附録 長南年惠物語

十 其の晩年と逸話

 神戸で無罪の宣告を受けはしましたが、重ねがさねの裁判沙汰は余程無邪気な年惠女の精神に癒すべからざる瘡痍そういを蒙らせたようです。『大阪などにるのは厭だ!』――そう言って彼女は翌三十四年にさっさと郷里の鶴岡に帰ってしまいました。従って京都大学にたのんで実験させようとした長南雄吉氏の最初の計画は、この時にも実行されずにしまったのでした。

 年惠女を学問研究の対象とするには周囲の状況がまだこれを許す迄に進歩して居ないと痛感した長南氏は、止むなく従来の計劃けいかくを放棄し、郷里の信徒達の望みに任せて惟神大道教会と称する一の教会を設立しやり、叔父の某をしてそのりをさせて置くことになりました。そうする中に明治三十八年に至り、老母が死んで可憐な年惠女はいよいよ心細い身の上となりました。その際帰国した長南氏は、モ一度是非ぜひ大阪へ来るがよいと姉にすすめ、当人はその気になったのでしたが、不相変あいかわらずその時も身辺の頑固連やら策士連やらに阻止されて、とうとうその決心を実行するに至らなかったのでした。

 明治四十年の十一月長南氏が朝鮮に行って不在中、年惠女は郷里で急に歿しました。死期に先立つ二た月ばかり前から、年惠女にかかれる神は『お前は近い中あの世に連れて行く』と時々ささやいたそうです。で、親戚の相田良孝という人が大変心配して、長南氏に急いで帰国して呉れと言って来たのでしたが、長南氏はうしても手離し難い用事のめに、心ならずも朝鮮に出張し、そのめに姉の臨終にも逢われなかったということです。

 年惠女の歿後、親戚やら信徒やらが集まりて郷里の邸内に一のささやかなるお宮を建て、この無垢の女性の霊を祀り、今でも参拝者の影は絶えぬということです。

 年惠女の神懸かみがかりに関する実話――例えば日清日露戦争中の預言、社会に対する予告、紛失物の捜索、病気の治療等――に関しては、到底ここその全部を紹介するの余地がありませぬ。それ等の記録は後日これを整頓することとし、最後に六月二十八日附で長南氏から私の許に報告された左記書簡の一部を紹介して一とず擱筆することに致します。――

『……姉の奇蹟的事実に至りては数限りも無之侯えども、不取敢とりあえず左に二三を摘出して御参考に供し侯。

 一、明治三十三年二月小生帰郷中、る夜午後九時頃本人が突然影を失い、家の中の何所どこを捜しても見当りません。当時雪は三尺以上も積りり、し外出したとすれば足跡がある筈だと、信者共が半ばは心配、半ばは好奇心で、夜の更くるも知らず話し合ってりました。すると、午前三時頃に至り、縁側えんがわにドシンと奇異の物音がしましたので、一同駆けつけて見ますと、姉が四方囲ひをした縁側――雪国では皆囲いをします――に立ってて、おお寒い寒い神様が妙な山へ連れて行ったものだから、中々寒かった、と言いながら座敷へ入って来ました。そこで吾々は念のめに足跡の有無をしらべて見ましたが、それらしい痕跡は露ほども見当りませんでした。

二、神懸りのなき際は、姉は十四五歳の子供の如き遊戯を好み、例えば綱引きをするとか腕相撲を試るとか、重い物の持ち競をするとか、そんな事ばかりして笑い興じてるのでした。綱引きとか手拭引きとかの場合に、大の男が真剣になって三四人で掛っても姉の怪力には及びませんでした。ただ不思議なことには人が姉の背後うしろに廻ると、その怪力はたちまち消失するのでした。

三、姉はよく登山をしました。富士登山の際の如き、自分で蒲団を脊負い、一行の先頭に立って飛ぶが如くに進み、同行の七八人は弱ったという話です。私が同行したのは、羽後の鳥海山と羽前の金峰山のみですが、いつもその健脚には驚かされました。途中姉は地上に平伏することがありましたが、そんな際には空中に必らず笛其他そのほかの楽声を耳にしました……。』


九 大阪毎日新聞の記事

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補遺


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