横森家に搦まる因縁譚

横森家に搦まる因縁譚

四、深き因縁の発生

 私は最近三回にわたり、かね代女を神懸状態に導いて、彼女の曾祖父、横森市兵衛という人の霊魂から、なり詳しく掛軸の由来その他を聴いて居りますから、前後の筋道を明らかにすべく、すべてを引っくるめて、記述の筆をすすめる事に致します。

 物語は今を去ること三百四十四年の昔、武田勝ョの滅亡の時までさかのぼります。各方面の戦はことごとく不利に陥り、味方は離叛者りはんしゃ相つぎて、いよいよ武田一門の滅びるべき時節が来たのは、天正十年三月の十日前後のことでありますが、その危機一髪の際に於て、わざわざ勝ョの許に馳せ参じた、忠烈の武士が二人ありました。それは佐菜山備中守、同じく備前守という兄弟であります。この二人はきに主公の勘気に触れ、それまで閉門して居たのですが、いよいよという間際に、主人の急に赴いたのであります。これには勝ョも大いに喜びましたが、このまま武田一家を全滅さしては、先祖にも相済まず、又残念でもあるというので、当時三歳の一子勝王(?)に、武田家伝来の至宝『不動明王』の一軸を添え、備中守をして、囲を衝いて、信州の真田を便たよって落延びさせました。右の不動明王の掛軸というは、たしか武田家の祖先が、南朝の天子から拝領の品で、武田家に取りて、事の外大切の品であるのみならず、信玄が日頃信仰して、陣中までも携帯したものであり、その死するに臨みては、『自分の霊は、永久この一軸にこもって居るから、以後これを自分の御霊代みたましろと心得よ。』と遺言したほどの宝物でありますから、勝ョも自分と共に、之を失うに忍びなかったのでありましょう。他方には又三歳の小供こどもが、勝ョの実子に相違ないことを真田に知らすべき、最も有力なる証拠物件とも考えたでありましょう。兎に角うして備中守は、泣く泣くも死を待つばかりの、残り少なの主従に別れ、信州をさして進発したのでありますが、モウその時には、敵の手配りがすっかりできてしまい、又土民の気も知れないので、とうとう目的を達することがきず、暁近くひそかに門を叩いて、庇護を頼んだのは、外でもない、韮崎のざいの穂坂村宇久保の横山家なのでした

 その頃の横森家には、夫婦の間に子供がなく、至って無人ぶじんでしたが、夫婦は親切に、この貴重なる落人達を庇護しました。しかし先方では、あくまでもその素性を秘し、『姓名のみは聴かないでくれ』と頼みますので、くだんの武士が佐菜山備中守であり、その連れて来た子供が、勝ョの実子であることは判らないのでした。

『その姓名が初めて判明したのは、私が死んで霊魂となってからでした。』

 そう市兵衛の霊魂は、かね代女の口を借りて私に申しました。

 なりの長い間、主従は暗い納戸の裡に隠れ、村人にも顔を見せないで、脱出の機会を待ちましたが、時が経てば経つほど、周囲の形勢が不利となるばかりでした。とうとう備中守は、ある夜一通の遺書を認め、割腹して相果ててしまいました。その遺書は、三十余年前まで、横森家に秘蔵されて居りましたが、親戚に預けてある中に、不幸火災に罹り、焼失してしまったということです。市兵衛の霊魂からきくところによれば、その文章といい、筆蹟といい、まことに見事なもので、大意はんなことだったといいます。――

『自分の名も、又連れて来た小供こどもの名も、絶対に明かすことはできないが、あの子供は、大切な子供であるから、不動明王の軸と共に、横森家の宝として大切に預かってもらいたい。お前達の所には、子供がないそうだから、この児を相続者として、平民にして貰えば結構である。自分の遺骸は、人知れずこの家の床下に埋めてくれ。又着用の鎧、兜、剣、陣羽織などは、わが亡き後に、黙って、ある所のある邸へとどけてくれ……。』

 横森家の先組は、その遺言の通りを実行したので、鎧、兜、剣、陣羽織等は一品もなく、ただ不動明王の掛軸のみは、歴代の人々の熱心なる尊崇の対象物となって、大切に保存されました。一方横森家に預けられた武田家唯一の遺児は、その後遺書に示されたとおり、横森家の一養子として、草深き田舎に育ち、通称を信一と称して、年頃となって嫁を迎えましたが、結婚後間もなく、かの遺書を読みて、自分の身の上に勘づくと同時に、流石に武田家の血が流れて居る若者だけありまして、慨然として割腹して、これも備中守の後を追いました。その遺骸も、横森家の床下に埋葬されてあるということです。

 斯うして横森家の邸と、不動明王の掛軸と、武田信玄の霊魂とは、切っても切れぬ密接不離の因縁を生むに至ったのであります。


二、問題のかね代女

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五、掛軸の盗難


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