心霊文庫16篇 『再生問題の検討』

ジェレー博士の『再生説』を読む

 私が近頃、多大の興味を似て一読した快著の一つは、故グスターヴ・ジェレー博士の『再生説リインカアネェション』と題せる書物であります。僅々きんきん五十余頁の小冊子で、従って再生説に関する一切の事柄を、網羅的に取扱ったものではないが、なかなか良くこの問題の要点に触れ、さすがにジェレー博士でなくては、できないところがあります。

 ジェレー博士が本篇を草したのは、今から十七八年以前の事に属します。一九一二年の頃、イタリーの『フィロフィア・デラ・シエンザ』誌の主筆、カルデロン博士は、欧州知名の人達に向って、再生説に対する意見を徴しました。ジェレー博士も、これに応じた一人なのでした。その後間もなく、欧州大戦の勃発となり、従ってこの貴重なる文書も、しばらく世人の視聴から遠ざかって居ましたが、近頃になりて、ようやく明るみに引き出されることになった次第であります。

 御承知の通り、再生説は、精神界の最も重大なる問題の一つで、その確立と否とによりて、われわれの人生観は、根底からぐらつきます。されば欧米の学界でも、これに関する論議が、しきりに行われて居ますが、英米の論者は、概して再生説の否定、もしくは保留に傾き、之に反して、フランス学派をはじめ、イタリーその他欧州大陸の人達は、その肯定に傾きます。ジェレー博士も、勿論むろん肯定派に属し、前後左右から推究の結果、ドウしても再生説を認めなければならぬ所以ゆえんを力説してります。彼は劈頭へきとう第一に、極めて率直にく喝破してる。――

『御承知の通り、私は再生論者の一人である。これには三つの理由がある。他なし、倫理的見地から、これは充分に満足すべきものであり、哲学的見地から、それは絶対に合理的であり、又科学的見地から、それは十中八九まで、事実であると思われるからである。従って自分は、この三つの見地、……倫理的哲学的、及び科学的の見地から、この問題を解剖し、論究しようと思う……。』

 博士がこの大問題の解決に当り、く三方から詰め寄せんとする識見は、はなはだ見上げたものだと思います。英米の学者達の多くは、専ら科学的実験にのみ力瘤ちからこぶを入れ、実証的に再生説を取扱はんとしますが、現在において、それは少々無理な注文でしょう。他日それが可能な時代が到着するかも知れないが、それはその時のことにすればよい。人間には、科学の道路以外に、哲学の道路、道徳の道路も、立派に開かれてるのであるから、必要に応じて、それらの方面から、再生問題に向って攻め寄せるのも、決して不都合ではないでしょう。私はジェレー博士の態度に左袒さたんするものであります。

 ずジェレー博士の、この問題に対する、倫理的考察から紹介しましょう。

『再生説を倫理的方面から考察すると、要するにその基調は、内在的正理という言葉に尽きてる。内在的正理とは、読んで字の如く、その人の地上生活から割り出さるる、当然の因果の結果に外ならない。元来霊魂というものは、その進化の道程において次第次第に築き上げられて行くものであるから、従ってその智力、人格、能力、善悪の本能等は、ことごとく自分自身の所産で、これに対する責任は、当然自分自身で負わねばならぬ。行為、事業、努力、苦痛、快楽、誤謬ごびゅう、失敗、欠点等の全部は、霊魂の送る地上生活のどれかにおいて、必ず反応を起すにきまってる。

『従って再生説にありては、神の審判、その他超自然的要素を傭い入るる必要がない。誰かが巧妙にのべたように、われわれはわれわれの行動に対して、賞罰を受くるのでなく、われわれの行動に由りて、制裁を受くるのである。無論内在的正理は、ただ一代の地上生活中においても、ある程度まで発露せぬではないが、ソウ狭く観察すると一向当てはまらない場合が多い。再生の長き連続を仮定した時においてのみ、それが、数学的に、完全無欠なものとなる。そう考えた時にのみ、まぐれ当り式の幸不幸、運不運がすっかり帳消しになり、結局われわれの行為の総決算が、はっきりとつくことになる。

うして見ると、再生説の倫理的観が、極度に明瞭な基礎の上に置かれてることが判明するであろう。その実用的効果は、実に至大である。再生説は何よりもず、努力を要求する。しかも単なる孤立的努力でなくして、協同的努力を要求する。下等野卑な感情、例えば憎悪、復讐、利己、嫉妬などというものは、協同的進化の敵であり、内在的正理の観念と両立し難きものである。

『かるが故に、進歩した再生論者は、自然的に愛他主義の鼓吹者であり、すべてを自然律の遂行にゆだね、あえて他の非行を責めるような真似はしない。再生論者から観れば、悪人とか、罪人とかいうものは、ただ低き程度の人、未発達の人であるに過ぎない。又彼は一時的の不公平、不平等に対して、さして怨まない。何となれば、それは個々の進化の道程に於ける、必然の結果であるから……。が、彼はただ袖手しゅうしゅ傍観、無為にして化するものでない。極端な不公平、人為的の差別、下らない先入主義は、できる丈その排除に努める。最後に彼は、その親切と同情とを動物にまでも拡げ、無益の殺生などは、できる丈避けようとするのである……。』

 全くジェレー博士の力説する通り、再生説を無視した時に、一切の道徳は破産します。倫理学者が何と言辞を弄しようが、再生の基礎なしに、結局その説が成立しないことは、少し冷静に考察すれば判り切った話であります。ただしジェレー博士の再生説は、まだ概念的の域を脱しません。モウ一段その奥に突入して、再生の手続きを吟味すれば、それが私の所謂いわゆる創造的再生説でなければならぬことは、すこぶる明瞭だと信じます。

 ジェレー博士は、再生説の倫理観に対する、二三の反対説につきて,弁駁べんばくを与えてります。第一はわれわれが、過去の地上生活の記憶忘失に対する弁駁べんばくであります。――

『人間が一の事実を忘れたと言って、必ずしも、その事実を否定することはできない。しかもその記憶忘失たるや、完全的決定的でない。充分に進化した霊界居住者中には、る程度まで、前世の記憶をっているのがある。彼等は過去において、通過した経験を意識してると同時に、彼等の行為の将来の結果をも、予知することができる。従って彼等は、事情の許す限り、有利な状況において再生すべき準備をすることができる。

おこの記憶忘失には、しかるべき理由がある。記憶忘失が、霊魂の向上に取りて必須の要件であること、あたかも死が必須の要件であるのと同一である。彼等はこれあるがめに、現在において不断の努力を払い、経験を豊富にし、種々雑多の境涯を閲することができるのである。同時に彼等は、お蔭で過去のさまざまの記憶に悩まされずに済む。前生涯が幸福であった記憶があれば、これを羨み、前生涯が苦しいものであった記憶があれば、これを歎き、とても前世の記憶保持者には、現在に対する最善の努力はできぬに相違ない。ただし進化の高層にある人達には、記憶忘失の必要は不用になる。従ってそれ等の人達は、前世の記憶を有ってり、顕在意識と潜在意識とが、離れ離れの行動を執らないことになる。』

 説明の言葉が、充分とも言い兼ぬるが、大体もっともな意見と言って良いでしょう。

 ジェレー博士は更に進んで、再生説に対する第二の反対論に、弁駁べんばくを与えてります。その反対論というのは、ツマリ再生説を肯定すれば、下等動物などの境涯が、あまりに可哀想だというのであります。惨忍な御者に打ちのめさるる馬は、前世においてどんな罪悪を犯したか? 生体解剖家のメスで切り裂かるるモルモットは、前世にどんな罪障を造ったか? 再生をもつて、天則の現われとするのは、と考えものではないか? ――よくそんな議論が提出されるのであります。

 これに対してジェレー博士は、く述べます。――

『右の論法には、確かに根本的誤謬ごびゅうがある。不幸災厄は、過去の応報とのみは限らない。そは進化の低き道程にあるものに、シバシバ免れざる現実の境涯である。進歩せる再生論者は、現在の苦悩をば、必ずしも、過去に於ける行為の応報とは考えない。再生論者が飽まで尊重するのは、所謂いわゆる内在的正理の観念で、つまりこの法則は、常に個々の霊魂の自由意思、換言すれば、その智的並に道徳的発達程度と、厳密に正比例するのだと主張するのである。』

 民間信仰などで、しきりに唱えらるる方便的因果応報説は、大なるコジツケ説で、断じて識者のくみせざる所であります。言葉は簡単であるが、ジェレー博士の所説は、要領を得てると思います。

 

 次にジェレー博士の再生説に関する、哲学的見解を紹介することにしましょう。――

これを一言にして尽せば、唯物論者が、理想主義者をヤリ込めるめに提出するところの、反対説の全部は、再生説によりて、きれいに除かれてしまうという事になる。伝統的理想論に対しても、昔も今も提出さるる大々的反対は、悪の存在の事実である。悪の存在は、理論でなくて事実であるから、何人もこれを否定する事はできない。で、はなはだ面白いのは、日本人が最初の基督キリスト教宣教師に対して答えたという言葉である。曰く、あなた方は、しきりに全智全能の神様の事を説かれるが、われわれには、ドウしてそんな事が信じられましょう! 神様というものに、悪を罰する意志がないのか、それとも悪を罰する力が無いのか、二者の中いずれかに相違ない。若しも神様が悪を罰する意志がないというのなら、神様は無上に善良な方とは言われない。若しも神様がそれを為し得ないというなら、神様は無上に有力の方とは言われない……。

『この真率しんそつな理論は、神学者が鯱鉾立しゃちほこだちになって、脳漿のうしょうを絞って見ても、事実上到底否定する事はできないものである。実際悪の問題は、すべでの有神論に取りて、永久に解き難き謎であった。キリスト教の所謂いわゆる原始的罪悪を認める幼稚な観念も、摩尼マニ教の所謂いわゆる悪の創造者を認める放胆な思想も、結局何等合理的の解釈を与えることにはならなかった。どれもこれも見事に失敗した。

『之に反して、再生の哲学からすれば、この問題は一向簡単に解決する事ができる。再生説では、進化の根底に神の正義だの、神の親切だのというものを置こうとしない。最高の智力、正義、善性等々をもつて、外在的、創造的なる神の属性とは考えない。再生論者の見地からいえば、神性とは、要するに一歩一歩の向上進化によりて、次第に獲得さるる、最高の極致に他ならぬものなのである。

一体神の観念は人類の進化に連れて次第にはっきりして来た傾向がある最初神の観念は甚だ茫漠として居たが次第にその大体の輪廓が判りやがて物質界の方面から進んでも又心霊界の方面から探ってもその威力その実在がきっぱりと突きとめられて来たのである

『詮ずるところ、悪というものは、る一人の造物主の意味から出発するものではない。悪とはただ未発達の世界、未発達の霊魂の尺度に過ぎない。換言すれば、過去の法則の別名に過ぎない。故に悪は進化と向上に連れて、次第に減少する。それと同時に、悪はわれわれの進歩のめに、必要欠くべからざる要素でもある。悪があるから、われわれは、いつまでも満足して、現状に停滞する事ができない。又悪の反応に刺激せられて、われわれは正しき道に導かれる。

ここで注意せねばならぬことは、悪が決して絶対的のものでなく、単に一時的、相対的の性質のものであり、いつでも訂正し得ることである。

しもうした観念が真実だとすれば、真の悪というものは、最早もはや存在しないことになる。換言すれば、絶対の悪というものは実在しない。次第次第に宇宙間から悪の分子、不正分子を掃蕩そうとうするという事が、窮極きゅうきょくの目標なのである……。』

 ジェレー博士の悪の見解は、確かに卓抜だと思います。これが判って、初めて倫理道徳の立派な基礎ができ上り、又経世の大方針が決まるかと痛感します。

 博士はお進んで、一々幼稚な霊魂論者の主張を破砕して行き、はなはだ有益なところがあると思われますから、簡単にそれを紹介します。――

『在米の神学では、霊魂の不滅を説くが、霊魂の出所が、一向不明であるのみでなく,又その霊魂が地上に於ける短き存在の後に、永遠の賞罰に服するものとする。これでは哲学的に余りに不合理であり、いかに攻撃されても、止むを得ないであろう。われわれ再生論者からいえば、霊魂はただ永遠の進化の法則に服するもので、永遠の刑罰などというものには、全然服しない。従って無上の光栄は、選ばれたる少数者の特権でも何でもない。どんなものでも、最後にその境地に達し得る。無上の光栄は、断じて超自然的の恩寵の結果でもなければ、又空虚なる宗教的儀礼の産物でもない。良心の領域の無限の拡大に比例して、悪の分子が縮少して行くにつれ、その必然の結果として幸福が随伴する。

『次に一部の論者は、霊魂と物質とをすっかり切り離し、所謂いわゆる非物質的霊魂を空想したるが、これは一向取るに足りない不合理説である。智恵と、エネルギーと、物質とを別々に取扱うことは、到底思索想像にあまる。平等のものは、進化の道程に於ける普遍体の単なる相、単なる様式と観るべきである。

『他にもよく見受けらるるのは地球中心、人間中心の伝統的観念に基いた論であるが、これは余りに幼稚である。天文学の指示する所によれば、われわれの住む地球は、平凡な一個の天体で、特別に重要な性質を帯びてる訳ではなく、従って生物の居住し得る世界は、他にも沢山存在するらしいのである。又解剖学比較生理学等の指示する所によれば、人間と他の下等動物との間には、根本的の相違はどこにもなく、従って霊魂を人間の独占物とする事は、到底科学的に承認し難いのである。進歩した再生説は、すべて此等これらの科学的見解と合致する。不朽の生命なるものは、明らかに人類の出現と同時に開始されたものではない。肉体に宿ったり、肉体を離れたりする事は、大自然の一般的法則の結果であって、思考するもの、生命あるもの、存在するものの全部に適用さるる現象に相違ない。』

 私の紹介は、ホンの意訳に過ぎませんが、博士の意の存する所を窺うに足りるでしょう。日本の学界にも、箸にも棒にもかからない、幼稚不徹底な議論をのべて、得々たるものがすくなくないようですが、私はそれ等の方々が、是非これでも読んで、再思三考さるる事を切望にえませぬ。日本で一番困るのは、ヘタな印度思想にかぶれて、霊魂を一の不可思議物扱いにせんとする、一部の論者の態度かと思います。質量も媒体も何もないエネルギーなどという、純抽象的なものが、ドウして思惟されましょうか? 不合理な物質主義も困りものであるが、不徹底な観念論も同様に困りもので、社会人生を毒する事は、どちらも五分五分かと痛感されます。動の世界、差別の世界では、ドウあっても陰陽、又は物心二元の相対的関係を無視する訳には行きませぬ。

 ジェレー博士は、更に進んで、霊魂の本質観を簡潔に述べてりますが、なかなか面白いと思いますから、ついでに紹介して置きます。――

霊魂ソール、詳しくいえば一存在物の本質エッセンシャルは、宇宙大本体の独立的一単元モナッドであらねばならぬ。それはそれ自身、並に一切のものの完全なる意識(神性)を獲得せんがめに、向上の途を辿りつつある所の、一の神的分子であり、ず劣等な領域から始まりて、次第次第に経験を積み、ついに人類の状態に達して、大なる発達を遂げ、更に超人間的状態において、最大の発達をぐるであろうが、後者に対しては、吾等はまだ一向無知識である。

かるが故に顕在的宇宙は不朽の単元及びそれ等不朽の単元の無常迅速なる集散離合より成立すると見るべきであろう。従って霊魂が肉体に宿り、又反対に肉体を離るる現象の如きも、それ等の無常なる集散離合の手続に該当するものと思われる。

『兎に角此等これらの逐次的集散離合の手続によりて、進化は行われ、その結果として、進化には潜在的、並に顕在的エネルギイの推移が起り、その間に意識の獲得、並に発達が伴なって来る。意識とは畢竟ひっきょう、一切の潜在的エネルギイの縮図であり、凝塊かたまりである。

『右の解釈によりて、従来理想主義に向って放たれた哲学的、倫理的の一切の難点は、きれいに排除されたことになる……。』

 

 今度は、ジェレー博士の再生説につきての、科学的見解を紹介しますが、言うまでもなく、この点が最も貴重であり、又読者の最も熱心に聴かんとする点でもありましょう。何となれば、いかに再生説が哲学的、又は倫理的に美しいものであっても、近代人は科学的証明の擁護なくして、これを容易に受け入れようとしない事は、はなはだ明白でもありますから……。幸にして近代的再生説は、啓示や、先験的理論の産物ではなくして、主として科学的蓋然性がいぜんせい の所産なのであります。他日一層の研究が行われ、一層豊富なる資料が蓄積された暁には、必ず一の堂々たる肯定的事実となるでありましょう。博士は科学的証明法につきての要点を、三つに分類して取扱って居ます。即ち、

(第一) 再生説は、われわれの一切の科学的知識と、すっかり一致してり、何等背反する所がない。

(第二) 再生説は、心理学上の無数の謎に解決の鍵を与える。

(第三) 再生説は積極的実証の上に立つ。

 以下博士の論旨を、逐次に紹介して行きます。――

『第一の論点につきては、詳述の必要はないと思う。既に述べた通り、再生説は天文学、生物学、地質学、古生物学、解剖学、比較生理学等と、ピッタリ一致する。何所をドウ捜したところで、現代の科学界で、これと衝突する何物もない。

『が、就中なかんずく顕著なるは、再生説と進化論との集合である。多数生物において免れ難き困難は、再生説の知識をもつて大部分消失する。生物学者達も、既に己に自然淘汰以上、環境の影響以上に、もっともっと有力なる未知の要素が存在する事を、認めざるを得なくなってる。

『その大切な要素が何であるかは、有機的進化と相併行して、霊魂の進化、霊魂の実体を研究することによりて、初めて闡明せんめいされる。それなしに現在の生物学は、行詰りに近づいてる……。

『第二の論点、即ち心理学上、幾多不可解の謎を解くものは、再生説であるという事は、更に一層重要である。心理学上不可解の謎の主要なるものを挙げると(一)能力の先天性、(二)天才の出現、(三)同一の両親、同一の境遇を有する兄弟、はなはだしきは双生児の間にすら、屡々しばしば発見さるる心霊的不平等、(四)肉体より遺伝と心霊上の遺伝との間に発見さるる、顕著なるクイ違い等である。

『旧来の古典的心理生理学は、此等これらに対して、いかなる解釈を与えてるか? 何等証明の手続さえも踏まぬ、荒唐無智のデモ仮説を、臆面もなく並べ立ててるのみではないか? 彼等は好んで、脳組織の相違説を唱える。が、その組織の実相が、少しも判明してる訳ではない。又子宮の内部に於ける影響だとか、系統の関係だとか、いろいろの臆測を並べもするが、それもコジツケで、何等科学的の正確味はない。正にこれ古典的生物学の破産である。ところが再生説を傭い来れば、一切の謎は立所たちどころに煙散霧消する。

『上に到着した幾多の難問題は、生命の複数性を認める事で、ことごとく解ける。

『個々の思想、先天的の能力は、過去世の所得物であり、しも有機的状況が、或る程度までこれに順応すれば、霊魂は過去の所得を発露し得るのである。

『心霊的の遺伝としても、あるいは存在するであろう。しかしそれは肉体的遺伝の、極めて稀薄なる産物に過ぎない。実際は、性格も能力も、主として霊魂自身の産物である。頭脳が完全なる発達を遂げていない、幼児等において見受けらるる異常の能力、所謂いわゆる早熟現象は、この理論によりて初めて解決する。成る程早熟者が、必ずしも、成人後に卓越した天才でない事は、自分もよく知ってる。が、それは何等の反証にもならない。それが過去に習得したものの、早過ぎた発動であると考える事が、すくなくとも最も簡単な説明であるのみならず、早熟が天才の表現である場合も決してすくなくない。モザルトや、パスカル等は、多くの実例中の、最もよく知られたる代表に過ぎない。

『官学の心理学者達は、彼等の下らない生理学的仮説を、いくらでも陳列するがよい。曰く不明の源因、……曰く末だ発見されざる影響、……いかに並べ立てても、パスカルのような天才者の出現を説明する事は、到底できない。彼等が生理学源因の多くを数え立つれば立つるほど、現代の科学界は、空虚にして愚劣なる、デモ仮学を輸入したという汚辱以外に、何物も獲る所はない。どこまで繁瑣はんさに、遺伝的の状態などを蒐集しゅうしゅうして見たところで、それ等は、多く暗中摸索的のバカバカしいもので、自己欺瞞以外に何物をももたらさない。常識の名において、又実証の名において、これこれは彼等に答える。――諸君の所謂いわゆる未だ発見されざる影響なるものは、あまりにも輪廓りんかくが不鮮明で、正確にその正体を掴むことすら不可能であると。

しそれ彼等の所謂いわゆる病的現象の仮説に至りては、単に真暗な迷路に人を引き入れるもので、要するに肉体は健康を意味し、精神力は疾病を意味するという、不合理極まる矛盾に陥らしむるものである。

『遺伝説も同様に、余りにたよりが無さ過ぎる。天才だの、高邁なる能力だのは、決して祖先から伝わらず、これを子孫に伝えることもできないではないか。

『以上は皆赤裸々の事実で、何人も熟知する所であるから、之に向ってかれこれ反対したところで、結局無駄骨を折る丈である。

しも再生説を採用しまいとすれば、諸君はその代りに、ただ疑問符(?)を附して置くだけである。』

 大体において、ジェレー博士の議論は、よく要領を得てり、私も双手を挙げて、これに賛意を表します。簡潔な一語一句をもつて、反対論の中堅を砕いて行く手腕は、たしかに見上げたものと思います。ただ博士の所論は、粗枝大葉に過ぎないので、霊魂の内容の穿鑿せんさくはまだ不充分のようです。私から言ったら、個々の本霊以外に、ドウあっても、これと協同運動をやる所の、守護霊の事を言わなければ、不充分と感ぜられます。これは特に早熟者の合理的説明において、必要だと感じます。即ち早熟者の発生と、及びその成人後に於ける凡庸化とは、主として守護霊の働きが加わるか、加わらないかの問題だと思います。私はただそれを理論の上から主張するのでなく、心霊実験の結果から、帰納的に主張するのあります。ジェレー博士も、恐らくその事は百も承知でありながら、議論の簡単化を欲して、わざとその問題に触れなかったのであろうと思います。

 さて博士は、いよいよこれから問題の中堅に突入し、再生の科学的実証につきて、議論を進めています。その材料は、主として心理学の畑から借り入れてありますが、勿論むろん心理学の最新発見、最新研究を取り入れ、同時に補成的心理学、例えば変態心理学、異常心理学等をも、縦横に薬籠やくろう中のものとしてります。

 ず再生の理論は、潜在意識に関する近代的研究の証明と一致する。いずれも知悉する如く、一見忘失されたかに思わるる多くの記憶は、決して忘失されずに残り、激情、危険、疾病等の場合に、俄然として再現することがある。綿密なる研究の結果、潜在意識の重要性は弥々いよいよ加わり、天才者の機構の研究、多数人格者の研究等は、潜在的意識の、驚くべき複雑性を暴露するに至った。更に進んで催眠現象、夢遊現象、就中なかんづく、霊媒現象の研究は、いよいよ益々異常心理学の重要性を確立するに至った。――
『現在において明白に証明された事実は、日常生活において、自我の枢要部が大部分意識、及び意志の領域外に属してることである。

『この事実から、以前再生説に対して投げられた反対説、――記憶忘失の故障は、自然に消滅する事になった。この潜在的秘密意識が、現世生活以上に延長すべきは、極めて理解し易いことで、この秘密意識の中に於いて、過去の生涯の記憶と経験とは、保存されてるのであろう。

『再生の蓋然性も、ここから容易に生れ出る。無論この事の充分なる実証は、まだ挙げられない。ド・ローシャ大佐の実験も、前世への逆行の研究を奨励する丈の価値しかなく、決してこれもつて最後の結論を下すことはできない。そうした実験よりも、むしろ霊媒者達の口から漏らされる、再生肯定説の方が一層有力である。身分、教育、智能、信仰等の如何に係らず、多くの霊魂達は、霊媒を通じて、自発的に再生を物語る。これはすくなくとも根強い本能、根強い直覚の存在を物語るものだと思う。

『兎に角再生の直接的の証明は、今後の仕事に属するとして、確実性なる幾多間接的証明の結果、その蓋然性は疑惑の余地がないと思う……。』

 この議論に対しては、全く何人も反対する余地は、余りないだろうと思います。特に幽明交通の実験の数を重ぬれば重ぬるほど、私どもは、ますます再生説の左袒さたん者とならざるを得なくなります。何となれば、余ほど未発達の無智な霊魂でなければ、再生説を否定するものは、めったにありませんから……。

 以上で大体ジェレー博士の再生説の要点を尽しましたが、最後に博士が人類史上、再生説の消長に関して述べたる叙述は、はなはだ参考の価値がありますから、はんいとわず、それまで紹介することにしましょう。――

『余は最後に、再生説の社会的価値、又再生説と、宗教的精神との関係等を述べる順序になったが、その前に簡単に、人類の過去の歴史を一瞥することの必要を感ずる。吾人の所有する文書に従えば、再生の思想は、人類進化の初期において一般的なもので、原始的人類は、ことごとく再生を信じてた。が、間もなくの思想は曖昧となり、ただ少数者のみがこれを保持した。再生説が人類間に再現したのは、余ほど人類が進化を遂げてからの事である。かかる週期的循環の来ることは、少し考えて見れば、その理由がすぐ判る。

『原始的な人類、現在では野蛮人によりて、再生思想が採用されたのは、本能が容易く事実を受け容れた結果に相違ない。彼等の記憶は未だ神学だの、哲学だのの観念でくらまさるるに至らなかったのである。即ち優れた詩聖などが、完全なる直覚によりて感知した所を、原始人は本能で感知したまでである。

『再生説の思想は、道徳的にははなはだ単純であるが、しかしその哲理は、非常に複雑なるものである。再生の真の哲理は、到底普通の民衆には諒解し得ない。内在的正埋などと言っても、凡庸者流にはたよりないことおびただしい。それ等に対しては神秘説だの、超自然説だのの方が、遥かに引力がある。玄妙不可思議な死後の世界が存在し、其所そこでは最大の幸福が与えられたり、永久の苦痛が与えられたりする……。其様な風に説いた方が、余ほど視聴を引き易い。

『それやこれやの理由で、宗教の祖師だの、予言者だのという連中は、意識的考察の結果か、しくは潜在意識的直覚の結果かによって、再生説と離れることになった。この思想を禁止せぬまでも、すくなくともこれを民衆へ教ゆる事を避け、その代りに万能の神だの、最後の審判だの、天国だの、地獄だのという、空中楼閣くうちゅうろうかくッち上げた。此等これらの指導者達のやり方が、その時代として、必ずしも悪かったという訳ではない。よしや再生の思想はあったとしても、これを正しく理解して、実用的価値を生ぜしむる事は、時期尚早だったのだから仕方がない。

『今日の進歩した再生論者は、もちろん人類の人為的差別などはごうも認めない。前にも述べた通り、悪とはただ世界の人類の未発達の状態の産物に過ぎない。故に彼等は、その悪を除くべく努力する。ところが原始的再生論者は、同じく再生論者でも、まるで異なりたる結論を造る。即ち人間が社会的、又は政治的欠陥のめに苦しむ場合に、彼等はこれを過去世に犯せる罪の報いだとする。かるが故に原始人は、少しもその不幸な境涯を改善せんとはせずして、それをひとへに当然の懲罰だと考える。現に印度の再生論者は、かの恥づべき階級制度を、愚かにも厳守して満足してる。斯く考うる時にキリスト教や回々教の幼稚な神学も科学以前の蒙昧時代に於て必要の役割を演じたものであることが会得される

『そんな時代に、再生思想は、ホンの少数者の特権として、曲りなりに人類間に保存された。そのめにブルーノの如く犠牲に供せられたのもあり、止むことを得ず、不可思議の徴物などを用いて、極秘裡にこれを保存してた。が、人類の進化は、着々としてその歩武ほぶを進め、科学的哲理と、人間の意志力の発達とが相合して、此等これらの原始的再生説の不合理を砕いたので、唯物説は正しく最後の凱歌を奏せんとした。が、丁度その時進歩した再生思想は、正々堂々と、天下に名乗り出でた。そして立所たちどころに、識者の多くを、その傘下に網羅することになった。

『十九世紀において未だ再生説に対する積極的証明が、少しも企てられなかった時代に、すでに多くの思想家は、再生論者であった。哲学者ではフーリエル、レルークス、エスキノス、ゴダン、ペザニ、ボネ、レーノルド、ショッベンハウエル等、文学者では、マルタン、ミシェレ、サンド、ラマルチン、ゴーテイエー、バルザック、ユーゴー、サルドウ等。その他にも、今ちょっと想起し得ないが、多くの人達が固く再生を信じ、これを公言することをはばからなかった。

爾来じらい精神科学の発達につれて、再生論者の数は、間断なく増大する傾向を有する。要するに吾人は、今や人類進化の第三期、所謂いわゆる科学的哲学時代に突入しつつある。再生論は倫理的にも、又社会的にも、重大なる結果を孕みつつ、磐石不動の基礎の上に、必ずや確立さるるにきまっている。

『再生説は、将来是非とも、確乎かっこたる実証的方法の上に立脚することになるであろう。そうすると唯物説だの、宗教的独断説だのは、到底歯ぶしが立たなくなる。何にしろ直覚の指示と、実験推理の結果とが、ぴッたり一致することになるのだから、正に天下無敵である。

『一体観測も、実験も、又帰納的推理も、はなはだ結構であるが、しかしそれ等が、鋭利なる直覚の指示と協同しなければ、ほとんど何の用をも為すものでない。すべて大発見はそれが具体化する前に、ず天才者の直覚に映るのが普通である。大なる仮説が出来てから、後に初めて証明が続くのである。

『が、他方直覚のみでは、ほとんど何の威力もない。推理と実験との力を借りずに、直覚のみで猛進しようとする時に、立所たちどころに破綻続出、収拾すべからざるものとなる。直覚の濫用は、推理の濫用よりも弊害が多い。現に直覚の濫用の結果として、始末に行けない先験的哲学の洪水、まとまりのつかない神秘説の山積となったでほないか。直覚的方法のみで進めば、きまり切って、神秘不可思議の迷路にくぐり込む。

『一部の再生論者は、おしかな、今おこの神秘説の渦中にはまり込んでる。彼等は今お秘密だの、奥義だの、伝授だのという、旧時代の遺物にひつかかり、ごうの神々を他界に据えつけたり、もっともらしい顔をして、救世主の再来を説いたりする!

『天啓の時代、予言の時代は、最早もはや永久に去った! 近代人の頭には、時代遅れの主義を容れる余地がなくなった。道徳的並に精神的の解放は、霊魂そのものの真の性質の科学的研究の上にのみ係ってる。将来において、人類を指導する哲学は単純で、透明で、そして光彩陸離こうさいりくりたるものであらねばならぬ。換言すれば、それは科学の哲学であらねばならぬ。』(昭和六、三)


創造的再生説に就きて
(下)創造的再生説

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完結


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