心霊文庫16篇 『再生問題の検討』

創造的再生説に就きて

(下)創造的再生説

 以上私は最も公平な立場から、再生説に対する賛否両派の主張の御紹介を致しました。皆様がそのいずれに賛同されるのも、もちろん御自由であります。中には又、どちらにも軍配をあげることができないから、当分之に対して、厳正中立だとっしゃる方があるかも知れませんが、それも至極結構でしょう。所謂いわゆる大器晩成で、一番お偉い方は、あるいはそんな中立党の中に見出さるるかも知れません。

 が、私としては、この際何とか、自分の意見を披瀝ひれきせねばならぬ、苦しい立場にあります。万々一私の所説が間違いであったら、他日素直に訂正させて貰うことにして、思い切って、それを発表することに致します。

 これを一言にしてつくせば、私は再生説肯定論者でありますが、ただ私の所謂いわゆる再生説は、在来一般に信ぜられているような、一本調子の機械的再生説でなく、よほど複雑な手続を踏む所の、創造的再生説と称すべきものであります。そしてその出所は、自分の頭脳でなく、又古経典でもなく、主として自分の手元にある、霊界との交通能力の活用に基いたものであります。例によって、記事を簡単化すべく、箇条書きにして見るとしましょう。――

 (一) 宇宙の内面は不断の流転、不断の創造を遂げつつあるのであるが、その基本的原理は陽と陰、集合的エネルギーと、離散的エネルギーの交渉の結果に外ならぬものと推定される。

 (二) 人間が知り得る範囲内で、宇宙間の万有中、最大のものはけだし天体であり、最小のものは原子でありますが、その構成原理においては、両者の間に、何等の相違わないらしい。即ち中心の集合的エネルギーが、離散的エネルギーに、持続的に打勝っている間は、本来の性質形態を維持するが、中心の勢力が衰え、しくはそれに何等かの変化を生じた場合には、その性質形態が必然的に変って来る。

 (三) 人間の生死、その他の諸現象も、畢竟ひっきょうその原理で説明ができる。人間の自我意識とは、畢竟ひっきょう集合的エネルギーの現われに外ならぬ。もっと詳しくいうと、自我の集合的エネルギーが、離散的エネルギーを圧倒して、ここに独立した一存在を形成したものである。従ってその自我意識の消長によりて、いろいろに形態並に性質が変る。

 (四) 自我の集合的エネルギーが、極度に旺盛なのは、けだし丁年頃までである。自我の発展以外に、ほとんど他の何物も顧みない。所が、青春期に及びて、やや趣をかえる。自我意念の一部が、他の異性の方に分割され、ここに男女の恋愛関係がおこる。その結果は、言う迄もなく、愛の結晶たる子供の発生である。そして子供が殖えるにつれて、その両親の物質界に於ける集合的意念は、次第に衰頽すいたいして行く。

 (五) 物質界に於ける集合的意念、換言すれば、現世的興味、又は慾望が衰退すれば、その必然の結果として、肉体は弱る。最後にその肉体は、中心の集合的エネルギーから全然分離してしまう。それが即ち死である。

 (六) さて物質界と離れた自我は、幽体につつまれて、幽界の方に引き移り、ここに新たなる経験を頼む。それが所謂いわゆる幽界の生活である。だんだん修行をつみ、現世生活から持ち越した物質的慾望、現世的執着の名残が、次第にその中心意識と離れるに連れ、ここに再び分裂作用が営まれる。即ち浄化した自我意識と浄化せざる自我意識とが当然二つに分れるのである。丁度太陽から地球が分離し、その又地球から月球が分離したような具合に……。

 (七) 右の浄化した第一自我は、そのままずんずん向上の途を辿る。これに反して、浄化せざる第二自我は、言わば現世的執着の凝塊かたまりであるから、再び物質界に舞い戻る。それが取りも直さず再生という現象である。即ち再生とは、浄化せざる第二自我の再生、換言すれば、分霊の再生であり、自我意識の全部が再生するのではないことになる。

 大体以上で、私の唱道する再生の基本的観念は、お判りになったと考えます。まだまだ外に申上げねばならぬ事柄は沢山あります。就中なかんづく、現在の地上の人間に宿れる霊魂の出所問題の如きは、非常に重大な事柄であります。即ち人間の霊魂は、ことごとく前世に人間たりしものの分霊であるのか、それとも人霊以外のる幽界の存在物、――自然霊と言ったようなものの分霊であるのか、――それは実に重要なる研究題目であるのでありますが、これを説かんとすれば、その前に、幽界の存在物に対する予備的知識を必要としますので、今回はしばらくお預かりにしたいと考えます。今後皆様と共に、一層精緻なる研究を遂げた上で発表しても、決して遅くはありますまい。

 兎に角、以上私が述べました創造的再生説をもってすれば、在来の再生説肯定派の主要の要点と、少しも抵触するところがなく、同時に再生説否定派の提出する反対理由の大部分も、きれいに一掃され、どの点から考察しても、これが本当の再生説、――すくなくとも本当に近い再生説であると確信さるる次第でありますが、いかがでありましょうか。何卒皆様におかれても、腹蔵のない御意見をきかせて戴きます。何となれば、再生説は世界の神霊論者間の、最も重大なる問題の一つで、その正しき解決の鍵を、成るべくならば、日本で握ることにしたいと考えるからであります。

 西洋の心霊学者の中で、幾らか私の提唱する所に近い意見を吐いてるものは、私の知っている限りにおいて、ただアーサア・ヒル氏一人を挙げ得るのみであります。同氏は穏健着実な心霊学者で、沢山の著書を出してることは、皆様御承知の通りですが、再生説に関する同氏の意見は、『心霊上の討窮サイキカル・インベスディゲーション』の巻末に近く載せてあります。公平透徹な論法をもって、私の所謂いわゆる創造的再生説にまで漕ぎつけた頭脳の冴えは、なかなか侮り難いと思われます。要点を左に抄訳して見ましょう。――

『霊魂が肉体を離れて、死後に存続することが、心霊事実によりて証明せられた以上、霊魂が生前においても存在したことを推定する事は、無理とは思われない。すくなくとも、これを否定すべき正当な理由は発見されない。さればにや、プラトン以前にも、また以後にも、これを認めた偉人は相当に多い……。さて霊魂が生前において存在したとすれば、次に知りたいのは、それが何所にドウして生存したかという事である。これは随分古い懸案である。二千五百年前からの懸案である。が、当時は霊魂の観念が、よほど物質的であった。一つの気体ではあるが、しかし何やら物質的なものと考えられてた。その必然の結果として、出生前の霊魂も、る地臭を帯びた、一つの物質的存在として考えられてた……。

 近代に入りて、だんだん人間の本体に関する考えが拡大されて来た。肉体は人格のホンの一小部分で、普通識域に上らない、微妙な意識体が、むしろ人間の大部分を占めてることが、幾多の心霊実験によりて証明された。人間は僅々きんきん十二分の一を水上に露出している、氷山の如きものであることが判って来た。

 この観念は、再生説の前に横たわる所の、最大難点の一つを排除するに有力である。即ちわれわれが前世の記憶を有って居ないのは、変だという故障は、上述の理由でほとんど消滅する。われわれの全体の自我が、現在の表現以上に、遥かに偉大なものである以上、われわれの他の一部分が、以前一個の肉体に宿ったかも知れぬと想像されないではない。従って前世の経験の記憶は、全体の自我の中にかくれ、全我の一断片たる現在の自分には、その記憶がない訳である。丁度それは、一片の雲の発生みたいのものかも知れない。雲は前から存在する所の、巨大なる水蒸気の体から生れ、しばらくして再びその母体に帰る……。

 モ一つ譬喩ひゆを用いて説明すると、全体の自我は、大空遥かに舞い上ってる、一個の軽気球の如きものであるまいか。時々、その軽気球から、単数又は複数の綱が下がり、そして綱の末端には、浚渫機が附いてて、地面をこする。地面と綱との接触点が、取りも直さず個々の地上生活である、浚渫機が地上を引きずっている間に、幾多の経験をかき集める。いよいよ経験蒐集機としての人間の役目を果した時に、それはスルスルと空中の気球に引き上げられる。んな事は、恐らく幾度も幾度も繰り返され、もって新らしき経験を吸収する。即ち私の想像する再生は、先験的自我の部分的代表者の派出ということで、普通一般に唱えらるる所の、粗雑幼稚な再生説とは異るのである。

 しからば全体の自我の運命はドウかというに、それは現在のわれわれには判らないという外に致し方がない。われわれは僅少の事実を基礎として、未知の世界をさぐるのであるから、断じて絶対不変の定説として、自説の押売りを試みてはならない。ただ現在われわれの有する知識をもってすれば、以上述べた再生観が、最も合理的だと思うまでである。』

 私の述べたところと、一から十まで一致してはいませんが兎に角たッた一人でも、西洋にここまで進んだ事を述べるものがるかと思うと、はなはだ愉快に感じます。

(昭和五、六、一五、於東京心霊科学協会例会)


創造的再生説に就きて
(上)賛否二派

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