心霊文庫16篇 『再生問題の検討』

再生説の真義

一、再生は物質界の経験に接する装置

 私は先月本会の席上において、再生説につきて一言し、再生説こそ現世の不公平、不平等を合理的に説明すべき、大切な学説であること、又神霊主義スピリチュアリズムの第七条は、再生説をもって補助的註解を加えることによりて、初めて意味が通達すること等を述べました。私はこれから進んで、再生説その物の真意義は、何であるかを説明して、皆様の御参考に供したいと考えます。これはなかなか容易の業でなく、時に少々学究くさくなる場合があるかも知れませんが、何にしろわれわれの安心不安心、楽観悲観、幸不幸を決定すべき、

  重要無比の人生問題解決の鍵

につきての穿鑿せんさくなのですから、少々面倒でも御辛抱を願わねばなりません。

 言うまでもなく、再生説は、霊魂ソール肉体ボディとの対立、人間意識の死後の存続等、つまり近代心霊研究で立証せられたるところを前提として、近寄るべき問題であります。従ってまだ心霊問題に関する何等の準備がなく、又心霊研究の主張に共鳴し得ざる方々に取りましては、再生論の講釈は、恐らく猫に小判の類で、一向興味も理解もともなわないでありましょう。これは遺憾いかんながら、私の力でいかんともすることができません。ただここに御出席の方々は、多年斯学しがくに御熱心の方々ばかりですから、私は全然そうした顧慮こりょの必要がなく、安心して説明を加えて行くことができるというので、うした集りは、正に日本思想界の沙漠の真中に点出された緑地オアシスの観があります。何とかして、この種の会はもッと大きく、もッと豊饒に育てて行きたいものです。試みに足一歩この会場を離れて、殷賑いんしんを極むる大阪の市街に乗り出しますと、右を見ても、左を見ても、ヤレ利権だ、ヤレ駆引だ、滑った、転んだ、……人間のたましいは、何所どこにそのかてを求むべきよすがもなく、さながら亡者の群が夜行よるゆくにも似たる、荒涼たる惨状を呈してります。これは仏教の寺院へ行って見ても、基督キリスト教の教会を訪ねて見ても、格別の相違はなく、心霊の根をたぬ説教や、講演は、さながら一片の造花の如く、外観はちょっと美しくないでもないが、ドウも活々いきいきとして、人の魂を引きつけるような、魅力に欠けて居ります。これでは、人は動物的には生きるか知れないが、精神的には亡びるより外ありません。その兆候は、すでに日本の国家社会の表面にまで、ありありと現われ、戦慄すべき不祥事件、痛歎つうたんに堪えない不和争闘そうとう等が、踵を接して、各方面に勃発しつつあります。無論これは日本国内丈の問題ではなく、むしろろ現在の、全世界の一大疾患でありますが、その中でも日本国は、かの世界大戦の苦楚くそめ方が足りなかっために、欧州諸国よりも、余ほど真面目まじめさが劣るようです。その何よりの証拠は、心霊問題に対する国民の態度の軽薄なことで、一般国民は、近頃っと低級卑俗なる妖怪譚に、興味を感じて来た位のところです。大大阪がつ唯一の心霊研究機関たる本会が、まだまだんなことでは、心細いことおびただしいではありませんか! 私が英国から帰る頃までには、是非現在の三倍か、五倍の勢力にして置いて戴きたい。折入って御願い致して置きます。

 イヤ話頭が少々横路に入りました。急いで再生説の講話に戻ります。再生説は先刻も申上げた通り、ず第一に、霊魂の独立的存在を、前提として進むのであります。人間の脳髄は、無数の細胞から成立した、複雑微妙の発信並に受信の機関であるが、それは要するに、霊魂が物質界における使命を遂行するに使用する為の、一の調法な道具に過ぎないもので、人間の脳意識は、全霊魂意識の、ホンの一部分を伝達する力しか無い。大部分は潜在意識として、脳髄と没交渉に残るものであります。実を言えば、人間の本体(即ち霊魂)は、ごうも肉体の存在さえも必要とせず、生れる前にも、又死んだ後にも、立派な意識をそなえて、別な境涯で、大々的活動を続けるのである。……そういうのが、再生説の根本観念なのであります。ですから赤ン坊だと言っても、それは単に肉体が赤ン坊である丈で、その中身なかみは、決して赤ン坊でも何でもない。過去幾千年、又は幾万年かにわたり、幾回も地上生活をめて来た、老成した霊魂なのであるが、いかにせん赤ン坊の脳髄が、薄弱不完全な為に、わずかにお腹が空いた時に、オギァと泣いて、うえを知らせる位の声しかないのであります。

 再生論の第二の要点は、人間の本体(即ち霊魂)が一の未製品で、永き年代にわたりて、向上進歩の途を辿るものであると主張することであります。ここに未製品といのは、小さい一箇の樫のが、天をする樫の木に比ベて、未製品であるのと同じような意義で、大霊の一分身たる霊魂は完全の素質をそなえてはいるが、まだ充分にその進化を遂げて居ないというのであります。ただし物質の進化と、霊魂意識の進化とは、大いにその趣を異にします。物質的進化は出生、生殖、死等の順序を踏み、新らしい肉体は、常に古い肉体をもって造り上げられ、そしていつも単純から複雑へと進むのが常則で、有機体の一端には、単細胞動物があり、又その他端には、数千億の細胞をもって、驚くべく複雑せる機関と、組織とを造りあげたる人体があるのであります。

 ところが霊魂意識の進化というのは、全然右と別種のもので、随時進化をつづくる物質的肉体に、適当の魂を入れて、遺憾いかんなき活動を行わしむることを指すのでありまして、取りも直さずそれがすなわち再生であり、仏家の所謂輪廻の事であります。輪廻りんねは万有普遍の法則で、独り人間界のみならず、宇宙の万有を通じて行わるる手段方法なのであります。ですから、ここに一の生物が出来れば、その物に宿れる意識も、同様にそれに準じた、適当な仕事をする訳で、くする事によって、霊魂はより優れたる物質界の経験を遂げることになりました。霊魂を宿す肉体と、肉体を活かす霊魂とは、常によく釣り合ったもので、夢にも段違いのものが一緒になって、共同生活を営むようなことはない。大自然の自動的装置には、この点において、毫末ごうまつ違算いさんはないのであります。

 さてここで、当然自然界の研究に身を委ねた人々の、真先まっさきに気のつく事は、形而下の物体の無常ということでありましょう。物質的形態を有するもので、永久不変なものが何所どこにあります? 死は実に何物をも襲い、ある物体を生かすめには、常にある他の物体の犠牲を必要とします。見よ、鉱物が分解して植物の栄養素となり、植物が破壊して動物の食餌となり、動物が犠牲となりて人間の胃袋を肥やす。唯物的に大自然をかえりみれば、大自然は正にこれ死の倉庫というべきで、うした観察が、そもそも現代的功利思想を醗酵はっこう醞醸うんじょうせしめたる最大原因かと信じます。

 しかしながら、右の観察は、わずかに楯の半面を覗いた丈で、肝腎な霊魂方面を、全然無視してるから駄目であります。大自然が物質的肉体を軽視するのは、不朽不滅ふきゅうふめつの霊魂に比して、まで重要でないからであります。肉体の主なる職分は、霊魂をして経験を積ましむる為の手段であって、要するに肉体は、霊魂の従属物であります。霊魂が主人公であって、肉体はその容器に過ぎない。容器が滅びても、主人公が一切の意識、一切の記憶を保存しててくれれば、ずそれで我慢せなばならない訳であります。

 く述べ来った時に、再生の意義が、ほど明瞭になった筈だと思います。つまり再生とは、取りも直さず、不朽ふきゅうの意識体(即ち霊魂)が、その発達程度に相応した肉体を与えられ、これによりて、直接物質界の教訓に接する、一の肝要なる装置である。――そう言って、ほぼ大過なきに近いと思います。


現代の不安と再生説
一、神霊主義と再生説

目  次

再生説の真義
二、地上生活は一の分教場


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