横森家に搦まる因縁譚

横森家に搦まる因縁譚

〔附〕 雪の甲州

 三月二十日の朝起きて見ると、夜来の雪が二三寸つもっている上に、まださかんに降りしきる。

『これでは甲府は寒いナ。』と思ったが、ねての約束なので、出発の準備にかかる。好田青年も兵庫県へ帰省の途次、中央線を通過して同行したいというので、その旨を承諾する。

 今度の甲府行きは、もともと春の行楽などという、しゃれたものではない。前記の韮崎在穂坂村の横森家を訪ねて、例の不動の掛物を見たり、家族の人々や、村の人々に逢って、事情をききただしたり、又帰郷中のかぬ代女に面会して、神懸りをしたり、又できる丈、武田家に関する記録を集めたりしたいと思っての小旅行である。

 途中の景色は、降りしきる霏雪ひせつでさっぱり判らない。やがて午後の三時過ぎ、甲府の停車場につくと、前約があるので、大野黙之助氏が待合せて居て同車し、同勢三人となる。韮崎に着く頃には、幸い雪は降り止んだが、空はどんよりと曇って、寒さは肌にしみ透る。こと辟易へきえきしたのは、雪融けの道路の極端に悪いことで、和服の自分は少なからず弱る。小憩の後、村から迎えに来た案内人に連れられて、韮崎を出たのは四時過ぎであった。穂坂村は茅ヶ嶽の裾に位する、極端な寒村なので、むろん乗物などは通らない。田圃たんぼ路を通りぬけ、急流を渉り、爪先上りの赤土路を、グチャグチャ登って行くのであるが、きの方へ行くと、人通りがないので、雪が一面に敷きつめていて、下駄ではほとんど手古摺てこずった。一里余の里程に過ぎないが、少くも五六里歩いた位くたびれる。薄暮はくぼ横森家に着く。

 その夜は炬燵こたつに暖まりながら、市太郎老人、及び二三の村人達から、故市兵衛老人の思い出噺をきく。明治二十四年に死んだ人なので、生前の状況を知っているものは、まだなり沢山残っている。市太郎老人は、その時二十七歳であったそうナ。二三時間閑談かんだんの間に、大分要領を得る。

 翌二十一日は終日曇天で、寒気はすこぶる強い。朝の間に早速例の不動の掛物を観る。自分は斯道しどうの素人だが、るほど尋常の品でないと肯かれる。驚かれるのはその絵具で、古いものでありながら、鮮麗眼を奪うものがある。これも家人その他の証言により、祖先伝来の宝物に相違ないことが判る。惜しい哉両度の火災で、これに関する貴重の傍証、かの書置きが焼けてしまっている。

 午後かね代女は、不動の掛物の前で神懸りなる。例によりて市兵衛老人の霊魂が懸って来たが、村人の甲乙たれかれを捕えて、数十年前の当時を語り、又訓戒を加えるところ、ドウ見ても市兵衛老人そっくりであるというので村人一同驚歎してしまう。一時間以上にわたり、いろいろの事を述べたうちに、んなことを言った。『このかね代の身体は、三十六年間に使い切ってしまつで、一旦死んだのだ。今生きているのは全く不動の力だ。このからだは火食はできない。湯でも飲まして見ろ! すぐ死んでしまうぞ! もちろん男女関係などもできない。――飯を食ったり何かする汚れたからだに世間で不動がのりうつるなどというのは皆うそだぞ! この女はうしてこれから、不動の御用をするものだから、はたの人もよく気をつけてやるがよい……。』

 実際かね代女の近状は不思議きわまるもので、最近の十日間は、生米さえ食わず少許しょうきょの果物と沢庵とを食っている丈である。先日単身東京から帰るに際しても、一里余の山路を歩くに、ごうも疲労を覚えなかったそうで、大分先年の長南年惠女の状況に酷似している。その癖われわれのめには饂飩うどんを作ったり、酒を温めたり、一心に歓待の労を執っている。

 その日は又十余人の村人達と、いろいろの談話を交換して、得るところがすくなくなかった。又武田信玄に関する材料なども、少しばかり手に入れた。

 翌二十二日は朝から快晴、初めて雪の甲州の、秀麗な山河に親しむことができた。しらべることは沢山残っているが、ほぼ見当丈はついたので、一とず引きあげることにきめ、市太郎老に韮崎まで送られ、十二時四十分の汽車を捕えた。好田君とは韮崎で分れ、大野君とは甲府で分れ、後は独りで薄暮の頃鶴見に戻って来た。

(大正十五、三、二十三日朝誌)


十、一片の甘藷で死に瀕す

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(完結)


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