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果たしてウイルソンか?

(十三) 遠くて近い間柄

 五月二十三日の通信は、前にもしばしば持ち出された幽明通信に関する問題であるが、ちょっと棄てられぬ、良い個所があります。――
『思想の伝達は電光石火式で、少しも距離の影響を受けないように見える。で、あなたの方では、吾輩があなたのからだに憑り、自動書記の実現を監視でもして居るように思われるかも知れませんが、それはかならずしもそうではない。ドーも吾輩はよほど遠距離に離れて居るらしい。ただ中間の距離は有っても無くても一向無関係なのである。吾輩が何所どこに居たとてあなたの呼びかける声はすぐ私に達し、これに対する吾輩の答はすぐあなたの心に徹する。遠くて近きは実に幽明の通信だ
『ところで、われわれを単に思想のみの凝塊かたまりだと思ってくれると大に勝手が違います。われわれにも矢張り情緒的方面が備わっている。われわれの総本体が情縁と思想との双方から成立して居ることは地上の人間と何の相違もない。早い話が霊界の住人とは要するに肉のわずらいから解放されたただの人間である。生長とか、老成とか、衰弱とか言ったような、うるさい変化、うるさい拘束から救い出され、いつも円満具足して居るところの普通の人間に過ぎない。従って精神的には不断の向上不断の進歩を遂げねばならない。さもなかったら造りつけの人形見たいになってしまう。われわれの形体とても自分達には立派な実体として映ずる。これに反してあなた方こそ、われわれの眼に影のような、幽霊のような、よくよくたよりのないものに映ずる。要するにこれはわれわれの実体観とあなた方の実体観との相違であります。吾輩はもともと科学者としての素養のないものであるから、ドーいう理由でわれわれの姿が実体らしく映ずるのか、今あなたに説明してあげることができませんが、兎に角あなたがこちらの世界に引越して吾輩と握手する時に、これが実際肉も血もないからだであるとはドーしでも信ずることができないでしょう。ですから、こちらの世界で初めて覚醒する連中は、自分がはたして死んでいるかドーかをよく疑います。それは地上のものと類似の点があまりにも多いからです。最もそれは彼等がまだ霊よりも肉の分子を余分に持って居る時のことで、要するに新らしい世界のキモノがしっくり躯に附いていない時です。特に帰幽者が自分の眼前に旧友を認める時に、その戸惑とまどいは一と通りでない。『こりゃ自分はてっきり死んで居はしない。死んでいる筈がない、ジョーが居る……ベッツィが居る……。』あにに図らんや、右のジョーもベッツィも二三十年も以前に帰幽して居るのである。
『そうした戸惑とまどいは次第次第に消散し、畢竟ひっきょう死は一の橋梁見たいなものであり、そして自分はその橋を渡って彼岸に達したのであるという事の会得えとくができて来る。
『誰しも最初は悔みもし、又泣きもするが、この道ばかりは逆戻りのできないことがだんだんのみこめる。河の彼岸には影像の世界があるが、その影像こそ彼が後に見棄てた現世の人間達である。人間の方ではアクセクと日常の仕事に忙殺され、一つかど活動して居るつもりでいるが、こちらから見ればただ薄ぼんやりした影に過ぎない!
『その変化があまりに激しく、あまりに劇的なので、最初は誰しもほとんどその事のみに心を奪われて居る――さながら新陸土に到着した旅人の如くに……。時とすれば、後に見棄てた人達が懐かしくてたまらず、哀傷あいしょうの涙に暮れつつ早くそれ等と接触しようと試みるものもある。
『接触することは何の造作もない。愛する人達の慾念は刻々とこちらに響いて来る。しかし地上の人をして自分の存在に気づかせようとすると、それは極度に困難で、いかに思慕の情を寄せて見ても人間の方ではとんとそれを受けつけてくれない。それが死の最大の悲痛である。
『霊媒の力を借りて通信することもかならずしも面白いとはわれない。死後の良人は地上の愛妻と直接通信がして見たい。ところがわれわれの発達程度では――顕幽両方面とも――それが一般にできかねる。しかしやがてそうしたことのできる時代が来る。
『電信だの、無電だのが発明された如く、そうした交通のできる時代はかならず来る。
『今一歩のところだ。相違せるエーテル波動の調節ができさえすれば、山脈の両側からのトンネル工事がきっと出会うに違いない。』
『その時になったらわれわれはこんなたよりもない事のめに、何故なぜあんなに長い歳月の間苦しんだのであろうと不思議がるに相違ない。』


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