続幽魂問答

一 火事騒ぎと幽魂の再出現

 泉熊太郎の幽魂が首尾よく市治郎の躯から離れたのは八月二十四日の夜中の事で、家族のものはもとより、関係者一同もヤレヤレと重荷を降したような気がしました。就中なかんずく歓んだのは悪霊退散の修法を引受け、見事にそれに成功した宮崎加賀守大門でした。『近頃になく骨は折れたが、しかしこの気持はまた格別じゃ……』彼は心ひそかに北叟笑ほくそえみました。

 くる八月二十五日宮崎氏は唐泊浦下浦の大漁祭の施行を依まれ、そこへ出張中でしたが、二十六日同氏の許に吉富医師からの書状が届きました。それには市治郎の病状がやや軽快の兆あることを報じ、お筆末には、自分も今回の事実を記録にとどめる所存であるが、足下も是非ぜひそうして置いて貰いたいとの依頼が書いてありました。

 二十八日宮崎氏は大漁祭を終りて帰村し、二十九日に傳四郎氏を訪問して見ると、市治郎は夜具にもたれて床の上に起きて居ました。『ドーじゃ、七月四日以後の事を覚えてるか』とたずねますと、市治郎はまだ弱々と微かなる声で『七月四日祖父の墓に詣でし時、総身に悪寒さむけを感じ、頭痛発し胸悪く、はなはだ苦しかりし事までは記憶しれど、帰宅後の事は一切知らず、ただ夢に、はなはだ大なる台閣うてなありて、その広庭のことに奇麗なる中に公卿くげおぼしき人々の彼方此方あちこち逍遙しょうょうる状を見たり。この夢覚むると同時に心地我れに返りたり』と答えたのでした。

 市治郎は九月十日に至り、いよいよ快方に向いましたが、お骨々痛み、四肢の運動不自由なので、当人は大変口惜しがり、『いかなる武士の幽魂なれば、かくの如くわれを悩ますぞ。人も多きに、れに何の過失あやまちありてのことか』と毎日憤怨のことばを漏らすのでした。『全快の上は墓を堀り返えし恥をかかして呉れる』とまで言うことさえありました。そうするうちに再度の憑依霊現象が起りました。その次第はうなのです。

 元来岡崎傳四郎は酒造をもって副業としてりましたが、醸造用の大竈おおかまどを改築せむとて、天保十年夏の初め、土を集め水を注ぎて用意をしてる矢先きに、市治郎の大病騒ぎで暫時しばし工事が中止されて居ました。が、この頃病人も追々平癒に向いましたので、いよいよ古竈ふるかまどを取りくずしてその土を浜辺に棄て、ねて用意の土で新竈を築き、それに大釜を掛けて古酒の火入に宛てました。元来竈の改築に当りてはきよめのはらいを行いてからのちこれを使用する慣習なのですから、かねて山本神職の許に使者を遣わしてそれを依んだのでしたが、たまたま山本氏が馬場宮の遷宮せんぐうに出勤して不在るすであった為めに、急ぎの場合、祓いを為さずに竈に火を燃やしたのは九月十一日の事でした。で、去年新造の大桶を竈の側に据え、ず清酒一石五斗を煮てかの大桶に入れますと、たちまち桶のたがはじけ切れ、酒はことごとく流れて竈の内に入ると見る間に、酒は一時に火焔となり、屋内一面に猛火となりました。されば一村の騒動一と方ならず、大鼓を打ち、鐘を嗚らし、東西南北からおびただしき人数が火事場へ駆け寄せました。

 この時隣家の桝屋善吉という人が、役宅(即ち傳四郎の庄屋事務所)の方を案じて、走り行きて見ますと、血相を変えて神棚の下に坐し、火焔を睨み、歯を喰いしばりてるのは例の市治郎なのです。変だナとは思いましたが、火急の場合ですから打ち棄て置きて、馳せ戻って消防に従事しました。

 そうするうちに、不思議にも火事は格別大したことにならずに済み、七 ッ時頃には全く鎮火してしまいましたが、岡崎家では浄めのお祓をせずに竃を使った為めに崇りを受けたのであろうというので、例の宮崎大門氏を船で迎えに行き、竃浄かまどきよめの行事と神慮をなだめ奉る御祈祷とを依みました。

 宮崎氏が到着した時には、山本參河さんが氏が馬場宮の勤めを終りて同家に到り、既に竈浄めの式をしまった所でした。主人の傳四郎は宮崎氏に向い『竈の方は御蔭様にて最早もはや気づかいなけれど、ただ市治郎こと、今日の大変によりてにわかに頭痛烈しく、鎮火後直ちに打臥したれば、折角のお出ましを幸いに加持をお頼み申し度し』と言うのでした。

 そこで宮崎氏は乞いに任せて加持を修しましたが、病人はただ昏々と眠りるのみで別段変ったこともありませんでした。その翌日又も宮崎氏、山本氏、吉富医師等が来会しました。吉富氏は市治郎を診察して『脈状はなはだ悪しきが、幽魂再びくべき理なければ、此度このたびは何症なりや不審なり』とて嘆声たんせいを発しました。医者がさじを投げた上はとて、宮崎、山本の両人が揃うて病人の側に寄りて祈祷に取りかかり、父の傳四郎もその席へ入って来ました。

 すると市治郎の態度が急に変り、言葉づかいも厳然として『傳四郎、養貞(吉富氏)杜氏とうじの三人、此所ここに来よ』と言い放ちました。

 岡崎家に於ける再度の憑霊現象が始まったのであります。


はしがき

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二 火災の予知


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