなわち時間空間は、る一つの物をば、ただ人間が二つの部分に分割して取扱っているまでであるというので、彼等はその根元の一つの物を『時・空』と呼んだり、『エーテル』と呼んだりしてる。そしてそのエーテルは、その中に撒布されている物質的存在――これを小にすれば原子、これを大にすれば分子の集合体である所の日月、星辰、星雲等、――よりも、遥かに重要なものだと考えている。

 由来る物体の研究に全力を集中する人達は、その物体に対して無限の興味を催し、物質こそ存在のすべてであると推定するようになり勝ちであります。例えば人体を研究する人が、比々ひひとしてその傾向を辿り、近頃の用語でいえば、いわゆる形態論者ビヘービオリストになるの類であります。此等これらの論者は、人間一切の行動を、外界の刺戟による反射運動に帰せんとしますが、仕合しあわせなことに、全部の医学者が、これに賛成するに至りません。そのうちに時が来れば、現在よりも真理の一層優れた表現形式に到達することにもなるでしょう。

 兎も角も現在として、われわれはそれぞれの専門学者の大部分が、一致したところの結論を利用することにすれば良い。例えば天体の組織、及び進化の問題であるが、専門家のすべてが、枝葉の点において、多少の相違点を有するにしても、次のような諸点は、ず定説と観て良い。すなわち宇宙の内部が、今猶いまなお進化の道程に在ること、多くの太陽が今猶いまなお構成の途中に在ること、人間の発見にかかる、かの旋転まざる大銀河は、途方途轍もなく巨大なる星の集団であるが、しかしそれは物質的大宇宙の、ほんの一小部分を占むるに過ぎないこと、等であります。

 われわれの五感なるものは、ドウいう理由があってか、物質以外の何物をもわれわれに教えない。われわれには電気も磁気も、又光線さえも判らない。ただそれ等が物質の上に働きかける結果を、間接に知り得るに過ぎない。われわれの眼は、光そのものを見る力すらたない。ただ光によりて照らさるる物体を観得みえるだけである。すなわちわれわれのるのは、太陽の光の中に踊る塵芥などで塵芥がなければ、モウ盲人と同様なのである。電流、磁野いずれもその選に漏れない。単に物質の行為を観て、いろいろ測定を下す丈のものである。電流計の針の動きを、電流そのものだと思ってはならない。それはただ電流の一の符徴ふちょう、一の目次であるに過ぎない。これを要するに他のものの符徴となることが一般に物質なるものの仕事でありますすなわち全然物質から独立せる或る働きをわれわれの五感に表現してくれるのが物質の役目なのであります

 私はこのかんがえを、われわれの所謂いわゆる生物と称するものにも適用したいと思う。われわれは生命、又は心を直接にることはできない。われわれはただ生命、又は心によりて活かされる、有機体の行動を研究し得るにとどまる。お互が視得みえるのは、お互の機関のみであって、その他は推定に過ぎない。その人の行為を離れ、若しくはその人の放射する思想の波等を離れて、他人の思想を知ることは到底できない。私はこれが永久に変らざる真理であるとは言わない。が、われわれの現状にありては、ドウあってもそう認めざるを得ない。若しもわれわれの五感にして物体を視ないとすればわれわれは他に視得みえる何物もないのである。われわれは色彩の美を観賞するが、色とはそもそも何物か?――畢竟ひっきょうただ

 波動の連続

に過ぎない。われわれは波の速さを、色として感知するに過ぎない。色といい、美といい、畢竟ひっきょう心の飜訳である。美術、音楽、文学、……ことごとく飜訳ならざるはない。それ等は物質に記録を残し、若しくは物質に内在せしむることはできる。しかし美術の作品と言ったところで、それ自身は画布ケンバスの上の絵具であり、又は紙片の上の黒点であるにとどまる。すべて此等のものの実体は見えざる世界に存在する

 頭脳と言ったところで、畢竟ひっきょうその仕事は、周囲の有形の物体を表示してくれる丈のものである。物体の裏面に内在する実体は、これを推定するより外に道がないのであるが、これは最早頭脳の領分でなく、心の領分に属する。風景を、美術をて、これを観賞する者は汝自身である。美の観念、計画の観念を有するものは汝自身であり、汝自身の中にこそ、希望も愛も宿るのである。物質的機関がこれを有するのではない。その機関を造り上げたのは汝自身であって、しばしの間これを汝自身の用途に供する。が、物質なるものは由来蜉蝣ふゆうたちで、ソウ永くは続かない。だんだん消耗し、破損し、ついに無用の長物となる。そうなれば汝はこれを放棄する。物質的肉体なるものは決して汝自身の一部分ではなかったのだそれは汝が自己表現の為めに用いた一の道具で仲間の者に相図をしたり又仲間の者から相図を受取ったりするに使ったに過ぎない肉体を棄てたと言って汝自身は少しも変らない

 私は生命と心との本質を知っているとは決して誇称しないそれ等が物質の作用でない事だけは知って居る。われわれは、現在われわれの仕事を遂行するに当り、物質を使用するのは事実だが、しかしわれわれが縦令たとえ物質と離れた暁にも、依然として活動を続けること、物質的機関の破壊は、単にわれわれの表現の仕方を変える丈で、われわれの実在には、全然無開係であることを確認すべき十二分の理由がある。成るほど物質を離れたものは、われわれに対して、……すくなくともわれわれの現在の五官に対して、何等明確なる印象を与えないことは事実である。彼等はわれわれの圏外のものであるから、従ってその存在は兎角否定され易い。かの形態医学者などは、しきりに分泌物又は薬物に対する有機体の反応などをしらべ、その研究は微に入り細に入り、全くもって尊重に値するが、ただ彼等が自己の受持の分野を越え、僣越せんえつにも哲学的お談議を試みんとするのは閉口である。彼等は宇宙間のホンの一小部分、ホンの物質の方面のみに注意を払っているに過ぎない。一部分を以て哲理を談ずることは不可能である。われわれは彼等の受持だけに対しては、敬意を表するが、彼等の哲理には一顧も与える必要を感じない。哲学的結論を求めるめには、もっともっと多くの材料の蒐集しゅうしゅうを必要とする。真理の追究に際しては事物の全体に対して注意を払わねばならぬ。物質的機構とて、もちろん無視してはならないが、しかしこれを動かすところの無形の力は、更に一層大切である。何となれば、それは機構が破損した後にも、依然として存続するものであるから……。現在においては、科学の仕事は主として機構メカニズムの研究であります。少し以前までは物質的機構マテリアルメカニズムと言った方が適当でした。イヤ現在でも、化学者や生物学者の大部は、主としてそうした方面に従事して居ます。が、物理学者は、最早物質的機構の研究のみに満足しないで、放射とか、エーテルの諸現象とかを研究している。そして現在ではファラディ、マックスウェル、アインスタイン、その他の大思想家の感化の下に、主として『時・空』又はエーテルの内に起る所の諸現象に、最大の関心を有って居ります。

 単に物質の働きを述べるにしても、物理的理論のみでは、最早到底完全でなくなった。現代の物理学は、間断なく空間のる『フィールド』に言及する。何となれば一切のエネルギイ、一切の活動は、実は根源を其所そこに有するからである。物理学の指示するところによれば、物質は惰性的のもので、最小の抵抗路を取り、これに働きかける力に対して、極度に正しく服従するものである。しかし、物質には何等の自発性がなく、超五感的のる物の符号たるに過ぎない。そしてそのる物の存在は、物質の助けで人間に判るのであると。

 はたしてしからば、われわれの内部に、又宇宙の内部に、単にその一小部分のみが物質によりて表現され、その大部分は行方不明に残されているところの、何物かが存在すると言ったところで、決してあやしむに足りない。そのものが知覚の領域外にあるという理由で、これを否定すべき必要は少しもないのである。われわれは若し学術的の立派な手がかりさえあれば、それ等が窮極の実在であり、物質的構成物よりも、遥に大なる持績性を有っていることを確認するに、何の躊躇ちゅうちょをも要せぬのであります。

 私の観る所によれば、宇宙はドウあっても、

 生命と心との一大貯蔵池

であると思われるのであります。すなわち生命と心とは、空間の実在であって、物質的天体、その他の存亡以外に超越し、よしや物質的宇宙が消滅することがあるとしても、依然としてその後まで存続するものであるというのであります。ここついででながら一言して置きますが、私自身は、物質的宇宙の消滅を信ずるものでありません。宇宙壊滅の予言は、宇宙の内面において人知れず働きつつある、超物質的存在を、全然無視した臆説に過ぎないから、ほとんど一顧の価値がないと思うのであります。

 それはさて置き、生命と心とが、物質界を動かしつつある方法は、まだ人智をもって充分に予知したり、計算したりすることはできません。ラプラスの計算器は、分子の一切の動作を予知し、ある一つの瞬間に於ける彼等の位置、速度、加速度等を指示することができます。が、生物の行為は、縦令たとえ一疋の蝿の行為でも、そんな具合に計算することはできない。その自発性は、到底ラプラスの方程式にかからない。そこで物理学者は、止むなく生物を度外視し、これを自家の実験室内の研究資料としないことにしている。かの生物学者は生物を取扱いますが、単に物質的機構という見地から、これを調査する丈で、従って哲学的推理をするのには、とても充分でない。これに反して在来の宗教家は、全然物質を離れてしまい、高尚な無形の存在物のみを取扱おうとします。従ってこれに用ゆる武器は、本能と直覚としかないことになるから、其所そこに非常な危険が伴ないます。漠然たる推量はできても、常に幾重かの雲霧が正体を遮っている。

 さて無形の心が、一たいどんな風に、有形の物体に働きかけるか? というに、この現象は間断なく、われわれの身辺に起りつつあるものでありまして、心は一の組織的、又は整理的原理として、常に物を選りわけたり、排列したりします。若しもる物体に、生命と心とが無くなれば、よしやその形骸は残るにしても、常に分裂と混乱との途を辿ります。試みに人の住まない空屋をるがよい。見る見る中に建物は崩壊し、塵芥は堆積して、その機能を失墜して行きます。これに反して生命と心とが働けば、秩序法則は回復され、すべてのものが有機的の作用を営み、地震とか、旋風とか言った、無機的の無茶な力でも加わらなければ、立派にその能力を発揮して行きます。生命の保護の下にあればこそ、一本の樹木だって、太陽熱を利用して発育を遂げたり、酸素を発生したりする。生命ヌキの枯木には、百の太陽も利用の途がない。又生命の作用があればこそ、混沌たるロウ塊が蜂巣と化し、落々らくらくたる石塊が、堂々たる堂塔と現われ、更に心の働きをもって、美の要素を加えて行く。秩序と美とのある所には、必ず心の計画的活動を認めます。心の働きの加わらざる仕事は、しばしば無機物の世界に見出されますが、大体それは無秩序と混乱との連続に終ります。

 設計デザインのいかに大切であるかは、建物の造営に当りて、実によく判ります。等量の労力を用いて、るものは美化し、るものは醜化します。これは皆設計の結果であります。われわれは矢張り設計らしいものを、鳥の羽毛、虫の翼、結晶体の構成等にも見出し得ないでしょうか? 無論その設計は奥深いもので、人間の場合のように、明瞭には判りません。いずれもただ天然自然に出来上るように見えます。が、畢竟ひっきょう彼等の構成に対して窮極に於て責任を有する一つのが存在することを最も有力に物語りはしないでありましょうか

 

 最後に自分は、何故に神学が百尺竿頭一歩をすすめて、科学と提携するに至らないかを考えて見ますと、これにはしかるべき理由がありそうです。詮ずる所神学は途中一切の階段をヌキにして何もも神の力に帰してしまって涼しい顔をして口を拭って澄まして居たいというのでしょう。が、こいつはあまりにも無責任な心掛でしょう。われわれ人類は、いかなる方法で、造化の働きが営まれるるかを知るべき特権を有する、科学者の最大任務は、所謂いわゆる大自然の機構の詳細を探知し、その目的の那辺なへんにあるかを究明することである。すべての結果には、必ずその源因げんいんがある。人類としては、できる丈自然界に起る諸現象の手続を指摘し、結果のりて生じた所以ゆえんを究明して行くべきで、それができなければ、人類の価値は大いに下落を免れない。

 さればと言って、人間の科学が、全部造化の秘奥を究明し尽すものとも思われない。成るほど人間にだって、ある程度の創造能力はあります。詩歌、戯曲、絵画、彫刻、……これ等は小規模ながら、ある一つの創造といえば言い得る。何となれば前に存在しなかったものが、人間の力で新たに一の定形を為すに至ったのであるから……で、不完全ながらも、人間はこれを手がかりとして、宇宙内部に起る創造の何物たるかを想像することができます。ただここで忘れてならぬことは、技術者が偉大であればあるほど、その創作の内に自己を隠してしまうことであります。われわれはホーマー、沙翁シェークスピア等の人物につきて、ほとんど知る所がない。人間界の創造者にして、すでにしかりとすれば、宇宙の創造者の仕事のいかに隠微深奥であるかは、察知すべきではないか。ここで宗教的精神の発露が、必然的に免れないのであります。

 科学は探りきわめ、宗教はうやまい拝む。筋は違うが、どちらにも勘考かんこうの余地がある。若しわれわれが両者の目的と、手段とをゴッチャにすれば、其所そこに混雑が起り、争闘とうそうが伴なうことは明らかである。そこで一部の人達は、ひたすら両者を引離すことによりて、その弊害から脱れんとしますが、自分はそれに賛同し得ない。若しもわれわれにして、すべてを統一的精神をもっることができれば、現在よりは確かにより落ついた、そしてより高尚な哲学的規準に達し得ると思う。

 単に物理学の天地においてすら、其所そこに不可思議の存在がある。われわれはこれを波と呼んだり、プシイと呼んだりしているが、それが何物かは何人も知らない。私としては、これ等のものが恐らくは生命と心との一表現であり、それ等のお蔭で、心が物質の世界に働きかけ、る程度これを指導し得るのではないかと推定したく考えている。この推定の当否はいずれにもせよ、其所そこに無形の存在物が儼存げんぞんすること丈は、ドウあっても確認せざるを得ない。

 これを要するに目に見えざる宇宙こそ、それが真の実在で、われわれのまことの本籍は其所そこに在り、われわれもいつかは其所そこに戻るのである。物質は物質として、感謝の心をもって有意義にこれを使いこなすべきだが、しかし目に見えざる無形の世界は、お一層大切で、とりも直さず、それがわれわれの研究、われわれの希望の、汲めどもつきぬ宝蔵なのである。ここに科学と宗教との合流の理由が存在すると思考する……。(昭和七、二)


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