心霊文庫16篇 『再生問題の検討』

再生の出発点と帰着点

 いつも同一文句を繰り返しますが、私は前回において、地球の雰囲気内が神界、霊界、幽界、現界の四大界に分れてること、同時に人間の体もこれに準じて四つの層に分れ、日本の古典ではこれ奇魂くしみたま幸魂さきみたま和魂にぎみたま荒魂あらみたま、と呼んでること等を説述しました。これで幾分再生の手続を説明すべき手がかりはできましたが、しかしまだはなはだ不充分であります。われわれは、モウ一歩も二歩も突き進んで、それぞれの界、それぞれの層の内容を攻究し、顕幽の間に生死往来を重ぬるたましいの行方を、分明にせねばなりませぬ。再生ということは、その目的からえば、前にも申したとおり、たましいの教育に外なりませんが、その形式から観れば、海外旅行の一種で、常に出発点と帰着点が存在します。出発点と帰着点とをヌキにして、再生を説いて見たところで、はなはだ空漠として、つかまえどころが無さ過ぎます。臨終に際して、南無阿弥陀仏の百遍も唱えれば、極楽往生間違いなしというようにお易くまいれば、この上もなく結構な話ですが、精緻な心霊研究の結果は、不幸にもそれを否定します。其所そこで問題が六ヶむずかしくなります。実をいうと、私も飛んだ仕事にぶつかったものだと、今更少々辟易へきえきの気味がないでもありません。

 イヤ世迷言をヌキにして、取りあえず、ず人間界の内部の調査から始めることにしましょう。すでに人間が四魂の合成体である以上、各魂の配合によりて、自からそこに四種類の人間が存在する訳です。右の四種類の中で、一番優勢なのはいうまでもなく、現の現界とでも申しましょうか、つまり荒魂あらみたまが、全体の八割も九割も占めている連中であります。御承知のとおり、現界と申す所は、大体において弱肉強食、優勝劣敗の世の中で、大概の人々は、あらゆる種類の慾望よくぼうの満足を求むるに急で、ガツガツガミガミ、ほとんど余裕というものがありません。これは肉体という厄介物を有ってる以上、当然免れ難き人間の運命で、その点においては、人間と禽獣との距離は、さまで大なるものではありません。で、しこの境涯に、何とか名称をつけて見るとすれば、ず『執着境』とでも言ったらいいかと思います。人類は野蛮の境涯から、半野蛮の境涯を経て、次第に文化の域に進みつつあることは事実でありますが、現在の文化の発達程度では、執着境に留まるものが、まだ百人中少すくなくも九十九人位はあると思います。一と口に学者だの、宗教家だの、教育家だのというと、ちょっと高尚に聞えますが、少しくその内情にまで立ち入って見れば、必ずしもそうではない。いずれも職業しょうばいとなると、自然そこに暗闘もあれば掛引もあり、又偽善もあり、なかなか執着境を離脱し得るものは少ないのであります。人間のよほど上等な部類に属するものでも、種々の無形の慾望よくぼう、例えば名誉慾とか、権勢慾とかいうものからは、容易に離れ得ないのが事実であります。この旺盛な執着心は、とても五十年や八十年の短かい人間の生涯位で、きれいに掃除せらるる筈のないことは、古稀とか還暦とかに達した老人達の態度をしらぶればよく判ります。肉体は弱っても持って生れた慾望はなかなか衰えない。のが事実であります。そんな慾望よくぼうは、当然そのまま幽界へ持ち越されるので、慾望よくぼうの有無は、必ずしも肉体の有無に拘らないのであります。これは理論がそう肯定するばかりでなく、心霊実験の結果も、極めて露骨にこれを証明するところで、われわれは幽界の亡者の執着心の強いのには、時々呆れ返ってしまうことがあるのであります。

 執着境の話は、しばらくこの辺にとどめ、それに続いて、人間界で比較的多数が占めているのは、現の幽界と称する境涯でしょう。つまり和魂にぎみたまの発達した連中が集まり、共存共栄、慈善博愛の道を講じつつある境涯で、現在では赤十字社の事業などが、一ばん歪まずに発達した、代表的の社会事業でありましょう。その他になると、感化院にしても、慈善団体にしても、万国平和会議にしても、国際連盟にしても、各宗各派の宗教団体にしても、ドウも多少偏狭性を帯びてたり、我利的臭味を具えてたり、とても純の純なる和魂にぎみたまの発動とはいい兼ねます。で、神とか、仏とかの高い標準から言ったら、到底お話になりますまいが、肉体をっている人間の仕事として観れば、兎も角も一歩執着心の捉われから離脱した、殊勝な心懸こころがけっている仕事には相違ないのですから、うした連中の境涯を、大負けに負けて貰って、『平和境』とでも称していいかと考えます。キリストの鼓吹した『愛』、釈迦の唱道した『慈悲』などというのも、要するに日本古神道の『和魂にぎみたま』の働きに外ならぬもので、兎角荒魂あらみたまが勝ちすぎる、現在の人類に対する教訓法として、はなはだその当を得たものと考えます。

 しからば、現在曲りなりにも、この平和境に編入さるべき人数の割合はと申しますと、いかに点数を甘くしても、百人中五七人以上に出るものとは、残念ながら思われませぬ。口には殊勝なことを言いながら、イザ実行となると、すぐ執着境へ逃げ込みたがる連中ばかり多いので、困るのであります。

 兎も角も人間世界で、人数がまとまっているのは、この境涯までで、次の境涯、所謂いわゆる現の霊界という所になると、その人数はウンとってしまいます。この境涯は言うまでもなく、幸魂さきみたまの勝ったところで、真善美の獲得に、渾身の努力をささぐる純真な学者、信仰家、又は芸術家などの世界で、これは『超越境』とでも命名したら、一ばん当ってりましょう。ここへ来るとからだは人間界に在りながら、その魂は遠く地上を離れ、従ってその人の風格までが、何所どことなく垢脱けがしてまいります。世の中に自称学者、自称信仰家、自称芸術家はいくらでもありますが、真物ほんものはたして万人に一人もありましょうか?

 れ、その次の現の神界という境涯に至りては、むしろ人間に取りて、理想の世界であって、現実には、めったに存在しないと言った方が、正当かも知れません。奇魂くしみたまというものは、浄化の極致を指した『大成境』で、坐ながらにして三世を達観し、真善美を体現し、これが判らぬとか、これができないとか言うものはなくなる筈です。古来人間界で聖人とか、哲人とか称して、多大の尊敬を払われて来た連中でも、他に比して、いくらか奇魂くしみたまの働きが余計に閃めいた位のところで、点数を少し辛くしたら、存外『現の霊界』又は『現の幽界』迄に編入させた方が、適当なのかも知れません。万々一この境涯に属するものが、人間界にるとしても、その人は恐らく大自然の懐にひそみ、神仏と同化したと言ったような、淡々たる無名の人物ではないのでしょうか。何所どこやらケバケバしい、何所どこやら宣伝気分のある、所謂いわゆる聖人、哲士の輩はその選に与からないかと考えます。

 以上私は現界を『執着境』『平和境』『超越境』『大成境』の四つに区分しましたが、この区別は無論そのまま幽界に持ち越します。前にも申上げたとおり、現幽の相違は、ごくお粗末な肉体の粕が、有るか無いかの相違丈で、その性質に格別の相違はないのであります。すなわち幽界の一ばんの人々には、幽の現界と称すべき、執着境が控えているのでしょう。肉体は地上にうっちゃって来たが、食気くいけだの、色気いろけだの、その他の現世的慾望よくぼうが、まんまんたる連中なのですから、随分始末が悪いに相違ない。仏教では、そんな連中の境涯を餓鬼道、畜生道、修羅道などと命名して、随分軽蔑して居ますが、考えて見るに、現世の人間の九割位は、死後それ等の境涯のいずれかに落着くのではないでしょうか? いろいろの霊界通信を読んで見ても、又憑依霊の告白をきいて見ても、ドウもそうした連中が、幽界にウジャウジャしているのには驚きます。はなはだしいのになると、自分が死んで幽界へ来たことを目覚しない、没分暁漢わからずやの霊魂さえもある……。

 再生という見地から、この事実を考えて見るに、うした連中が、機会を見て再び現界に舞い戻るべきは、当然過ぎるほど当然でありましょう。慾望よくぼうというものは、充分に之を満足せしむることによりてのみ初めて消滅します。ところが幽界生活は、慾望よくぼうの満足にははなはだ都合がわるい。稀薄な幽体では酒を飲んで見ても、性交を試みて見てもさっぱり詰らない。それをやるには肉体に限る……。帰幽者は皆そう自白しますが、成程それに相違ありますまい。

 幽界の居住者には、この不便を除く一つの便法がないではない。それは生きている人間の肉体に憑依して、その躯を使って、一時の慾望よくぼうを充たすやり方でありますが、これは随分気骨の折れる仕事であるのみならず、どうしたところで、隔靴掻痒かっかそうよううらみがある。酒を飲んでも、何やらしみじみと身にしまないそうであります。

 んな次第で、幽界の執着境にる連中は、早かれ晩かれ、全部が全部再生の手続きを踏むのであります。つまり幽の現界はその名の示すが如く、実は現界の出張所見たいなもので、真の幽界ではないのであります。荒深氏の守護霊の説くところによれば、霊魂がうして現幽の間に生死往来を重ぬる回数は、最もすくなきところで四五回、多いところで六十回位に達するといいます。当らずといえども、けだし遠からずでありましょう。

 はなは卑近ひきんたとえですが、執着境にる帰幽者の境遇は、火事か地震で住むべき家を失った、無宿の浪人という格でありましょう。もともと住家すみかの必要がないのではなく、止むことを得ずして、無宿の境遇にる訳ですから、早晩肉体という、一つの宿を求めることになるのであります。再生説は理論から言っても、又実際からしらべても、ドウも動かぬところがあります。イギリス人などは、先天的に、再生説に不賛成の意を表する保守的な人種ですが、それでも近頃は大分風向かざむきが変って来て、熱心にこれを主張するものが、ボツボツ現れて来たようです。矢張り真理は最後の勝利者となるようです。

 しそれ『幽の現界』から、人間世界に再生する員数の割合に至りては、私にはまだはっきりしたことは申上げられません。ただそれが、現界の執着境に居住する者の員数に比して、幾分か少数であるべきこと丈はたしかです。『今までいくら慾を深くして見ても結局詰らなかった。そろそろこの辺で慾張よくばりはめだ……。』そう悟りを開く霊魂も、百人に二人や三人はあるでしょう。そんなのは現界に逆戻りすることを止めて、『幽の幽界』へと向上の途を辿るでしょう。

 今度はいよいよ幽界の本場であるところの幽の幽界につきて、考察を下すことにします。本来からいえば、幽界居住者は、すでに厄介物の肉体を放棄してあるのですから、最初から和魂にぎみたまの働きを発揮し、共存共栄、和衷協同の心掛をもって、幽界生活を送るべきであります。それができないで、現世に執着するというはむしろ変則で、丁度一たん嫁入した婦人が、里心さとごころが失せないで、ちょいちょい母親の許へおちちを呑みに帰って来るようなものであります。いつまでそんな真似まねをつづけてうしましょう。霊魂だって矢張りその通りで、数回もしくは数十回の再生を繰り返した時には、ようやく肉の執着から離れ、衣食住その他生活上一切の顧慮のない幽界で、お互に仲をよくして、平和な境遇に満足することになります。とりも直さず、それが正真に幽界生活で、従来仏教徒の所謂いわゆる極楽、キリスト教徒の所謂いわゆる天国などというのは、ドウもこの『幽の幽界』の生活を指して居るようです。わが国の古神道でいえば、この境涯に入ったものから、初めて産土の神の管轄下に入る訳で、執着境から見れば、段違いに結構な境涯ですが、上を見ると、まだまだ際限がなく、結構な境涯があるのであります。私は飽までそう観ることにしたいと思います。愛や、慈悲や、礼節やは、むろんはなはだ尊重すべき徳目でありますが、それがんで向上の極致でありましょう? それはむしろろ出発点の基礎工事で、その基礎工事を施してないのが、つまり禽獣です。動物です。

 それは兎に角、幽界においてはこの『平和境』に安住するものが、相当多数にのぼるべきはあらそわれぬ事実であります。現界においては、生活のめに累せられ、心ならずも慾の皮を突っ張るべく、余儀なくされた連中も、ここへ移つて来ては、自然心もくつろぎましょう。『衣食足りて礼節を知る』と孔子は申しましたが、幽界生活は遥かにそれ以上です。まるきり衣食住の心配がないのですから、いい加減の慾張り連中も、ここへ来ればる程度角を折ってしかるべき筈です。で、いかに現在の人類が、未発達の状態に在ると言ったところで、帰幽した人員の約半分位は、恐らくこの境涯に置かれるのではないかと想像されます。荒深さんの守護霊は『幽界居住者の和魂にぎみたまの割合は、平均して五割に及ばず』と言われましたが、チト点数が辛過ぎはせぬでしょうか。

 ところで問題は『幽の幽界』から、現世に再生するものの有無ですが、私はこの境涯から再生する者は、相当多数に上るものと信じます。何となれば、和魂にぎみたまは現世においても、大いに活動の余地を有するからであります。ことに近時のように、う交通機関が発達して、世界中が隣人づき合いをすることになっては、和魂にぎみたまの必要が、往時に比して一層痛切に感じられて来ました。一部の幽界居住者は、恐らくく感ずるでしょう。『自分達が現世に生きてた時代には、封建気分が濃厚で、異人といえば犬猿位に考え、又信仰なども偏狭で、他宗教といえば、悪魔の弟子位に考えたものであった。是非ぜひモ一度現世に生れ変って、今度こそ人類愛の真義を発揮してくれよう……。』又他の一部は、恐らくうも考えるでしょう。『自分の前世には、死後の生存を知らなかったばかりに、少々個人主義に突っ走りすぎた。今度生れ変ったら、大いに神霊主義を鼓吹して物質かぶれの現代人を、ウンと覚醒して見たいものだ……。』はたしてこの想像が当ってるか居ないかは判りませんが、兎に角『幽の幽界』から、現世に生れかわるものが、相当多数に上るべきは確実であります。ただし全数の幾割が再生の手続を踏み、幾割が上の『幽の霊界』つまり幽界の超越境に進入するかは、目下の所私の手元に、確乎かっこたる手がかりがありません。

 再生という見地から観れば、以上現幽両界の執着境と、平和境とが、問題の中心点であります。即ち再生という手続の出発点と帰着点とは、主として以上の二境涯に存在するものと見做みなしてよろしいので、大体ここの所で、グルグル何回かの生死往来を重ねるのであります。

 が、これではまだ出発点と帰着点とに関して、全部を説き尽してりません。簡単に爾余じよの境涯をしらべて見ることにします。幽界の第三境たる、所謂いわゆる幽の霊界、これは、その境涯に住む者に取りて、実に誂え向きの理想境に相違ない。全然生活の顧慮を棄てて、一意専心、ただ自分の生命とする美術なり、文学なり、又は学問なりを研究すればいい境遇なのですから、そうした連中の心の満足は、想像に余りあるものがあります。地上の生活は、いかに超越的だと言っても、幾分の煩累はんるいが伴ないます。幽界の超越境に至りて、初めて真の超越が求められます。霊界通信を見るに、『学問好きの霊魂の中には、千年でも二千年でも、幽界生活に満足し切って、他を求めないでるのがある。』などと書いてありますが、それ等は皆幽界の超越境の住人に相違ない。ですから、この境涯から上へ進むものはあっても、めったに不自由な現界に逆戻りを試むる好奇者ものずきは、はなはだ少数と見ねばなりません。

 幽の超越境から更に一歩をすすめて、幽の神界たる大成境へ進みますと、再生とは一層縁が遠くなります。いわんやその奥に控える正真ほんとうの霊界、又神界に至りては、いよいよその傾向が強くなるばかりです。万々一それ等の高所から人間界へ再生する場合がありとしても、所謂いわゆる普通の再生とは、すっかり訳が違い、四魂の中、微かに残る自己の荒魂あらみたまを中核とし、いわゆる分霊という形式で、自己の使命を果すべき、仮の生宮いきみやを地上に送る位のものでしょう。しかもそれは千年に一度とか、一万年に一度とか、極めて大なる間隔を置き、人類の安危浮沈が懸ると言ったような、まさかの時代に限って行わるる変法で、普通の再生の手続をもって、これを律することはできないでしょう。普通の再生は、先刻私が申上げたとおり、主として現幽両界の間、就中なかんづく執着境と平和境との間の問題であると思って戴けば、大過ないと信じます。

 (昭和三、六、一七、於大阪心霊研究会)


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