心霊文庫16篇 『再生問題の検討』

現代の不安と再生説

二、不公平な現世

 私が今更いまさらここに申上ぐる迄もなく、地上の生活、人生というものは、それ丈見れば何という矛盾に富み、何という不公平な舞台でありましょう。宇宙の中心には、道徳律というものは絶無なのかしら……。誰しも一たんはそうした疑惑を抱きたくなります。

 日々の新聞紙を開いて見ても、いかに滅茶苦茶な事柄ばかり多いのでしょう! 昔からよく言わるる弱肉強食、――実際これが現世の姿なのであります。善人必ずしも栄えず、悪人必ずしも亡びる訳でない。一たん暴風雨あらしが吹きおこると、幾十幾百という血気の若者が、船と共に海底の藻屑となりますが、資本家の船主達は、懐手ふところでをして保険金でも受取って、太平無事な顔をしてります。一たん流感が流行はやり出すと、陋巷ろうこうのプロは枕を並べて、その犠牲になりますが、父祖の資産を受けついだ以外に、何の働きとてもないブル連は、十二分の手当を受けて、比較的安気に難局を切り抜けます。浮かれ男を花柳のちまたに送る自動車のめに、無残にもひき殺さるる無心の小児、党争の犠牲となりて、うっかり法網に触るる無智の良民……。何という片手落な、不都合千万な世の中でありましょう! 経済学者のミルは、かつんなことを申しました。『世の中に神様があるとしても、その神様はよっぽど無頓着なのか、それともよっぽど無能力で、ドウする力もないものなのかに相違ない……。』全くもって一応無理からぬ言い分であります。

 公平にてこの世では、正しき者必ずしも賞せられず、よこしまなる人必ずしも罰せられずであります。富貴栄達ふきえいたつは、多くは凡骨の手に握られ、先覚せんかく有為ういの士は、多くは不遇に泣くのが通り相場であります。世間が拍手喝采する成功者というものの大部分は、実は体のよい詐欺師であります。世間で排斥し、しくは、無視する人物の中には、往々国家社会の中心骨髄となるべきものが混って居ます。現状だけに就いて観察すれば、全く愛想のつきた人生であります。

 数年前英国で釈放された、一人の終身懲役囚がありました。彼は二十年前、認定裁判の結果有罪を宣告され、爾来じらい引きつづいて苦役に服したのでした。所が、真の犯人は他にありまして、その犯人が死に瀕して罪状を白状した結果、初めて前者の無罪が判明したのでありました。そこで、監獄の教誨師きょうかいしが、右の釈放された気の毒な人に面会して、神の愛を説き、キリストの約束を説いて、極力慰めにかかりましたが、二十年の不当な苦役に心身共に破壊されました本人は、皺嗄しわがれた悲痛の声を絞りて、教誨師きょうかいしに向ってく申しました。――

『あなたは、私の監獄につながれたのを、神の御旨ぎょしから出たとおおせられるのですか? し神に愛があり、正義があるなら、何故なぜ私がんな運命に陥らぬよう、取計らってはくださらないのでしょう? 私はうした苦痛を受けるような、悪事を犯した覚えはありません。私は家族のめに、一生懸命に働いてた、つまらない、しかし正直な人間でした。心から愛する私の妻と、二人の子供を飢餓ひぼしにするのが、神の思召であったのでしょうか? その後妻子達はうなったか、何の消息とてもない所から察すれば、恐らくうに死んででもしまったのでありましょう、それから現在のこの私、……芥溜ごみために棄てられた、大根の尻尾しっぽも同然の身の上、今更いまさら何としようがありますか? あなたはしきりに神の愛を説かれますが、そんな神の話などは、私には用事がありません。これで御免を蒙ります……。』

 これには教誨師きょうかいしも、何と返すべき言葉もなく、痛む胸をかかえて、空しく辞し去ったということであります。

 これに、類似せる裁判事件が、大正十四年三月十二日、我国の大審院にも起りました。これよりき大正十二年十一月三十日午前三時頃、大阪府下千里山村の某雑貨店に、二人組の強盗が入った。功を急ぐ刑事連の活躍の結果、同村の片山貞雄、吉田寅吉の両人を犯人なりと睨んで、未決監に投じ、第一審、第二審とも犯行明白という理由で、貞雄には六年、寅吉には五年の懲役を言い渡した。被告等は身に覚えがないと言い張り、大審院の審判を仰ぐことになったが、事件発生後一年余をた、大正十三年十二月に至り、二人の真犯人が、ひょっくり現われたので、前期二人の無罪が明白となり、検事の論告で、判官連も一議に及ばず、その冤罪を認めた。つまり被告達は冤罪と知りながら、鉄窓裡に一年三ヶ月服役したのでありますが、その間に、右の吉田の実父政吉は、懊悩おうのうの結果憤死し、つづいて同人の娘久美(二歳)、並にその若妻鈴江(二十三歳)等も、ことごとく不帰の客となり、随分悲惨を極めました。矢追検事はその際本人に向い、運命とあきらめよと言いきかせたそうですが、これはなり不徹底なあきらめ方で、そんなことで、安心立命を各人に強ゆる力は、到底なかりそうに思われます。

 んな場合には、宗教家はよく来世を担ぎ出し、現世の不幸は来世で償わるるなどと申します。しかし考えて見ると、この説明には多大の無理があります。んな出鱈目の現世を造り上ぐる神に、うして完全な来世なり、天国なりを造り上ぐる技能があるであろうか? 論理的に考えて、うしてもそんな論法は、現代人の腑に落ちないのであります。再生論が、ここで当然出現する順序になるのであります。

 しもすべての霊魂が、その出発点(即ち現世へ出生の当初)において、平等一様のものであるなら、何故に人間の運命がかくも不平等、不平均なのでありましょう? 何故なにゆえに各人公平に、その能力を発揮すべき機会を与えられぬでありましょう? 物質の世界を見ると、いかにも事々物々がキチンとしてる。自然律というものは、あくまで正確で、堅実で、千万世を通じて一分一厘のあやまりがない。ここに物理化学、その他一切の物質科学の強味がある。しかるに貴重なる人間の生涯のみが、出鱈目極まる運命や、神の気まぐれなどに左右さるるとありては、何としてもあまりに不可解である。何としてもあまりに腑に落ちな過ぎる。

 われわれはうした疑問に逢着した時には、っぽど沈思熟慮の必要があると思います。いたずらに自然の不公平を怨んだり、神の片手落を罵ったりする前に、ず自然界の法則に対する、われわれの理解力の有無を反省して見る必要があると思います。人間が電気の法則を理解しなかった時代に、電気は単なる無用の長物、もしくは危険物でありました。しかるに一たん電気の法則を握って見ると、電気は人生必要の貴重品と化しました。つまり電気その物には、何の相違もないのでありますが、これに関する人間の知識の有無によりて、人生の幸不幸がわかれたのであります。

 丁度これと同様の事が、超物質の世界にも存在するのではないでしょうか? 換言すれば、われわれが精神界を支配する、る大切な法則を知らずにるがめに、処世の上に大損失を招きつつあるのではあるまいか? この際一部の論者のように、いたずらに人間の平等を唱えたところで、それが何の役に立ちましょう? 平等などとは真赤まっかな嘘、人間は肉体的にも、精神的にも、道徳的にも、又霊的にも、徹頭徹尾不平等なのが、実際の事実なのであります。

 る人々は、生れながらにして、頑強な肉体をってるが、ある人々は、吹けば飛ぶような、あわれな肉体をって生れます。る人は優美高尚、ある人は粗野醜悪、ある人は雋敏しゅんびん鋭利、ある人は低脳愚劣、……イヤ平等という事は、自然界において、立派に否定された事実です。境遇もまた人によりて各々違います。一人の小児は黒奴の腹から生れ、最初から暗き、狭き人生を辿るべく運命づけられてります。ところが他の小児は、学問文芸の中心に於ける良家庭に生れ、最初から洋々たる希望に充ち充ちてります。しもわれわれが、現世に出生の当初において、はたして平等であるのなら、うしてんな片手落の仕打が起って来るのか?

 この際一部の宗教家のするように、良い加減の気休めを並べるなどは、はなはだつまらない仕事であります。そうかと言って、一部の社会主義者の主張するように、いかに外面的組織制度だけで、人為的にこの不平等を除去しようとしたところで、それもまた駄目であります。人間の容貌一つでも醜を美に、黒を白に、ちょっとでも変え得る力がありましょうか?

 く考えた時に、是非ともここに、この人生の大なる謎を解くべき、一の完全な鍵が欲しくなりますが、その鍵というのは、他にあらず、私がこれから説かんとする再生説であります。

『再生』は、実に人生の裡面において、力強く働くところの、自然の法則の一つでありまして、これを認むることによりてのみ、初めてわれわれの生活が有意義になり、又われわれの生活に光明が射します。

 再生論の意義、内容、又その証左等につきては、到底一度や二度の講和で説き尽くすことができません。これから毎月本会の席上で、引続き申上げることに致します。そしてし私の渡欧出発以前に、講話が完結しなかったら口で述べる代りに、筆で書くことに致します。本日はほんの序論だけで失礼します。

 (昭和三、三、廿五、於大阪心霊研究会)


現代の不安と再生説
一、神霊主義と再生説

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再生説の真義
一、再生は物質界の経験
に接する装置


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