附録 長南年惠物語

三 竹に栗鼠

 明治二十五年の帰省に際し、長南氏が郷里に滞在した日数はたった五六日でしたが、それでもこの人の胸底に心霊現象に対する興味と理解とを植えつくるには充分であったようであります。実地の体験となると不思議に根強い印象を与えるもので、それが永久にその人の精神のかてとなる場合が多いのであります。長南氏の場合の如きは確かにそうらしいのでした。同氏がその後の姉の動静に対する注意のいかに綿密に、いかに真剣になったかを見ればよく判ります。同氏は熱心に物語をつづけました。――

『私の郷里滞在の時日ははなはだ短いもので、祖母の葬式が済むや否や、私は母と姉とを郷里に残して又大阪に出てまいり、相変らず世間の俗事に奔走してりましたが、明治二十七年に至り、郷里の親戚縁者又村の役人、学校の教員等から、頻々として姉に関する通報が私の許に舞い込んで来るようになりました。ヤレ姉の年惠は近来全く両便が不通になった……。ヤレ姉の日清戦争に関する予言は一分一厘の誤差なく皆的中した……。ヤレ不思議に病気が治るので、北海道辺からも依頼者が雲集する……。まあう云った種類の事柄で、兎に角郷里の方では大騒ぎであるから、一度都合をつけて是非ぜひ私に帰って来いというのです。

『これが唐突だしぬけはなしなら恐らく私は一笑に附し去ったかと思われますが、明治二十五年の帰省のお蔭で多少の興味は私の胸にも湧いて居ましたから、帰心は真に矢の如きものがありました。が、何を申しても当時の私は俗界に縛られてる身でドーする事もきず、心ならずも空しく数年を送りました。

『が、明治三十一二年となりますと、郷里のほうではモー承知しなくなりました。近頃は不思議な現象がいよいよ顕著であるに連れて官憲の圧迫が劇甚である。早く帰国の上何とか処理をつけてくれ。愚図愚図してるべき問題でない、というのです。官憲の圧迫ということを耳にしては私も其侭そのまま放任して置けなく感じまして、百忙中に一閑を割き、急いで帰国したのは、たしか明治三十二年の七月の事でした。

『ところが、帰って見ると、今更私は吃驚びっくりしました。婦女おんな二人ふたりの閑寂なるべき筈の私の生家は、まるで黒山のような人だかりで、それを出張の警官達が追い払ってるという騒ぎです。

『段々落付いてしらべて見ると、斯様かような人だかりがするのも決して無理ではないと思わるる奇現象が続出してるのでした。姉の身体からだに神様がいざ御降臨おくだりとなると、ず驚かるるのは空中に種々の音楽が聞ゆる事で、それは笛、篳篥ひちりきソウ、錫、鈴等の合奏であります。それまで私は風評うわさにはきいてたが、心の中ではよもやと思ってりました。所が、いよいよ現場に臨んで見ると実際嚠喨りゅうりょうたる楽声が虚空に起り、しかもそれが分明はっきりその場に居合せる数十百人……警戒の巡査達の耳にまで聞ゆるのです。数日滞在の間に私も五六回それを聞きました。

『それから親しく実況を目撃していよいよ呆れましたのは、姉の生理状態の以前よりも一層極端に変調を呈してることでした。私が参りました時には絶食正に六ヶ月、従って用便全く不通、生水なまみずなら少しはめるが、その外のものは一切口に入れないという現状でした。――その癖、当人の健康状態は頑強無比、肉附もよく一斗や二斗の水桶を平気で提げて歩くのです。

『モ一つ驚きましたのは、姉の身体からだに神様が憑依のりうつったとなると、態度も音声もまるで別人格となり、そして衆人環視の前で一気呵成的に立派な文宇を書いたり、絵をいたりすることでした。申上ぐる迄もなく姉は全く無学で、そして平常はよくよく無邪気な、ほとんどバカ見たいな資質たちの女なのです。所が、その神懸りの製作品となると斯の通り素晴らしいものです。』

 く述べて長南氏は古色を帯びた半切の掛物を繰り拡げて私達に見せました。それは竹に栗鼠りすの図で、墨色といい、筆勢といい、又構図といい、正に一流の大家の作品です。

『イヤーまるで狩野だ! 神懸りの絵と称するものも沢山あるが、これほどのは、全く見たことがない!』

 私達は右の絵画に対して、おぼえず感歎の辞を漏らさずにはられませんでした。長南氏はこの絵を描いた二十余年前の実況を思い浮ぶるような面持おももちで、

『あの時私は姉が什麼どんな様子ようすをしてくか、その一挙一動にまでも注目して居ました。するとその両眼はガラスのたまのように、キュッとはって、心持ち目尻めじりが釣りあがって、有り合わせの筆を執るより早く、差し展べた紙にこれをいてのけたのでした……。』


二 湯冷しを飲みて吐血

目  次

四 鶴岡監獄支署の
事実証明


心霊図書館: 連絡先