続幽魂問答

十 後記

 これで幽魂問答はいよいよ終結であります。

 翌十三日になりて病人を見ると、全く元の通りの平々凡々の市治郎にかえってしまいました。彼は宮崎氏に向い、苦しげに次ぎのような事を述べました。――

『先月来私の病気は追々平癒に赴き、悦んでりましたところ、一昨日から又々私の知らぬ間に例の武士の幽魂が取りいたそうで、今は手も足もいたんで耐り兼ねます。』

 余程よほど痛いと見えまして、彼は顔をしかめながら語るのでした。

『一体人も多いのに、何故なぜ私のことばかりく苦しい目に逢わせるのでござりましょう。貴下あなたがたは彼を神に祭ると申されたそうにござりますが、私には左様の心は毛頭もござりませぬ。むしろこのからだなほり次第彼様あんなものの墓をあばきて恥をかかせてやりたい位でござります……。』

 そう言って、歯がみをして口惜くやしがりましたが、一応もっともな点もないではありませんでした。

 十三日の昼頃迄には諸事皆形づきましたので、宮崎氏は七ッ前に帰宅してそれより問答の手控えを取出し、原稿の整理に着手しましたが、くる十四日には又使者が来て、病人はなはだ痛み強くつ昨日以来余りに腹を立て過ぎたので疲労はなはだしく危き由を告げますので、宮崎氏は久我浦の医師濱地玄央という人と共に岐志浦に赴きました。

 岡崎家には例の三木、吉富の両医師がすでに病人の側につめてりました。両人口を揃えて

憑物つきもの最早もはやりますまいが、いかにも大病でござるから、今一応平癒の御加持をして戴きたうござる。』

と申しますので、宮崎氏は早速加持を行いましたが、別に怪しき事もなく、ただ病勢がますます募り、危篤に陥るのみでした。

 十四日以後十九日頃迄の病状並に其間そのかんに起れる出来事は医師吉富養貞氏の記録が要領を得てりますから、これをそのまま左に掲げます。――

ここ一両日は病人の痛みことに強し。よりて桜井の医師美和鶏麿をも招ぎて五六輩の医家種々に心を尽せどもそのしるしなし。十七日の夜には看病人も皆疲れて、前後不覚に眠り、病人の市治郎独りつくねんとして心細きこと限りなく、いずれこの度の病気はとてもなほるまじと観念し、はらわたを絞りてありたるに、不図ふとそのまま睡気ねむけづき、ウトウトとなりし時、何所いずくよりともなく、いとすずやかなる声にて、市治郎起きよ起きよという声聞ゆ。誰なるかと思いてねたるまま後方を見れば、年齢二十歳余りにて色白く、髪は総髪にて眼光まなざし鋭く、身には黒羽くろは二重ぶたえあわせようのものを一枚着したる人品卑しからぬ一人の武士たたずたり。市治郎別に怪しとも思わず、其許そこもとは何人にやと問うに、頭を打ち振りて返事はなし。依りて市治郎は床の上に起き上り、右の武士に向いて坐れば、月一ぱいなるぞとの言葉なり。やがて件の武士は市治郎が背後うしろにまわり、乱れたる市治郎のかみを掻き上げ、頭から肩先き、それから腰までも段々に揉みやはらげつつ、でて呉れる心地よさ、総身おのづと汗ばみて、ツイうつらうつらとする程に、又も起きよと言う。眼を開きて見れば、その行燈あんどうの火にてたばこりしが、つと立ちて、此度このたびは前の方にまわりて胸より腹、それから両腋下りょうわきしたまでも撫で和ぐることやや久しく、市治郎いよいよ心地よきまま、不図ふとその人の背部を見るに、其所そこには@の形の紋所もん附きたり。その人、長らくの間汝を悩ましたるははなはだ気の毒なり。されどこれにて身体は次第に本復すべしと、述ぶると同時にたちまち煙の如く消え失せたり。ここに市治郎初めて今見し姿が人間にてはなかりし事を悟り、余りに恐ろしくありしかば、妻をび起して薬を煖めさせて飲みたる頃、夜はほのぼのと明けわたりぬ。翌十八日の朝市治郎は父傳四郎、医師吉富養貞を呼びて夜中に起りし事をつぶさに語る。その朝より心地はなはだ穏かなり。同人は頭痛が持病にて八月以来これのみは止まざりしに、今朝は洗い上げたるように気分宜しという。養貞脈を診るに、病ほとんど平癒しれり。九月十九日。吉富養貞』

 其後そのご市治郎の病勢は日を追いて軽快に赴き、九月二十九日頃には平常に復し、十月一日には産土神うぶすながみに参籠し、同四日には下僕しもべ一人を召し連れて宮崎氏の所へお礼にまいりました。その時宮崎氏はかの『楽』の字の書を取り出して市治郎に見せますと、市治郎は驚嘆し『一昨日は父の不在のめに私が触状を写そうとしましたが、手がふるえて字が書けませんでした。これは私の手を借りられたこととは言いながら、さても見事に書かれたものでござる』と言うたのでした。

 その後岡崎家には何の凶事も起りませんでしたが、翌天保十一年正月霊前に元旦の供物を捧げることを失念したので、一寸気障きざわりの事がありました。しかし後に改めてお祭りを行い、無事に治まったそうです。

 同年六月に至り、岡崎家では石工に命じて高さ二尺二寸の石碑を造らしめ、碑面には市治郎が見た紋所もんと『高峰天神』の四文字を刻し、お墓石の表には吉富医師の書いた年号と銘とを刻みつけました。又裏面には幽魂の自筆にかかる『七月四日』を刻し、全部落成したのは同年七月四日でありました。

 不思議な事には泉熊太郎の幽魂の予言はことごとく皆的中し、七年の内に傳四郎は下浦の大庄屋役、又市治郎は浦庄屋役となり、家族が殖えて二十八人となったそうであります。


九 霊遷しの式

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長南年惠物語


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